聖徳太子の没後、蘇我氏が権力独占を続け、聖徳太子の子孫を滅ぼすなど、横暴〈おうぼう〉な行為が目立つようになった。それに対して、中大兄皇子〈なかのおおえのおうじ・626~671〉は唐を手本とした天皇中心の中央集権国家の建設を目指していた。そこで彼は645年、中臣鎌足〈なかとみのかまたり・後に改姓して藤原鎌足となり、藤原氏の始祖とされる〉らと共に蘇我氏を滅ぼし、元号を大化〈たいか〉と定めた(645年)。このときの一連の改革は大化の改新と呼ばれている。中大兄皇子は668年に即位して天智〈てんじ〉天皇となり、彼や天武天皇〈てんむてんのう・631?~686〉・持統天皇〈じとうてんのう・645~702〉らによって、中央集権体制(律令体制)の建設が進められ、701年の大宝律令〈たいほうりつりょう〉の制定によって完成する。律令は近世にいたるまで政治の基本とされ、このときに定められた大臣、大蔵省、郡などの名称は今日も使われている。この時期も朝廷による仏教保護が続き、初唐文化の影響を強く受けた仏教文化が成立する。これを白鳳文化という。
①彫刻・絵画
興福寺仏頭〈こうふくじぶっとう〉→初唐様式とされる。
薬師三尊〈やくしさんそん〉像(薬師寺金堂)・聖観音〈しょうかんのん〉像(薬師寺東院堂)
→インドのグプタ王朝の仏像彫刻の技法の影響を受けている。
法隆寺金堂壁画〈ほうりゅうじこんどうへきが〉
インドのアジャンター壁画の様式と類似する。1949年に焼失する。
高松塚古墳壁画〈たかまつづかこふんへきが〉
高句麗の古墳壁画の影響を受けた彩色壁画。1972年に発見される。
②建築 薬師寺東塔〈やくしじとうとう〉
→三重塔〈さんじゅうのとう〉。
各階の軒下〈のきした〉に裳階〈もこし〉をつける。