テレビジョンが始まった、この年、まだ、すべてが馴《な》れていなかったから、間違《まちが》いをするのは、人間だけ、とは限っていなかった。いろんなものが、間違いをした。中でも、セット(装置)は、いろいろ、やってくれた。例えば、忍者《にんじや》が、土手に、ぴったりと、へばりついて、一足、一足、横ばいに移動している。土手と見えるのは、緑色の木綿《もめん》の大きな布で、これが一面に張ってあり、それには、同じ緑色の、きざんだものが、ところどころ、縫《ぬ》いつけてあった。どうやら、それは、草のつもりらしかった。忍者は更《さら》に動く。突然《とつぜん》、忍者は、足をすべらして、ズルズルと、ずり落ちた。芝居《しばい》なのか、偶然《ぐうぜん》なのか、とにかく、忍者役の俳優さんは、土手に、つかまった。途端《とたん》、土手の布も、一緒《いつしよ》にズルズルと下《さが》り始め、かぶせてあった土手の布の下から、土手の形に積んである木の箱《はこ》(通称ハコアシ)が、ばっちりと写った。忍者の人は、ひどく恐縮《きようしゆく》して、そのズルズルと、下にたるんだ、緑の土手を、引っぱり上げて、箱を、かくしにかかった。土手というのは、セットにしても、かなり大きいものだから、その、はじからはじまで、よじ登りながら、しかも、よつんばいで布をかぶせる、というのは、大変なことだった。ところが忍者が几帳面《きちようめん》にこれをやってたため、時間がなくなり、このドラマは、結末が、永久に、わからないままに終った。でも、こんなことは、しょっちゅうだった。
事務所のシーンで、課長の役の人が、上の半分が、くもりガラスになってるドアを開けたら、ドアが取れちゃって、しかも、この人は、力まかせにノブを引っぱったもので、取れたドアは、その人の頭の上から倒《たお》れかかり、その人の体の形どおりにガラスが割れて、ドアは床《ゆか》に落ち、その人は、ドアの枠《わく》の中に立ってる形になった。でも、この人は、ひどく、真面目《まじめ》な性格だったので、頭にコブを作り、髪《かみ》の毛をガラスの破片《はへん》だらけにしながらも、床に落ちてるドアを踏《ふ》み越《こ》え、事務所に入り、叫《さけ》んだ。
「部長! この書類に、ハンコお願いします!」
ところで、トットにも、災難が、ふりかかった。今日のトットの役は、恋人《こいびと》と日比谷公会堂《ひびやこうかいどう》でデイトをして、音楽を聞き、少し散歩なんかして、彼《かれ》と別れて家に帰り、その日のことをベッドに入って日記に書く、といった、娘役《むすめやく》だった。ナマ放送の大変なことに、もう一つ、�衣裳《いしよう》がえ�があった。途中《とちゆう》で撮《と》るのを止《と》めて衣裳を着がえるわけには、いかないから、日が変ったことや、時間の経過を現すために衣裳を替《か》えたくても、出づっぱりの時は、どうしようもなかった。脚本《きやくほん》を書く方々も、まだ、そういうことを、あまり頭に置かないで書いていらした。そこで、衣裳さんと俳優さんが、短時間のうちに、どう、うまく替えるかが、勝負どころだった。一番よく使われた方法は、一つのシーンが終って、俳優さんが、次のセットに走っていく間に、衣裳さんも一緒に走って、後ろからぬがせて、着せる、という、やりかただった。まるで歌舞伎《かぶき》の、「お染《そめ》の七役《ななやく》」の早変りでも、やってるみたいだ、と、トットは思った。でも、時々、思いがけないことも起った。女の衣裳さんが、凄《すご》い勢いで、ある有名な女優さんのズボンの、後ろのチャックを走りながら、さげた。そして、ズボンを降ろすとき、パンティーまで、つかんでしまってて、一緒に降ろしたものだから、スタジオの、丁度、まん中へんで、
「あっ!!」
という間に、大変なものが見えてしまった。でも、女優さんのほうは、必死に走りつつあるので、あまりぬげた感覚がないみたいだったので、衣裳さんは、また、凄い勢いで、上にあげちゃった。その瞬間《しゆんかん》、見損《みそこ》なったカメラさんや大道具さんは、あとあとまで、残念がった。
トットも、この前、走りながら、頭からワンピースを、ぬがされたもので、スリップ一枚で、スタジオの中央を横切ることになった。そこで、
「やーだ」
と、トットがいったら、衣裳さんの中で、一番、偉《えら》い、石井チャンという女の衣裳さんに、どなられた。
「なにが、�やーだ�だよ。間に合わないほうが、よっぽど、�やーだ�だよ!!」
石井チャンは、まるまると肥《ふと》っていて、ソバカスのある、血色のいい顔で、じれったそうに、いった。たしかに、そうだった。でも、やっぱり、スリップ一枚になるのは、恥《はず》かしいことだった。
ところで、今日、トットは、日比谷公会堂で、デイトをして、散歩のあと、すぐ、自分のベッドに入っていなければいけないので、パジャマに変る必要がある。そこでトットは、いいことを、思いついた。
(よそゆきの下に、パジャマを着とけばいい!)
着るよりは、ぬぐほうが、ずっと早い。少しぐらい、着ぶくれても、そのほうがいい! 石井チャンも賛成してくれた。なにしろ、散歩のあと、カメラが、スタジオに作った夜空の月を写してる間に、日比谷公園のセットから、パジャマになって、自分のベッドに、とびこんでいなくては、いけないのだから。
(でも、こういうのって、私、得意なのよね)
と、トットは、自分に、いった。小さい時から、トットは、すばしっこいので有名だった。そのために、ひどい目にあったこともあるけど、とにかく、すばしっこいことが、こんな時に役立つなんて、うれしい、と、トットは思った。
本番の当日になった。トットは、石井チャンの選んでくれて、自分も気に入ったピンク色のワンピースの下に、水色のパジャマを着た。そして、パジャマのズボンの裾《すそ》を、注意深くまくって、スカートの中に、かくした。石井チャンは、離《はな》れて見て、
「OK」
といった。あとは、お月様が写ってる間に、石井チャンが、後ろからワンピースを、ぬがしてくれればいい。
トットは、日比谷公会堂の大きな壁のところに立って、恋人を待っていた。チラリ、と腕時計《うでどけい》を見るのも、「待ってます」という演技のつもりだった。
そのとき、トットは、ふと、背中に、ヘンな重みを感じた。いやな予感がした。でも、後ろには、日比谷公会堂の壁があるだけだった。
(まさか!)
トットは、自分の疑いを打ち消した。
(まさか、この壁が、私に、よりかかってるはず、ないわ)
でも、念のために、恋人を探すふりして、一歩、前に出てみた。
(わあ!!)
壁は、完全に、トットに、よりかかっていた。なぜなら、一歩、前に出たら、背中が、もっと、重くなったから。トットは、いそいで、背中で、押《お》して、もとに、もどってみた。壁のほうも、すぐ、一度は、もとにもどる様子だけど、次の瞬間、やはり、ズシリ、と、トットの背中に、もたれた。トットは、こわくなった。でも、もう一ぺん、試《ため》してみよう。今度は、思い切って、一メートルくらい前進してみた。壁は、もう間違いなく、トットの背中によりかかっている。トットは、たきぎを背負った、二宮金次郎のような、体型になってしまった。
(どうしよう)
もし歩き出したら、この大きな壁は、完全にカメラのほうまで倒れかかってしまう。誰《だれ》か気がついてくれないかと、キョロキョロしたけど、F・Dさんは、恋人役の俳優に出すキューに忙《いそ》がしく、また、他《ほか》の誰も、この大事件に気づいてる人は、いそうにも、なかった。とうとう、恋人が来てしまった。「やあー」とか、手をあげながら、何も知らない、その人は、トットの腕をとると、
「ごめんね、さあ、行こう」
と、いった。でも、トットとしては、行くわけには、いかない。
このとき、トットは、NHKの名誉《めいよ》を、双肩《そうけん》に、担《にな》ってる、という気がした。トットが、グズグズしているので、恋人役の人は、不安な表情になって、
「ねえ、行こうよ」
と、強く、ひっぱった。これが、舞台《ぶたい》なら、小声で、「壁が、倒れかかってる!」とか、いえるんだけど、マイクロフォン、というのは、どんな音も、ひろってしまうから、口が裂《さ》けても、それは、いえないのだった。そこが、なにもかも、失敗をバラしても、それさえが、ネタになって、大受けに受けるバラエティー番組と、違うところだった。すったもんだしてるうちに、トットは、何か、今度は、足許《あしもと》のほうにも、いやな感じがした。でも、とにかく、背中のものを、なんとかしなくちゃ、ならない。その頃《ころ》、やっと、誰かが、気がついてくれたらしく、ふっ、と背中が軽くなった。背中の荷を、おろす、というのは、こういう気分か、と、トットは、うれしくなって、機嫌《きげん》よく、
「さあ、行きましょう」
と、恋人に、いった。その俳優の人は、やっと、トットが行く気になったので、安心した様子で、
「うん」
といった。二人は、その場を去った。トットが、ふり返ってみると、壁は、ちゃんと、立っていた。
(ああ、よかった……)
トットとしては、とにかく、自分の発見と、自分の才覚で、何もかも、うまくいった、と、うれしかった。なんだか、やっと、プロになったような、そんな気もした。トットが、写っていない所まで来たとき、石井チャンが、近づいて来て、低い声で、いった。
「どうしたの? パジャマのズボンが、両方ともスカートから、出ちゃってたよ?! だらしのない恰好《かつこう》だったねえ……」
「えっ?」
見ると、スカートから、ダラダラと、パジャマが、さがっている。あの壁騒動《かべそうどう》で、ずり下《さが》ったんだ。どうも足許が気持が悪いと思ったのは、そのせいだったのだ、と、トットに、わかった。
(壁のせいよ!)
と、いいかけて、トットは、やめた。誰のせいでもない。自分が�パジャマを中に着る�と、いい出したんだし、ゴムかなんかで、止めておけば良かったのに、すぐ、おろせるように、まくっておいただけ、なのが、いけないのだもの。
「ごめんね」
と、トットは、薄暗《うすぐら》い中で、石井チャンに、いった。石井チャンは、まるまるとした手で、トットの手を握《にぎ》ると、耳もとで、いった。
「でも、うまく、やったよ。あれで、壁が倒れたら、いま頃、大変だよ。私が気がついて、大道具さんに、いったんだけどさ……」
苦労人らしい、根っからの衣裳さんの石井チャンの言葉は、
(知っててくれたんだ!)
と、トットには、うれしかった。
このとき、よくは、わからないけど、テレビジョンというのは、どんなことが起っても、その場は、誰の責任でもなく、画面に写ってる自分自身で、なんとしてでも、うまく切り抜《ぬ》けなければ、やっていかれないもの、と、トットは、肌《はだ》で感じた。
あとになれば、笑い話になるような事の連続だったけど、この時期、中にいた人達《ひとたち》は、それなりに、みんな、床を這《は》い、手に傷をし、青ざめ、かけずり廻《まわ》っていた。
テレビジョンが、後《のち》に、恐《おそ》ろしいまでの、はなやかな世界に、なるとは、この頃、想像もしていなかった。むしろ、大変な割には、地味な仕事だな、という風にさえ、感じていた。日本中で、テレビジョンの台数が、まだ、九百台ぐらいしかなくて、大学卒の月給が一万一千円のとき、テレビジョン一台の値段は、二十五万円もした、そんな頃だったから。
「それにしても、あの壁は、重かったナ」
と、トットは、夜、疲《つか》れ切って家に帰り、ベッドの中で、しみじみと考えていた。