「私、あの人と結婚する!」
そうトットが言った時から、どういうわけか、ママは、トットを、(可哀《かわい》そうに)という風に見始めた。客観的に見て、この結婚は、申し分のないものだった。嫁《とつ》いで行って、みんなに可愛《かわい》がられるのは、目に見えていた。結婚相手の男性は、将来を嘱望《しよくぼう》されていた。まして、嫁《よめ》と姑《しゆうとめ》は難かしい、といわれているのに、そのお姑さんが、誰《だれ》よりもトットを気に入って下さっている、というのは、ママ達《たち》にとっても、安心のはずだった。
ところが、ママは、あまりウキウキとした様子もなく、むしろ、同情するような感じで、ある日、こういった。
「ねえ、結婚したら、オーバーなんかも、やっぱり、そう自由に作って頂く、ってことも出来ないと思うから、作ってあげるわ」
トットは、大よろこびで、ママと自由ヶ丘に出かけた。それまでトットが持っていたオーバーといえば、濃《こ》いブルーの、プリンセス・ラインのと、ママのお古のエンジ色のギャバジンのとの二枚だった。自由ヶ丘の洋服屋さんで、トットとママは、あれこれ相談した。そして、結局、今まで持っていない、ということで、毛足の長いピンクのオーバーを、トットは絶対に欲《ほ》しい、と主張した。ママは賛成した。それから、ママは、驚《おどろ》いたことに、ブルーの品のいいのと、グリーンと黒のチェックの新らしい感じのものと、あと二枚も、オーバーを注文してくれた。どっちも、トットが決めかねて、最後まで、鏡の前で体に巻きつけてみたりしていたものだった。トットは、びっくりして、ママに聞いた。
「本当に、三枚も、いいの?」
黒いベレー帽《ぼう》に、黒のレインコートのママは、人が振《ふ》り返るほど美しかった。トットは、ママが自慢《じまん》だった。そのママが、いった。
「三枚あっても、一生っていうわけには、いかないけど、まあ、いいじゃない? お祝い!」
トットは、(ああ、こうして、家族と、少しずつ、別れていくんだな)と、多少センチメンタルな気分になった。それから、お店の人と相談して、オーバーのスタイルを決め、なるべく早く作って下さい、とお店の人にお願いして、トットとママは、店を出た。
トットが、「結婚する」と返事した事は、相手の家《うち》を、とても喜ばせた。お母さまからは、矢継《やつ》ぎ早に、色々なプレゼントが贈られて来た。結納《ゆいのう》といった形式的なことはしなかったけど、段々と、結納をした形になっていった。
そんなある日、トットは、仕事の帰り、青山の明治記念館の前を通りかかった。結婚式があった日らしく、中から、手に手に、引き出ものの風呂敷《ふろしき》包みを持った人が、ゾロゾロ出て来た。男の人はモーニング、女の人は、黒の留袖《とめそで》を着ていた。トットは、ふと、自分の結婚式を思った。「結婚する」とは、いったものの、結婚式のことまで想像していなかった。ウェディング・ドレスだとか、お色直しのドレスだの、というものに、まだ、ほとんど、みんなが気を使わない時代だった。それにしても、結婚式という具体的なことについて、何も考えていなかったことに、トットは気がついた。
「結婚式!」
そう思った途端《とたん》、トットは、足が止まってしまった。
(私は、お見合いで結婚する。恋愛《れんあい》じゃない。もし、結婚式の帰り道、「この人!」というような人に逢《あ》っちゃったら、どうするのかしら……)
トットは、いそいで家に帰ると、ママに、この件で相談した。ママは、
「ふむ」
というと、手をほほに当てて考えた。それから、いった。
「本当ねえ、それは問題だわね」
次の日、ママの友達の、このお見合いの話を持って来て下さった、おばさまが、トットの前に現れた。白髪《しらが》の混った毛で、きっちりとしたオカッパ頭にしてる、そのおばさまは、トットの前に、きちんと座《すわ》ると、こういった。
「恋愛結婚は、燃え上るのも早いかわりに、冷えるのも、早いものなのよ。その点、お見合い結婚がいいのは、結婚してから恋愛が始まること。そして、その恋愛は、いつまでも続く、と申しますわ」
説得力のある話しかただった。(なるほど)と、トットは思った。でも、冷静に考えてみると、トットのパパとママは、恋愛結婚だけど、こんなに長く続いている。いまだにパパは、家がよくて、仕事に行く時は、たいがい遅《おく》れて行くのに、帰って来る時は、つんのめって帰って来る。そして、玄関《げんかん》のドアを開けるが早いか、
「ママは?」
と聞くんだから。
段々と、トットは、憂鬱《ゆううつ》になって来た。一度も、恋愛しないで結婚してしまって、大丈夫《だいじようぶ》なのかしら。オカッパ頭のおばさまのいう通り、お見合い結婚して、徐々《じよじよ》に恋愛になっていくのも、いいかも知れないけど、やっぱり、一生に一度、出逢いがしらに、ぶつかるような恋愛も、してみたい……。だけど、一度、結婚したら、絶対に、別れる、というのは、いやだった。
(どうしよう……)
トットは、悩《なや》んでしまった。
そんな時、トットは、「ヤン坊《ぼう》ニン坊トン坊」の作曲の、服部正先生と、偶然《ぐうぜん》、NHKの向い側の喫茶店《きつさてん》で、お茶を飲むことになった。作曲家としては、大先生だけれど、大学生みたいな若々しいところが身近に感じられて、トット達、ヤン坊の里見京子さんや、ニン坊の横山道代さんも、いろんなことを、服部先生に相談していた。トットは何気なく、お茶を飲みながら、先生に、いった。
「私、いま、結婚しようかと思ってるんですけど、どうしたらいいか、わかんなくなっちゃってるんです。お相手は、とてもいい人なんだけど、特に、好き、っていうんでも、まだ、ないし……。結婚式の帰りに、�あ、この人!�と思うような人に、逢っちゃったら、どうしよう、って、そんなこと、心配になっちゃうんです」
服部先生は、トットの話を聞くと、恰幅《かつぷく》のいい体を、少し前かがみにすると、トットに、小さい声で、こうおっしゃった。
「君、その人の、どこか気に入らないところ、ない? 大きいとこで、いやだな、と思うとこは、始めから、わかってるんだから、別として、小さな、とるに足らないこと……例えば、お箸《はし》の持ちかたが、気になる、といった、そんな、一見、なんでもないような小さなとこで、気に入らないことがある場合ね、そういうのが、案外、重大でね。どうしても、気になるところがあったら、止《や》めたほうが、いいのよ」
やわらかな服部先生の声は、静かに、そして軽く、トットの胸を揺《ゆ》さぶった。ためらいと不安で一杯《いつぱい》だったトットは、この先生の言葉で、自分が、どうしたいのか、わかったような気がした。たしかに、トットは、一つだけ結婚相手の人の動作で、気になってるところがあった。それは、歩く時の感じだった。もしかすると、外科医独特の歩きかたなのかも知れないけど、トットが前から、(もっと若々しく歩けばいいのに)と思うような、そんな歩きかただった。難くせをつければ、誰にでも、気に入らないところがあるだろうことは、トットにだって、充分《じゆうぶん》わかっていた。それでいて、なお、服部先生の言葉には、真理があるような気がした。
(そういえば、先生は、離婚《りこん》の経験が、あるって、聞いた……)先生の体験から出たものかどうかは、伺《うかが》わなかったけど、(多分そうだろう)と、トットは思った。
いずれにしても、トットは、いま、自分が、どうしたいのか、やっとわかった。
トットは、決心した。(自分勝手とは思うけど、いろいろな点からいって、いま結婚するのは、どうも、私にとって、いいことでは、なさそうだ)そう考え出すと、これまでの自由さが大切に思え、仕事だって、まだ始めたばかりで、海のものとも、山のものとも、わからないのに、今、やめちゃうなんて……と、いう気になってきた。でもまた、こんなに固まってる話を、いま御破算《ごはさん》にするのは、どんなに大変か、と恐《おそ》ろしくもなった。その、ゴタゴタさが、いやさに、「結婚しちゃおう!!」って思う人も、きっと沢山《たくさん》いるに違《ちが》いない、とも思った。でも、トットは、自分の考えに結論を出し、勇気を出して、ママにいった。
「悪いけど、私、この結婚、やめたいんだけど」
ママは、「なんで?」と聞いた。トットは、自分の思ってることを伝えた。ママが、
「いまさら、そんなこといっても、もう、どうしようもないのよ」っていったら、どうしよう。でも、また、そういわれても仕方ないな、と、トットは、つらい気持でいた。パパは仕事に出かけていて、留守だった。ちょっとして、ママは、いった。
「そうね。やっぱり、あなたが、そう思うんなら、やめましょうよ。あちらには申しわけないけど」
はっきりいって、ママも、トットが、自分からお見合いしてみる、といったにもせよ、お見合いで、こんなに早く決まっちゃったことに、不安を感じていたのだった。
「でも、あちらのお母さまとか、あんなに、おっしゃって下さったのに、どうしよう……」
突然《とつぜん》トットは泣き声になった。
ママは、元気のある声で、いった。
「そりゃ、大変よ。でも、やってみるわ」
それから、どういう事があったか、ママはトットに、いちいち報告しなかった。しなかったけど、電話の工合《ぐあい》や、外に出かけて行く様子などで、かなり難かしいことなのだな、と、トットにも、わかった。そして、心の底から、相手のお家の皆さんを、おさわがせしたことを申しわけなく思った。(でも、自分の心には正直じゃなきゃいけない)とも、思っていた。
かなり経《た》った、ある日のことだった。ママは、トットに、いった。
「万事、うまく、おさまりました。御安心ください!」
トットは、本当に、ホッとした。と同時に、勝手すぎる考えだけど、相手のお家の皆《みな》さんに、もう逢えないことを、寂《さび》しく思った。そして、考えてみれば、自分みたいなものを大切にして下さる、とおっしゃってるお申し出を断わるなんて、バチが当らないかしら? とこわくもあった。その日以来、ママは、トットを見ると、こう呼ぶのだった。
「結婚詐欺!」
どうして? と聞くトットに、ママは、半分、本気の声で、こういった。
「オーバー三枚も、作ってあげたじゃないの! こういうのを、結婚詐欺、というんです!」
このとき以来、トットは、お見合いは、一切《いつさい》、やめようと、心に誓《ちか》った。
結婚詐欺で手に入れたオーバーは、どれも、よく似合って、暖かく、トットを包んでくれた。いろんな意味で、ママの母親らしい気持の、一杯こもったオーバー。
でも、本当の話、心がとがめて、あまり着心地《きごこち》のいいオーバーじゃない、ってことを、トットは、誰にも、いえなかった。