「なんでもないです」
と走は席を立ち、
「まだ寝てなかったのか。なにか飲むかい?」
と清瀬は微笑んだ。
「ええ、喉が渇いちゃって」
まだ心配そうに走と清瀬をうかがいながら、王子が冷蔵庫を開ける。
台所から出ていく走の背に、
「インカレのこと、わかったね。これは先輩命令だ」
と清瀬が駄目押しした。
「はい」
と答えて廊下を横切った走は、自室のドアを乱暴に閉めた。
布団に横たわっても、眠りはなかなか訪れない。薄い窓ガラスの向こうから、その夜も
ひそやかな水のにおいが香っていた。
三度目の記録会で、キングも十七分以内のタイムを出すことができた。一人だけ残った
王子も、プレッシャーのなかで一生懸命に練習してはいる。しかしそれも走に言わせれ
ば、まだまだ甘いとしか思えないレベルのものだ。
だいたいどうして、王子さんはこんなに夜遅くまで起きてるんだ。暗い天井を見上げな
がら、走はいらいらと考える。だれよりも規則正しい生活をして、明日も朝早くから走り
こむべき立場のくせに、どうせまた漫画を読んでいたにちがいない。
王子と清瀬は、台所でなにか話していたようだったが、やがてそれぞれの足音が自室に
戻っていった。走の部屋の真上で、王子が歩く気配がする。
安普請の古い家屋なので、お互いの生活音は丸聞こえだ。目当ての漫画を探して、王子
は自分の宝の山を掘り返しているらしい。ばさばさと本が畳のうえになだれ落ちる音がし
た。漫画読んでないで、早く寝ろ。走はタオルケットをかぶり、手足を縮めて念じた。
やがて二階から、手入れの悪い風車がまわるような音が響きはじめた。王子が漫画を読
みながら、今夜もルームランナーでトレーニングしはじめたのだ。うるさくて眠れない。
走はタオルケットをはぎ、布団のそばに転がっていたボールペンを部屋の天井に投げつけ
た。
そんな些細な音に気づくことなく、王子は走の真上の部屋で、いつまでもいつまでも
ルームランナーを使って走りつづけていた。
王子だって頑張っている。最初はあんなに走るのをいやがって、すぐに音を上げていた
のに、いまはだれに言われなくとも、深夜に一人で練習している。箱根駅伝に、その予選
会に、竹青荘のみんなで出場するために。
だが走はどうしても、王子の努力を素直に認めることができなかった。結果のともなわ
ない努力など、無意味としか思えない。
自分が怒りたいのか泣きたいのか笑いたいのかわからず、走は再びタオルケットをか
ぶって、じっと目を閉じた。両手で耳をふさいでも、軋みながらまわるルームランナーの
音は、容赦なく階上の部屋から振りそそいだ。
六月末の二回目の東体大記録会で、王子はとうとう、十六分五十八秒一四というタイム
を出した。十七分の壁を破ったのだ。竹青荘のメンバーはついに全員、箱根駅伝の予選会
に出場する権利を得た。
レースが終わったあと、住人たちはグラウンドの隅で手を取りあって喜んだ。喜びが高
じて、手をつないだまま円を描いてぐるぐる踊る。UFOを呼ぶ儀式のような円陣は、疲
労困憊した王子がへたりこむまで、まわりつづけた。
走は円には加わらず、少し離れたところで住人たちの姿を眺めていた。予選会に出場で
きることになって、うれしいし安心したのはたしかだが、喜ぶには早すぎると思った。
盛りあがる竹青荘のメンバーを見て、ほかの大学の選手たちが囁いている。
「予選会に出られることになったんだって。なかなかやるね」
「どう考えても予選会止まりだけど」
「いい記念になるだろうから、まあいいんじゃない」
そう言って小さく笑っている。いろんな意味がこめられた笑いであることを、走は敏感
に察した。
輪からはずれたところにいる走を見つけ、東体大の が近づいてきた。
「おまえら、箱根を目指してるんだってな。予選会で恥をかかないようにしろよ」
走は をにらみつけた。悔しかったが、なにも言い返せない。
「走」
と清瀬に手招きされ、走は を放って円陣のほうへ歩いていった。
「みんな、よく頑張ったな」
清瀬は淡々とねぎらった。「箱根に一歩近づいた。これからは、距離ものばしていける
ように練習していこう。だがとりあえず今夜は、盛大に宴会だ。晩のジョッグを終えた
ら、双子の部屋に集合」
「やった!」
双子が歓声を上げた。走は笑顔の下に、冷めた気持ちを隠した。宴会なんて、しょっ
ちゅうやってるじゃないか。
この時点での、メンバーのベスト公認記録を走は思い浮かべる。
走 十四分〇九秒九五
ハイジ 十四分二十秒二四
ムサ 十四分四十九秒四六
ジョージ 十五分〇三秒〇八
ジョータ 十五分〇四秒五八
ユキ 十五分三十六秒四五
神童 十五分三十九秒二三
ニコチャン 十五分五十九秒四九
キング 十六分〇三秒八三
王子 十六分五十八秒一四
メンバーのほとんどは、一線で戦えるほどの力がまだついていない。予選会を突破でき
るタイムからは、程遠いレベルにある。それが現実だった。
予選会出場を決めて、あせりから解放されるどころか、走の心はますます焦燥にかられ
た。だから双子の部屋での宴会でも、酒がちっともおいしくない。沸き立つ雰囲気に同調
できず、走は窓辺に座っていた。
清瀬の手料理をあらかたたいらげ、一息ついたところで、住人たちは口々に王子を称え
はじめた。
「どうなるかと思ったけど、王子は頑張ったよなあ」
とキング。
「今日のラストスパートも、すごかったよ。十七分ぎりぎりで、ちゃんとゴールしたもん
ね」
と神童。
「はい。王子さんの勇姿に、私は少し涙しました」
とムサ。