仙台城西高にいたなら、蔵原にもわかるんじゃないか。そう問われ、走は首を振る。い
くら全国大会での優勝経験がある高校だからといって、箱根の常勝校とは比べものになら
ないだろう。走りのレベルも、周囲からのプレッシャーも。走にはうかがいしれない重荷
を抱え、藤岡は走る世界に身を置いている。
「俺は六道大を、勝利に導かなければならない」
藤岡はビニールシートから立ちあがり、ジャージを脱いだ。すぐに後輩が駆け寄ってき
て、うやうやしさすら感じさせる手つきで、ジャージを受け取る。
房総大は八区の二十キロ地点で、未だトップを走りつづけていた。六道大は追いあげて
はいるが、その差は一分ある。
「同時に自分自身と、蔵原、おまえに勝つ」
「俺も、俺自身と藤岡さんとに勝ってみせます」
走も立って、藤岡と真っ正面から向きあった。藤岡は、ふっと息をもらした。笑ったよ
うだった。軽くうなずいた藤岡は、中継ラインへ歩みかけ、なにか思い立ったのか走を振
り返った。
「清瀬と俺が、高校でチームメイトだったのは言っただろう」
「はい」
「六道大からは、清瀬にも声がかかった。俺は、大学でも清瀬とともに走れることを、楽
しみにしていた。だがあいつは断って、一般入試で寛政大に入学した」
そうだったのか。六道大に陸上推薦で入れるなんて、高校生ランナーの憧れといっても
いいことなのに。走は、昨夜東海道線のなかで聞いた清瀬の話を思い起こした。
ハイジさん。あなたは俺を、「魂の底から走ることを追求している」と言ってくれたけ
ど、それはあなただ。あなたのことだよ。
熱い思いがこみあげ、唇を みしめた走に、藤岡は言った。
「蔵原。清瀬が選び取ったものがなんなのかを、俺に見せてくれ」
「必ず」
と走は答えた。
午前十一時十三分四十五秒。六道大の藤岡は襷を手に、二位で戸塚中継所から走りだし
た。六道大の復路逆転、総合優勝への期待を、一身に担って。首位を行く房総大との差
は、五十八秒。
箱根駅伝は、復路九区に突入した。
藤岡の背中を見送った走は、自分が緊張していることに気づいた。レース前の高揚感に
変えようとしても、指先が震える。
ジョージが携帯テレビを手に、やっと走のそばに戻ってきた。
「キングさんは、東体大の に追いつけなさそうだよ。それどころか、帝東大に抜かれ
ちゃうかも」
大丈夫だ、俺が抜きかえす。そう言おうとして、声が喉に詰まった。走は気取られぬよ
うに、細く長く息を吐いた。
「ちょっとハイジさんに電話する」
と走は言った。ジョージは、走が清瀬の脚を心配していると解釈したらしい。「うん」
と言って、携帯テレビの画面に視線を落とす。走はさりげなくジョージから離れ、清瀬の
番号を呼びだした。
「はい、清瀬」
ワンコールもしないうちに、清瀬と通話がつながった。
「ハイジさん」
と呼びかける声がなさけなくかすれ、走は咳払いする。
「めずらしい。弱気になってるのか」
からかうように清瀬が言った。それで少し、走は平常心を取り戻した。
「いえ、脚の具合はどうかと思って……」
「痛み止めも効いて、好調だ」
清瀬の声は揺るぎなく、走の耳に心地よく届く。「中継所で、藤岡と会ったか?」
「はい。いろいろ話しました。それで俺、たしかにちょっと弱気になったみたいだ」
「ばかだなあ、走」
清瀬は笑った。「俺は藤岡のこともよく知っている。そのうえで断言するが、きみはす
ごいランナーだ。これからもっと速く、もっと強くなれる」
「いまはまだ、藤岡さんに勝てないってことですか?」
弱気をぬぐいきれていなかったので、走は不安になって思わず聞いた。
「記録会やインカレに出るのを、きみがいやがったことがあったな。そのときに俺が言っ
たこと、覚えてるか?」
「『強くなれ』って、ハイジさんは言いました」
「そのあとだ」
「そのあと……」
なんだっただろう、と走は記憶をたどった。清瀬はさっさと答えを告げた。
「『きみを信じる』と俺は言ったんだ。思い出したか?」
そうだ。東体大の記録会をまえに、俺は怖じ気づいていた。陸上強豪校に入った に、
負けるんじゃないかと怖かった。暴力沙汰を起こした選手だ、と後ろ指を指されるかもし
れない。俺の本性がばれたら、ようやく見つけた居心地のいい場所から、追い払われてし
まうかもしれない。一緒に寝起きし、練習し、仲良くなりつつあった竹青荘の住人たち
に、嫌われてしまうかもしれない。そういうすべてが、怖かったんだ。
でもハイジさんは言ってくれた。俺を信じると言ってくれた。俺はそれで、記録会に出
ようと決意できたし、強さってなんだろうと考えるようになった。
「思い出しました」
と走は言った。
清瀬は、「実は」と厳かに切りだした。
「あれは嘘だった」
「はい!?」
走が奇声に近い声を発したので、ジョージが驚いて顔を上げた。通話口の向こうで、清
瀬がわざわざ繰り返す。
「きみを信じると言ったのは、嘘だったんだ」
走は泣きたくなった。
「そんなあんた、いまさら……」
「しかたないだろう」
清瀬はため息をついた。「知りあってまだ一カ月ぐらいだったんだ。きみが信ずるに足
る人間かどうかなんて、わかりようがない。だが、ああでも言わなければ、きみは公式の
記録会にも試合にも、出ないままでいそうだったから。苦肉の策ってやつだな」
聞いているうちに、走は清瀬の言わんとするところがわかってきた。
「じゃあ、いまはどうですか?」
期待と不安で、声がうわずらないようにするのが精一杯だ。言ってくれ。俺を信じる
と、今度こそ本当に。蔵原走は、だれよりも強く速いランナーだと、藤岡に負けるはずが
ないと、言ってくれ。