と答えたのは、二号車に乗った中継アナウンサーだ。「真中、北関東の両選手は、最初
の一キロを二分四十秒で入りました。ものすごい追いあげを見せ、西京、喜久井にどんど
ん近づいてきています」
「ということは」
谷中とともにスタジオにいるメインアナウンサーが、状況を整理する。「現在、房総大
と六道大がトップ争い。大和大が、六道に遅れること五分少々で三位。大和大の一分後に
襷リレーした四位の西京大が、後続の喜久井、真中、北関東大の集団に吸収されかかって
いる、というわけですね」
「復路も後半になって、動きが再び激しくなりそうですね」
谷中は身を乗りだしてモニターに見入る。そこへ今度は、現在八位を行く動地堂大につ
いた三号車から、中継映像が送られてきた。
「こちら三号車です。動地堂の背後に、九位の横浜大の姿が、早くも見えてきました!
横浜大の一キロの入りは、二分四十三秒。戸塚で横浜大の二秒後に襷リレーした、十位の
東体大は引き離された模様です」
「いやはや、どの選手も怒濤の走りを見せています」
メインアナウンサーは、感心を通りこしてあきれたような声になった。九区は二十三キ
ロある長丁場だというのに、最初から二分四十秒台で突っ込んでいく。ペース配分を度外
視した、無謀な走りだ。
「これはいったい、どういうことでしょうか谷中さん」
「横浜大、東体大は、シード権獲得圏内ぎりぎりの順位ですからね。必死にもなるでしょ
う。九区の最初の三キロは下りですから、スピードも出やすい。ただ、ハイペースで入っ
たために、あとでリズムを作れない選手が出てくるかもしれません」
「順位の変動がはじまりつつありますが、揺り戻しもあるかもしれない、ということです
ね」
メインアナウンサーは、モニターを覗きこんだ。「おや、雪ですか? また、雪がちら
つきだしたようです」
三台の中継車ではフォローしきれぬ下位チームには、機動力のある中継バイクがついて
いる。その中継バイクからの映像が入ってきたのは、ちょうど粉雪が舞いはじめたとき
だった。
「こちら中継バイクです。現在、十三番目を走る寛政大についているのですが、大変なス
ピードです。一キロの通過タイムが、二分四十二秒!」
雪だ。視界を乱舞する、灰のような細かい欠片かけらに気づき、走はぼんやりと思っ
た。さっきまでは霧雨だったのに、いつのまに雪に変わったんだろう。どうりで寒いはず
だ。
箱根では雪だったとはいえ、戸塚を過ぎた平野部のこのあたりで、また降りはじめると
は予想していなかった。走は長袖やアームウォーマーを着用していない。もっと温かい恰
好をすればよかったな、とちらりと考えたが、すぐに忘れた。正面から受ける寒風を跳ね
返すほど、体内が燃焼しはじめたからだ。
七秒差で先行していた帝東大の選手のことは、戸塚中継所を出て四百メートルも行かな
いうちに抜いた。いま、十三番目。東体大とのタイム差や実質的な順位を、思いわずらっ
たところで情報はない。ただ走るだけ。一秒でも早く鶴見中継所に行く。それだけだ。
走はゆるやかな下り坂に乗じて、最初の一キロを疾走した。腕時計でラップをたしかめ
る必要は感じなかった。たしかめずとも、自分がこれまでになく走れていることがわか
る。関節の可動はなめらかだ。血流は遅滞なく全身に酸素を行き渡らせる。それほど力を
こめているとも思えないのに、脚は次々に地を蹴って、足裏と接する路面の感触を伝え
る。
調子はすこぶるいい。だが走の心は凪ないでいた。未来を映す魔法の水盤みたいに、波
ひとつ立たず静せい謐ひつに澄み渡っている。
どうしたんだろう。もしかして俺は、闘志を失ってしまってるんじゃないか。走はふい
に不安になった。リズムに乗っていると感じるのは錯覚で、本当はとんでもなく遅いペー
スで走ってるんじゃないか。
はじめて腕時計を見る。二キロを五分三十秒。やはり悪くない。だけどもしかしたら、
時計が壊れているのかもしれない。そうだったら、どうしよう。
動揺したせいで、少し呼吸が乱れる。その途端、沿道からの声援が耳に押し寄せてき
た。ガードレールに沿って、はるか彼方までひとの壁が延々と築かれている。見物渋滞し
た対向車線の、車列のなかからも走に視線が注がれている。わざわざ車の窓を開け、声を
かけてくれるひともいた。
斜め前方から、中継バイクのカメラを向けられていることに気づく。俺を映すってこと
は、いいペースで走れているんだ。ようやく確信が持てた走は、再び安定を取り戻した。
三キロ地点手前で、最初のアップダウンがある。分岐した道がゆるやかなアーチを描い
て山側を通り、また本線に合流する。走の体は短い上り坂にも自然に対応した。走るリズ
ムだけが、走のすべてを支配し、動かす。
周囲の景色と喧噪が、また徐々に意識から離脱していく。目に入る景色を、景色として
うまく認識できない。ピントの合いすぎた写真としか思えないほど平板だ。屋内プールに
いるみたいに、音が遠くで反響する。熱を宿した皮膚は、なにかに包まれているかのよう
だ。舞う雪が触れても、夢のなかに似てまるで温度を感じない。
純度の高い集中が、走の心身に不思議な平穏と無感覚をもたらしつつあった。だが走
は、そのことをまだ自覚できていなかった。
走の状態にいちはやく気づいたのは、もちろん清瀬だ。清瀬は王子とともに、鶴見中継
所で携帯電話の液晶画面に見入っていた。
中継バイクから送られた映像は、やや乱れながらも走の力走を伝える。ぶれも歪みもな
い、完璧なフォーム。そこから繰りだされる強さと速さが、「走りとはこういうものだ」
と見るものに告げている。
「うつくしいな」
と清瀬はつぶやいた。魔物に魅入られたように陶然とする清瀬の横顔に、王子はちらり
と視線を向ける。
「こんな走りを見せられたら、いやになりますよ」
王子はやるせなく笑った。「なんだかむなしい」
その気持ちは、清瀬にもよくわかった。完全なる美と力をまえにして、できることは無
に等しい。それを思い知らされるのはつらい。つらいけれど、見つめ、求めずにはいられ
ない。むなしいと言い表すほかにない葛藤が、たしかに心に生じる。
「努力ですべてがなんとかなると思うのは、傲慢だということだな」
王子をなだめ、励ますように清瀬は言った。自分自身に言いきかせる言葉でもあった。
「陸上はそれほど甘くない。だが、目指すべき場所はひとつじゃないさ」
物理的に同じ道を走っても、たどりつく場所はそれぞれちがう。どこかにある自分のた
めのゴール地点を、探して走る。考え、迷い、まちがえてはやり直す。
もしも答えが、到達するところが、ひとつだったなら。長距離に、これほどまで魅惑さ
れはしなかっただろう。走の走りを見てむなしいと感じ、それでもまだ走りたいと願うこ
となど、到底できないだろう。