こうして私は飽満の幾日かを過した。周囲に聞く砲声はだんだん稀になって行った。殊に南方の音は全く絶えた。私はその方面の日本軍が全滅し、叢林に屍体の横わった大領域を空想したが、私自身がこの楽園に生きながら、友軍が滅びたと空想したのはかなり奇妙である。或いは私は同胞の死を望んでいたのであろうか。それならば私は私の飽満の先に、死を予期していたのである。
しかし死には間がありそうであった。小屋の附近でも芋の木はまだ二十本以上あり、窪地の向うの斜面も、イタリヤの松のような笠葉をのせた形で蔽われているのが望見された。一日二本ずつ倒すとしても、ひと月は十分である。
私は無駄を出さないため、剣で丁寧に根を切り取り、水で洗い、皮を剥いた。火がなく、何でも生で食べねばならぬのが、私の楽園の唯一の欠点であったが、それはよく咀嚼すれば、補えると思われた。こうして一日のうち、食事の時間の占める割合は、かなり大きくなったが、やはり下痢が始って来た。
鶏は朝晩小屋に集って軒端に寝た。今や彼等は私の唯一の友であった。彼等はかつて私に狙撃されたのを忘れたらしく、平然と傍へ寄って来た。私は終日彼等を観察して、彼等が決して眼ばたきをしないのを発見した。
しかし私は退屈した。もし私がこの比島人の畠で一生を暮すことが望めたら、私は私の乏しい農業の知識を動員して、作物の維持を工夫したであろう。しかし私がこの畠を所有していない以上、それは望めなかった。
例えば私はまもなく小屋には夜だけ寝ることにして、昼間は背後の林中に、相手から見出されることなく、自分からは私の楽園全体を見渡せる地点を選んで、横わることにした。畠の持主たる比島人が、いつ帰って来るかわからないという危険に気づいたからである。要するに私は一個の不安な旅行者にすぎなかった。
米機も私の楽園の訪問者であった。或る時は澄んだ音で空を満たして、編隊が高く飛び、或る時は突如空気を破るような音で、単機が樹の梢をかすめて去った。操縦士は原色のスカーフを首に巻き、人形のように前方を向いたまま、不動で過ぎた。その孤独な様子が私の裡に一種の共感を呼び起した。これは病院を出て以来私の初めて見る人間であった。しかしそれが私の最も恐れねばならぬ敵なのである。この事実には楽園の飽満にあって、何か納得が行かないものがあった。
空には遠く近く、いつも爆音があった。様々の音色を持った音の中で、一つポンポンと軽く断続する音があった。これは航空機にはあり得ない音である。むしろモーター・ボートの音に近かった。ではどこかに海があるのだろうか。
私は改めて私の現在地を反省した。病院が砲撃されてから幾日経ったか、あてどなく歩く間に、計算を失していたが、凡そ十日であろう。私の伝って来た谷は、月がそれを直角に渡ったところをみれば、南北に横わっていた。その谷を私は十二粁北上したと思われる。結局私は現在中隊の宿営地から、約二十粁北方にいるはずである。
中隊は当時オルモックから四十粁南方にあったから、私はほぼその中間にいるわけである。海岸との距離は不明であるが、中隊の宿営地からの距離、つまり八粁とみて大過あるまい。
北極星の位置から判断すると、私の小屋は東北に向いている。してみれば向うの斜面は西南、つまり海に面しているわけである。
私はこの事実に気がつかず、こっちの斜面で芋に不足しないまま、向うの斜面に行って見なかった私の怠惰を悔いた。
切り倒された大木がそのまま橋となり、窪地をかなりの高さで越えていた。樹皮のはげた幹の下面には苔がついていた。その滑り易い上面をそろそろ渡りながら、私は既に海の微風を頬に感じるように思った。
そして海はたしかにそこにあった。窪地から流れ出した水は谷を開いて、海に向っていた。山地林は麓で尽き、先の平原には、恐らく私がこの丘に上るために見棄てた谷川が右から現われ、野を斜めに切って、また前方の林の蔭に隠れていた。その林の上に、二つの岬に抱かれた湾が、静かな水を湛えていた。
断続した爆音はその沖でしていた。船は見えなかったが、音は岬の蔭から、平らな海と野に反射し、空を渡って、真正面に吹きつけて来た。
二つの岬を形づくる丘の脈は、風景の両側に、競うように緑にふくれた頂を重ねながら、この山地までつながって来た。岬の形は見覚えがなかった。我々がオルモックから海岸沿いに南下し、初めて山へ入った地点より、さらに南に当るのであろう。
湾の底部には人家があるかも知れなかったが、林に遮られて海岸は全然見えなかった。視野に人家がないことは、むしろ私を安堵さした。ただ林の緑の上に、一つ光るものは何であろうかと疑問を残して、私は小屋に帰った。