レイテ島北部の地勢は、脊梁山脈が東タクロバンから北カリガラに到る平地になって尽きるところ、西へ耳のように張り出した半島から成立っている。脊梁山脈とは別の山系に属するらしい低い山脈が半島を南北に走り、南に長く突出して、オルモック湾を抱き、湾の底部の、いわば耳朶の附根に、オルモックの町を位置させている。
平行した二つの山脈の間は湿原で、その中をオルモックから北上する国道、所謂オルモック街道が北岸カリガラに通じ、海岸沿いに脊梁山脈の北を迂回して、東の方タクロバン平原に降りている。
米軍の東西の連絡は成り、リモン、バレンシヤ等、沿道の要地は尽くその手に落ちていた。国道には、絶えず戦車やトラックが走り、各所にゲリラの屯所があって、この国道を突破するのが、半島の西南端パロンポン集結の軍命令を受けた、レイテ島の全将兵の重大問題であった。リモン北方でパロンポンへ向う一道が分れているところ、通称「三叉路」附近が、それから先の湿原の行程を楽にするという意味で、特に敗兵達によって窺われた地点であった。
戦闘の初期、タクロバン平原から脊梁山脈を迂回しようとした米軍と一時対峙した精鋭部隊が、この辺に多少の部隊体形を保ちつつ残っていた。或る夜我々は丘の向うの国道上に、聞き馴れた日本軍の機銃と小銃の音が起るのを聞いた。強行突破であった。
「ちぇっ、困るなあ。ああ派手にやられたんじゃ、あとから行く俺達が、やりにくくってしようがねえ」
と一人の下士官が呟いた。
草原が巾着の底のように、丘に囲まれて行き止ったところから、一方の丘に上ると、頂上に兵達が群れていた。繁みに身を潜め、稜線の彼方を窺っていた。
前は湿原が拡がり、土手で高められた一条の広い道が、横に貫いていた、これが国道であった。
湿原は左側に開け、孤立したアカシヤの大木を、島のように霞ませつつ、遠い林まで到っているが、右側は道の向うに木のよく繁った丘が岬のように出張り、さらに裾から低い林を、磯のように、湿原の上に延ばしていた。
林の上に遠く、一つの岩山が雲をかぶっていた。半島山脈の主峰カンギポット山は、敗軍の首脳部によって「歓喜峰」と呼ばれていたが、その年老いた鐘状火山の山容は、レイテの敗兵にとって、「歓喜」よりは「恐怖」をもって形容されるに、ふさわしかった。
右手、視野のはずれの国道上に、少しばかり人家のかたまったところが、「三叉路」だということである。パロンポンへ行く道は、そこから分れ、ほぼ「歓喜峰」に向って、前方の丘裾の、林の中を廻って行く。
「要するに、あの林まで行きゃ、いいわけさ」と斜面に伏せた兵の一人が教えてくれた。
国道には時々米軍のトラックや、緑色の小型自動車が通った。私が接触した最初の「敵」である。トラックには深い鉄帽をかぶった兵士が乗り、我々の潜む斜面に、気紛れに自働小銃を打ち込んで行った。或いは何か叫んで行った。
「ちぇっ、馬鹿にしてやがら。給与もいいらしい。みんな豚みたいに肥りやがって」
木にさえぎられ姿は見えなかったが、その皮肉な調子は聞き覚えがあった。二日前とても追いつけないと諦めてしまった伍長のものであった。
「班長殿じゃありませんか」と思わず叫んで、私は立ち上った。
「こら、大きな声を出すな」
と傍から一団の指導者らしい下士官が、低声でたしなめた。
叢を廻ったところに、依然として三人連れのまま、脚絆を脱いで寝そべっているのは、たしかに伍長であった。彼は明らかに迷惑そうな表情を浮べた。
「何だ、おめえ、まだいたのか」
「はい、戦友に会いまして、ついおくれました。すまなくあります」
「別にすまねえことはねえが」彼は苦笑した。「これからあの道を突切るのが一仕事だぞ」
「夜になってから、行くのでありますか」
「はは、夜じゃなきゃ、行けねえにはきまってるが、あの原っぱは相当もぐるぞ」
国道まで一町ばかり拡がった湿原は、これまで丘の裏側に通って来た草原と違い、表面に青海苔のような水草を浮べていた。
「どのくらいもぐるかな」
と上等兵がぼんやり湿原に眼を向けながら呟いた。
「そりゃ、おめえ、上から見ただけじゃ、わからねえ。どうも、もうちっとましなところが、ありそうなもんだが、みんなここへ団ってるところをみると、これでも一番いいんだろう」
「道からこっちは膝までだが、あっちは大したことないそうだ」
と少し離れて伏せていた兵士が振り向いて、答えるようにいった。
「へえ、よく知ってるな、おめえ、渡ったことでもあるのか」
この言葉の嘲笑的な調子は、いくら他人のいうことが信用出来ない戦場でも、少し異常であった。相手は傷つけられたように、暫く黙っていたが、最後に誰にいうとなく呟いた。
「前に三叉路の弾薬補給所にいたっていう兵隊から聞いたんだ……嘘だと思うんなら、勝手にしろ。誰も頼みゃしねえ」
そして立ち上って行ってしまった。背の高い、手足の関節の接合が悪いように、ふらふら歩く兵士であった。
「ふふ、変な野郎だな。何も怒るこたねえだろうに」と伍長はなおも笑顔をくずさずにいった。「まあ、なんでもいい。お互えに、とにかくパロンポンとやらへ行けりゃいいんだ。そこで司令官か参謀が、大発でセブへ渡るんでも、見送らして貰おうじゃねえか」
一行で最も体の衰弱もひどく、気も弱そうな一等兵が、私の傍に寄って来た。
「おい、お前、塩まだあるか」
塩は雑嚢の中で雨に浸されていた。芋はとっくに尽きていたので、私は道々雑嚢を透して滲み出す、その鹹い水だけを嘗めて来たのである。
「はい、持っておりますが……」
「俺はもうねえんだ。班長に召し上げられたんでね。どうだろう、もう少し分けてくんねえか」
私は渋々雑嚢を開けた。雨に滲みた黒く粗い比島の塩は、雑嚢の底でごみと一緒に固っていた。私は指でつまもうとすると、
「待て、あっちへ行こう」
一等兵は私の手をとり、伍長から見えないところまで引いて行った。そして改めて、
「有難う」
といって塩を受け取ると、すぐ呑み込んでしまった。
「ちょっとお前に忠告したいことがあるんだがね」
「…………」
「お前は班長殿、班長殿って、俺達について廻ってるが、いい加減にした方が、いいんだぜ。俺はニューギニヤからずっとあの班長と一緒だが、こき使われるばかりで、何もして貰った覚えはねえ。班長ってのは、兵舎じゃ可愛がってくれるが、前線じゃ、なまじ戦争を知ってるだけに、冷たいもんだよ。お前もそうやってついてるうちにゃ、どうせその塩もすっかり巻き上げられた上、……まあ、おっぽり出されるのが落ちさ」
「ニューギニヤで人間を食ったって、ほんとですか」
「人間か」といって、彼は夢みるように眼を空へ向けて、暫く黙っていた。「まさか、ってことにしておこう……そんな話より、面白え話してやろう。ブナから転進の途中のこった。ここよりもっとひでえ行軍だったよ。胸を射たれて、道端まで匍い出して、虫の息の若い兵隊を見つけた。『あいつを殺して下さい。あいつは非国民です』っていうんだ。彼奴っていうのは、その兵隊と二人で歩いてた分隊長さ。だんだん聞いてみると、そいつは分隊長から一緒に投降しようと誘われたんだね。ところがきかなかったもんで、分隊長がそいつを射って、一人で行っちまったらしい。ひでえことをしやがる。殺さなくってもよさそうなもんだよ、ねえ」
「そうですねえ」
「あの頃はまだ純情な兵隊が沢山いた。それでも、班長にゃそういうひでえ奴がいたのさ。だから……」
「ええ」
「だから、うちの班長もそうだとはいわねえが、要するに下士官なんて、心で何を思ってるのか、わかんねえものさ……俺は部下だから、離れるわけにゃいかねえが、お前は勝手な体だ。補充兵一人じゃ、さぞ心細かろうが、とにかく一人で行ったらいいじゃねえか。それが一番だ」
「わかっております」
「そうか。わかってりゃいい。そのつもりで、まあ、ほどほどについて来ねえ」
帰って行く我々を、伍長は横眼で迎えた。
「何を、こそこそ話して来やがったんだ、お前達降服の相談か。手を挙げるんなら、今がチャンスだぞ。これからパロンポンの方へ入っちまっちゃ、何時また米さんにお眼にかかれるかわからねえんだ……ほら、また優しそうな兵隊が通らあ」
前に「巡回牧師」と書いた小型自動車が、国道を通るところであった。カーキ色の軍服を着た小柄の老人が、窓から首を出し、両側をきょろきょろ見廻しながら、運ばれて行った。
「やい、てめえ等」
と伍長の声で振り向くと、銃口が向いていた。
「投降出来るもんなら、してみろ。そんな真似、させねえんだぞ。恥を知れ。わざと落伍しようったって、そうは行かねえ。いやでもパロンポンまで、引っぱってくから、そう思え。変な顔をするねえ。はっはっはっはっは」