雨は依然として湿原を曇らせつつ、次第に暗くなって行った。まず遠い「歓喜峰」が消え、アカシヤの木が消え、次いで前面の林が消えて、やがて何も見るもののない闇となった。米軍の車輛の往来もとまった。
待ち構えたように、暗闇の中で物音が起った。重い物が濡れた土を滑り降りる音に、呟く声が交った。伍長も動く気配であった。
「みなさん、出掛けますか」
「うるせえ。これからは決して口を利くんじゃねえ。さもないと、叩殺すぞ」
木にぶつかり、叢に引っかかりながら、私は足から先に滑って斜面を降りた。両側にも同じ音が連続するのを意識していたが、降り切ると音が絶えた。人がいるのかいないのか、わからなかった。伍長達は無論探しようがなかった。
前方の湿原にも何も動く気配がなかった。何かの手違いで、みなは突破を中止したのではないだろうか、と恐怖が私を捉えた。
その時前方の暗闇で音がした。飯盒と剣の触れ合うような音であった。音に誘われるように私の足は前へ出た。
深い草の繁みがあり、水の流れる音がした。私の裸の足は冷い水を感じ、脛まで漬った。次の足は草の根の束に載った。それから二尺ほど落ち込み、そしてはっきり泥が始った。
泥は脛まであった。ずるずる入る足裏は、固定した基盤に触れなかった。そこまで踏みおろした泥の厚さで、やっと支えている、そういう不安定な感じであった。肩に担いだ銃の重さが、それだけ足を沈めるように思われた。進むにつれて、泥は深くなった。
右も左も、ただ闇が拡がっていた。雨はいつか止み、遠く犬の鳴く声が断続して、湿った空気の底を伝って耳に届いた。
頭を下げると、国道の土手の線が前方の闇を横に長く切って、ほのかに空と境しているのが見えた。それが目標であった。しかしなかなか近くならない。
泥はますます深く、膝を越した。片足を高く抜き、重心のかかった他方の足が、もぐりそうになるのをこらえ、抜いた足で、泥の上面を掃くように、大きく外に弧を描いて前へ出す。その足がずぶずぶと入る勢に乗って、後に残した足を抜き、同じように前へ出す。
私は疲れて来た。もし前方の泥がこれ以上深ければ、完全に動けなくなる。そしてそのまま夜が明けてしまえば、私は泥から上半身を出した姿で、道を通る米兵に射たれねばならぬ。
怖ろしい瞬間であった。他の兵士等もこんなひどい泥に漬っているのだろうか。みなも私と同じだろうか。それが確かめたかった。私は叫びたかった。この時私の声を抑えたのは、叫べばおこられるだろうという怖れであった。
引き返そうか、という考えが頭を過ぎたが、これまで来た泥を、帰って行くことも、出来そうな気がしなかった。ままよ、行けるところまで行って、動けなくなったら、殺されてもいいではないか。死ぬまでだ。これまでにも幾度か、そう自分に納得さして来たではないか。
死の観念は、私に家に帰ったような気楽さを与えた。どこへ行っても、何をしてみても、行手にきっとこれがあるところをみると、結局これが私の一番頼りになるものかも知れない。
私は不意に心が軽く、力が湧くように思った。泥から足を抜く動作の一つ一つも、最早私にはどうでもよい、任意のものと感じた。そして早く進んでいるような気がした。
この安易な感覚に伴って、一つの奇妙な感覚が生れて来た。私は自分の動作が、誰かに見られていると思った。私は立ち止った。しかし音もない暗闇の泥濘の中で、私を見ている者がいるはずはなかった。私はすぐ自分の錯覚を嗤い、再び前進に戻った。
しかし私は間違っていた。私を見ていた者はやはりいたのである。証拠は、見られているという感覚を否定してからは、私の動作は任意、つまり自由の感じを失い、早くなくなったことである。
目的の土手は意外に早く、不意に私の前に立ちふさがった。人の吐く息が聞えた。さし延べた私の左手は前に行く者の剣鞘に触れた。思わずつかむと、その者は、
「煩せえな。附くな、附くな」
と低く鋭くいった。伍長の声だと私は思った。
泥はやや浅くなっていた。それからまた二足、殆んど腿まで深く入って、次の足は棚のように高い、固い土盤に乗った。土手の底の一部であった。私は銃を下した。
一間ばかり高い土手の草に、人影の蠢く気配が感じられた。がさがさと草につかまって、登って行くらしかった。
国道は闇の中に、白く左右に延びていた。固い砂利に肱をつき、銃を曳きずって横切る時、私はその道の白さが、蟻のように匍う黒いもので埋められているのを認めた。犬の声がまた耳について来た。
対面の草の斜面を素速く滑り降りた。水がそこに音を立てて流れていた。音を聞きながら跨いで越した先の泥は、昼間見知らぬ兵士が予言したように、踝までしか入らなかった。何気なく立ち上って歩こうとすると、
「馬鹿、匍え」と声がかかった。
我々は匍って行った。前方には黒々と林の輪郭が見えた。あそこまで行けばよい。肱と膝を用いる中腰の匍匐の姿勢で、早く進んだ。
周囲の闇が私と同じ方向に進む、兵士の群で満ちているのを私は感じた。私は再び私ではなく我々になった。
チッとその群の中で、金属が金属に当る音がした。途端に前から光が来た。同時に弾が来た。「戦車」と二、三の声が叫んだ。
咄嗟に腹匍いになった私は、前方の林に、巨人の眼のように輝いて動く、数個の光源が並んでいるのを認める暇があった。そして私の両側の草原が、交錯する光芒に照された、伏せた兵士で埋っているのも。
土に額をつけた。顔の両側の小さな視野に光が輝く毎に、弾が風にあおられるように、頭の上を薙いで通った。私はじりじりと後へ下った。物を叩くような発射音と、左右の泥のはね上る鈍い音の合間に、私は自分の手と足の運動を、高速度写真を見るように、のろく意識した。
「やられた」
と負傷を告げる声が聞えた。
「わーっ」
と叫ぶ声が、立ち上り、前進して、途切れた。私は再びそれが伍長だと思った。
私も立ち上り、後向きに駈けた。土手の草は、その上に自分の影がうつるかと思われるほど、明るかった。その明るさ目がけて駈け続けた。
(土手の手前に溝があったっけ、あそこまで)
溝の岸の、エメラルドに光る草から、横ざまに倒れ込んだ。
溝の水は音を立てて流れていた。弾は私の上を渡り、光も渡って、相変らず土手を明るくし続けていた。暫くはこうしていられる、と私は思った。戦車は湿地を渡っては来ないだろう。米兵は多分突撃しては来ないだろう。
どれほど時間が経ったろう、銃声が熄んだ。探照燈の光だけ、いつまでも土手の草の上を往来し、やがて一つ残った光が、叫声のように一個所にじっとしていたが、消えた。
あとは再び暗黒と静寂であった。何も動くものはなかった。私と一緒に匍匐前進した兵達は、何処へ行ったかわからなかった。眼にかぶさる闇と、私の体に沿って流れ続け、次第に肌まで滲み込んで来るらしい水と、泥と草の匂いだけが、私の世界であった。
私は深く吐息し、身をもたげた。林は何事もなかったかのように、もとの暗さで、黒々とそこに横わっていた。犬の声がまた耳についた。
物音が、道の一方から進んで来た。雨であった。囁くような声が、混っていた。それから何かを歌うような、ブリキを叩くような音が。
私はのろのろと土手を攀じ、土に耳をつけて、近づく足音のないのを確めると、蟇のように素速く道を横切り、頭から先に転り落ちた。
そこで暫く休んだ後、私は再び泥を渡り出した。銃はいつか手になかった。そのためか、帰路は往路より、よほど楽なような気がした。