信州人ほど茶を嗜(たしな)む手合も鮮少(すくな)からう。斯(か)ういふ飲料(のみもの)を好むのは寒い山国に住む人々の性来の特色で、日に四五回づゝ集つて飲むことを楽みにする家族が多いのである。丑松も矢張(やはり)茶好の仲間には泄(も)れなかつた。茶器を引寄せ、無造作に入れて、濃く熱いやつを二人の客にも勧め、自分も亦茶椀を口唇(くちびる)に押宛(おしあ)て乍(なが)ら、香(かう)ばしく焙(あぶ)られた茶の葉のにほひを嗅いで見ると、急に気分が清々する。まあ蘇生(いきかへ)つたやうな心地(こゝろもち)になる。やがて丑松は茶椀を下に置いて、寺住の新しい経験を語り始めた。
『聞いて呉れ給へ。昨日の夕方、僕はこの寺の風呂に入つて見た。一日働いて疲労(くたぶ)れて居るところだつたから、入つた心地(こゝろもち)は格別さ。明窓(あかりまど)の障子を開けて見ると紫(しをん)の花なぞが咲いてるぢやないか。其時僕は左様(さう)思つたねえ。風呂に入り乍ら蟋蟀(きり/″\す)を聴くなんて、成程(なるほど)寺らしい趣味だと思つたねえ。今迄の下宿とは全然(まるで)様子が違ふ――まあ僕は自分の家(うち)へでも帰つたやうな心地(こゝろもち)がしたよ。』
『左様(さう)さなあ、普通の下宿ほど無趣味なものは無いからなあ。』と銀之助は新しい巻煙草に火を点(つ)けた。
『それから君、種々(いろ/\)なことがある。』と丑松は言葉を継いで、『第一、鼠の多いには僕も驚いた。』
『鼠?』と文平も膝を進める。
『昨夜(ゆうべ)は僕の枕頭(まくらもと)へも来た。慣(な)れなければ、鼠だつて気味が悪いぢやないか。あまり不思議だから、今朝其話をしたら、奥様の言草が面白い。猫を飼つて鼠を捕らせるよりか、自然に任せて養つてやるのが慈悲だ。なあに、食物(くひもの)さへ宛行(あてが)つて遣(や)れば、其様(そんな)に悪戯(いたづら)する動物ぢや無い。吾寺(うち)の鼠は温順(おとな)しいから御覧なさいツて。成程左様(さう)言はれて見ると、少許(すこし)も人を懼(おそ)れない。白昼(ひるま)ですら出て遊(あす)んで居る。はゝゝゝゝ、寺の内(なか)の光景(けしき)は違つたものだと思つたよ。』
『そいつは妙だ。』と銀之助は笑つて、『余程奥様といふ人は変つた婦人(をんな)と見えるね。』
『なに、それほど変つても居ないが、普通の人よりは宗教的なところがあるさ。さうかと思ふと、吾儕(わたしども)だつて高砂(たかさご)で一緒になつたんです、なんて、其様(そん)なことを言出す。だから、尼僧(あま)ともつかず、大黒(だいこく)ともつかず、と言つて普通の家(うち)の細君でもなし――まあ、門徒寺(もんとでら)に日を送る女といふものは僕も初めて見た。』
『外にはどんな人が居るのかい。』斯う銀之助は尋ねた。
『子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。彼(あれ)が左様(さう)だあね。誰も彼男(あのをとこ)を庄太と言ふものは無い――皆(みん)な「庄馬鹿」と言つてる。日に五度(ごたび)づつ、払暁(あけがた)、朝八時、十二時、入相(いりあひ)、夜の十時、これだけの鐘を撞(つ)くのが彼男(あのをとこ)の勤務(つとめ)なんださうだ。』
『それから、あの何は。住職は。』とまた銀之助が聞いた。
『住職は今留守さ。』
斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。終(しまひ)に、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
『へえ、風間さんの娘なんですか。』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『此頃(こなひだ)一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?』
『さう/\。』と丑松も思出したやうに、『たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様(さう)だつたねえ。』
『たしか左様だ。』