銀之助文平の二人は丑松に導かれて暗い楼梯(はしごだん)を上つて行つた。秋の日は銀杏の葉を通して、部屋の内へ射しこんで居たので、変色した壁紙、掛けてある軸、床の間に置並べた書物(ほん)と雑誌の類(たぐひ)まで、すべて黄に反射して見える。冷々(ひや/″\)とした空気は窓から入つて来て、斯の古い僧坊の内にも何となく涼爽(さはやか)な思を送るのであつた。机の上には例の『懴悔録』、読伏せて置いた其本に気がついたと見え、急に丑松は片隅へ押隠すやうにして、白い毛布を座蒲団がはりに出して薦(すゝ)めた。
『よく君は引越して歩く人さ。』と銀之助は身辺(あたり)を眺め廻し乍ら言つた。『一度瀬川君のやうに引越す癖が着くと、何度でも引越したくなるものと見える。まあ、部屋の具合なぞは、先の下宿の方が好ささうぢやないか。』
『何故(なぜ)御引越になつたんですか。』と文平も尋ねて見る。
『どうも彼処(あそこ)の家(うち)は喧(やかま)しくつて――』斯(か)う答へて丑松は平気を装はうとした。争はれないもので、困つたといふ気色(けしき)はもう顔に表れたのである。
『そりやあ寺の方が静は静だ。』と銀之助は一向頓着なく、『何ださうだねえ、先の下宿では穢多が逐出(おひだ)されたさうだねえ。』
『さう/\、左様(さう)いふ話ですなあ。』と文平も相槌(あひづち)を打つた。
『だから僕は斯う思つたのさ。』と銀之助は引取つて、『何か其様(そん)な一寸したつまらん事にでも感じて、それで彼(あの)下宿が嫌に成つたんぢやないかと。』
『どうして?』と丑松は問ひ反した。
『そこがそれ、君と僕と違ふところさ。』と銀之助は笑ひ乍ら、『実は此頃(こなひだ)或雑誌を読んだところが、其中に精神病患者のことが書いてあつた。斯うさ。或人が其男の住居(すまひ)の側(わき)に猫を捨てた。さあ、其猫の捨ててあつたのが気になつて、妻君にも相談しないで、其日の中にぷいと他へ引越して了つた。斯ういふ病的な頭脳(あたま)の人になると、捨てられた猫を見たのが移転(ひつこし)の動機になるなぞは珍しくも無い、といふ話があつたのさ。はゝゝゝゝ――僕は瀬川君を精神病患者だと言ふ訳では無いよ。しかし君の様子を見るのに、何処か身体の具合でも悪いやうだ。まあ、君は左様(さう)は思はないかね。だから穢多の逐出(おひだ)された話を聞くと、直に僕は彼(あ)の猫のことを思出したのさ。それで君が引越したくなつたのかと思つたのさ。』
『馬鹿なことを言ひたまへ。』と丑松は反返(そりかへ)つて笑つた。笑ふには笑つたが、然しそれは可笑(をかし)くて笑つたやうにも聞えなかつたのである。
『いや、戯言(じようだん)ぢやない。』と銀之助は丑松の顔を熟視(みまも)つた。『実際、君の顔色は好くない――診(み)て貰つては奈何(どう)かね。』
『僕は君、其様(そん)な病人ぢや無いよ。』と丑松は微笑(ほゝゑ)み乍ら答へた。
『しかし。』と銀之助は真面目(まじめ)になつて、『自分で知らないで居る病人はいくらも有る。君の身体は変調を来して居るに相違ない。夜寝られないなんて言ふところを見ても、どうしても生理的に異常がある――まあ僕は左様(さう)見た。』
『左様(さう)かねえ、左様見えるかねえ。』
『見えるともサ。妄想(まうさう)、妄想――今の患者の眼に映つた猫も、君の眼に映つた新平民も、皆(みん)な衰弱した神経の見せる幻像(まぼろし)さ。猫が捨てられたつて何だ――下らない。穢多が逐出(おひだ)されたつて何だ――当然(あたりまへ)ぢや無いか。』
『だから土屋君は困るよ。』と丑松は対手(あひて)の言葉を遮(さへぎ)つた。『何時(いつ)でも君は早呑込だ。自分で斯うだと決めて了ふと、もう他の事は耳に入らないんだから。』
『すこし左様(さう)いふ気味も有ますなあ。』と文平は如才なく。
『だつて引越し方があんまり唐突(だしぬけ)だからさ。』と言つて、銀之助は気を変へて、『しかし、寺の方が反つて勉強は出来るだらう。』
『以前(まへ)から僕は寺の生活といふものに興味を持つて居た。』と丑松は言出した。丁度下女の袈裟治(けさぢ)(北信に多くある女の名)が湯沸(ゆわかし)を持つて入つて来た。