急に入つて来た少年に妨げられて、敬之進は口を噤(つぐ)んだ。流許(ながしもと)に主婦(かみさん)、暗い洋燈(ランプ)の下で、かちや/\と皿小鉢を鳴らして居たが、其と見て少年の側へ駈寄つた。
『あれ、省吾さんでやすかい。』
と言はれて、省吾は用事ありげな顔付。
『吾家(うち)の父さんは居りやすか。』
『あゝ居なさりやすよ。』と主婦は答へた。
敬之進は顔を渋(しか)めた。入口の庭の薄暗いところに佇立(たゝず)んで居る省吾を炉辺(ろばた)まで連れて来て、つく/″\其可憐な様子を眺(なが)め乍(なが)ら、
『奈何(どう)した――何か用か。』
『あの、』と省吾は言淀(いひよど)んで、『母さんがねえ、今夜は早く父さんに御帰りなさいツて。』
『むゝ、また呼びによこしたのか――ちよツ、極(きま)りを遣(や)つてら。』と敬之進は独語(ひとりごと)のやうに言つた。
『そんなら父さんは帰りなさらないんですか。』と省吾はおづ/\尋ねて見る。
『帰るサ――御話が済(す)めば帰るサ。母さんに斯う言へ、父さんは学校の先生と御話して居ますから、其が済めば帰りますツて。』と言つて、敬之進は一段声を低くして、『省吾、母さんは今何してる?』
『籾(もみ)を片付けて居りやす。』
『左様(さう)か、まだ働いてるか。それから彼(あ)の……何か……母さんはまた例(いつも)のやうに怒つてやしなかつたか。』
省吾は答へなかつた。子供心にも、父を憐むといふ目付して、黙つて敬之進の顔を熟視(みまも)つたのである。
『まあ、冷(つめた)さうな手をしてるぢやないか。』と敬之進は省吾の手を握つて、『それ金銭(おあし)を呉れる。柿でも買へ。母さんや進には内証だぞ。さあ最早(もう)それで可(いゝ)から、早く帰つて――父さんが今言つた通りに――よしか。解つたか。』
省吾は首を垂れて、萎(しを)れ乍ら出て行つた。
『まあ聞いて呉れたまへ。』と敬之進は復(ま)た述懐を始めた。『ホラ、君が彼の蓮華寺へ引越す時、我輩も門前まで行きましたらう――実は、君だから斯様(こん)なこと迄も御話するんだが、彼寺には不義理なことがしてあつて、住職は非常に怒つて居る。我輩が飲む間は、交際(つきあ)はぬといふ。情ないとは思ふけれど、其様(そん)な関係で、今では娘の顔を見に行くことも出来ないやうな仕末。まあ、彼寺へ呉れて了つたお志保と、省吾と、それから亡くなつた総領と、斯う三人は今の家内の子では無いのさ。前(せん)の家内といふのは、矢張(やはり)飯山の藩士の娘でね、我輩の家(うち)の楽な時代に嫁(かたづ)いて来て、未だ今のやうに零落しない内に亡(な)くなつた。だから我輩は彼女(あいつ)のことを考へる度に、一生のうちで一番楽しかつた時代を思出さずには居られない。一盃(いつぱい)やると、きつと其時代のことを思出すのが我輩の癖で――だつて君、年を取れば、思出すより外に歓楽(たのしみ)が無いのだもの。あゝ、前(せん)の家内は反(かへ)つて好い時に死んだ。人間といふものは妙なもので、若い時に貰つた奴がどうしても一番好いやうな気がするね。それに、性質が、今の家内のやうに利(き)かん気では無かつたが、そのかはり昔風に亭主に便(たよ)るといふ風で、何処迄(どこまで)も我輩を信じて居た。蓮華寺へ行つたお志保――彼娘(あのこ)がまた母親に克(よ)く似て居て、眼付なぞはもう彷彿(そつくり)さ。彼娘の顔を見ると、直に前(せん)の家内が我輩の眼に映る。我輩ばかりぢやない、他(ひと)が克く其を言つて、昔話なぞを始めるものだから、さあ今の家内は面白くないと見えるんだねえ。正直御話すると、我輩も蓮華寺なぞへ彼娘を呉れたくは無かつた。然し吾家(うち)に置けば、彼娘の為にならない。第一、其では可愛さうだ。まあ、蓮華寺では非常に欲(ほし)がるし、奥様も子は無し、それに他の土地とは違つて寺院(てら)を第一とする飯山ではあり、するところからして、お志保を手放して遣つたやうな訳さ。』
聞けば聞くほど、丑松は気の毒に成つて来た。成程(なるほど)、左様(さう)言はれて見れば、落魄(らくはく)の画像(ゑすがた)其儘(そのまゝ)の様子のうちにも、どうやら武士らしい威厳を具へて居るやうに思はるゝ。
『丁度、それは彼娘の十三の時。』と敬之進は附和(つけた)して言つた。