例の種牛は朝のうちに屠牛場(とぎうば)へ送られた。種牛の持主は早くから詰掛けて、叔父と丑松とを待受けて居た。二人は、空車引いて馳(か)けて行く肉屋の丁稚(でつち)の後に随いて、軈て屠牛場の前迄行くと、門の外に持主、先(ま)づ見るより、克(よ)く来て呉れたを言ひ継(つゞ)ける。心から老牧夫の最後を傷(いた)むといふ情合(じやうあひ)は、斯持主の顔色に表れるのであつた。『いえ。』と叔父は対手の言葉を遮(さへぎ)つて、『全く是方(こちら)の不注意(てぬかり)から起つた事なんで、貴方(あんた)を恨(うら)みる筋は些少(ちつと)もごはせん。』とそれを言へば、先方(さき)は猶々(なほ/\)痛み入る様子。『私はへえ、面目なくて、斯(か)うして貴方等(あんたがた)に合せる顔も無いのでやす――まあ畜生の為(し)たことだからせえて(せえては、しての訛(なまり)、農夫の間に用ゐられる)、御災難と思つて絶念(あきら)めて下さるやうに。』とかへす/″\言ふ。是処(こゝ)は上田の町はづれ、太郎山の麓に迫つて、新しく建てられた五棟ばかりの平屋。鋭い目付の犬は五六匹門外に集つて来て、頻(しきり)に二人の臭気(にほひ)を嗅いで見たり、低声に(うな)つたりして、やゝともすれば吠(ほ)え懸りさうな気勢(けはひ)を示すのであつた。
持主に導かれて、二人は黒い門を入つた。内に庭を隔(へだ)てゝ、北は検査室、東が屠殺の小屋である。年の頃五十余のでつぷり肥つた男が人々の指図をして居たが、其老練な、愛嬌(あいけう)のある物の言振で、屠手(としゆ)の頭(かしら)といふことは知れた。屠手として是処に使役(つか)はれて居る壮丁(わかもの)は十人計(ばか)り、いづれ紛(まが)ひの無い新平民――殊に卑賤(いや)しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白(あり/\)と目につく。一人々々の赤ら顔には、烙印(やきがね)が押当てゝあると言つてもよい。中には下層の新平民に克(よ)くある愚鈍な目付を為乍(しなが)ら是方(こちら)を振返るもあり、中には畏縮(いぢけ)た、兢々(おづ/\)とした様子して盗むやうに客を眺めるもある。目鋭(めざと)い叔父は直に其(それ)と看(み)て取つて、一寸右の肘(ひぢ)で丑松を小衝(こづ)いて見た。奈何して丑松も平気で居られよう。叔父の肘が触(さは)るか触らないに、其暗号は電気(エレキ)のやうに通じた。幸ひ案じた程でも無いらしいので、漸(やつ)と安心して、それから二人は他の談話(はなし)の仲間に入つた。
繋留場には、種牛の外に、二頭の牡牛も繋(つな)いであつて、丁度死刑を宣告された罪人が牢獄(ひとや)の内に押籠(おしこ)められたと同じやうに、一刻々々と近いて行く性命(いのち)の終を翹望(まちのぞ)んで居た。丑松は今、叔父や持主と一緒に、斯(この)繋留場の柵(さく)の前に立つたのである。持主の言草ではないが、『畜生の為たこと』と思へば、別に腹が立つの何のといふ其様(そん)な心地(こゝろもち)には成らないかはりに、可傷(いたま)しい父の最後、牧場の草の上に流れた血潮――堪へがたい追憶(おもひで)の情は丑松の胸に浮んで来たのである。見れば他のは佐渡牛といふ種類で、一頭は黒く、一頭は赤く、人間の食慾を満すより外には最早(もう)生きながらへる価値(ねうち)も無い程に痩(や)せて、其憔悴(みすぼら)しさ。それに比べると、種牛は体格も大きく、骨組も偉(たくま)しく、黒毛艶々として美しい雑種。持主は柵の横木を隔てゝ、其鼻面を撫でゝ見たり、咽喉(のど)の下を摩(さす)つてやつたりして、
『わりや(汝(なんぢ)は)飛んでもねえことを為て呉れたなあ。何も俺だつて、好んで斯様(こん)な処へ貴様を引張つて来た訳ぢやねえ――是といふのも自業自得(じごふじとく)だ――左様(さう)思つて絶念(あきら)めろよ。』
吾児に因果でも言含めるやうに掻口説(かきくど)いて、今更別離(わかれ)を惜むといふ様子。
『それ、こゝに居なさるのが瀬川さんの子息(むすこ)さんだ。御詑(おわび)をしな。御詑をしな。われ(汝)のやうな畜生だつて、万更霊魂(たましひ)の無えものでも有るめえ。まあ俺の言ふことを好く覚えて置いて、次の生(よ)には一層(もつと)気の利いたものに生れ変つて来い。』
斯(か)う言ひ聞かせて、軈(やが)て持主は牛の来歴を二人に語つた。現に今、多くを飼養して居るが、是(これ)に勝(まさ)る血統(ちすぢ)のものは一頭も無い。父牛は亜米利加(アメリカ)産、母牛は斯々(しか/″\)、悪い癖さへ無くば西乃入(にしのいり)牧場の名牛とも唄はれたであらうに、と言出して嘆息した。持主は又附加(つけた)して、斯(この)種牛の肉の売代(うりしろ)を分けて、亡くなつた牧夫の追善に供へたいから、せめて其で仏の心を慰めて呉れといふことを話した。
其時獣医が入つて来て、鳥打帽を冠つた儘、人々に挨拶する。つゞいて、牛肉屋の亭主も入つて来たは、屠(つぶ)された後の肉を買取る為であらう。間も無く蓮太郎、弁護士の二人も、叔父や丑松と一緒になつて、庭に立つて眺めたり話したりした。
『むゝ、彼(あれ)が御話のあつた種牛ですね。』と蓮太郎は小声で言つた。人々は用意に取掛かると見え、いづれも白の上被(うはつぱり)、冷飯草履は脱いで素足に尻端折。笑ふ声、私語(さゝや)く声は、犬の鳴声に交つて、何となく構内は混雑して来たのである。
いよ/\種牛は引出されることになつた。一同の視線は皆な其方へ集つた。今迄沈まりかへつて居た二頭の佐渡牛は、急に騒ぎ初めて、頻と頭を左右に振動かす。一人の屠手は赤い方の鼻面を確乎(しつか)と制(おさ)へて、声を(はげま)して制したり叱つたりした。畜生ながらに本能(むし)が知らせると見え、逃げよう/\と焦り出したのである。黒い佐渡牛は繋がれたまゝ柱を一廻りした。死地に引かれて行く種牛は寧(むし)ろ冷静(おちつ)き澄ましたもので、他の二頭のやうに悪(わるあがき)を為(す)るでも無く、悲しい鳴声を泄(も)らすでも無く、僅かに白い鼻息を見せて、悠々(いう/\)と獣医の前へ進んだ。紫色の潤(うる)みを帯びた大きな目は傍で観て居る人々を睥睨(へいげい)するかのやう。彼の西乃入の牧場を荒(あば)れ廻つて、丑松の父を突殺した程の悪牛では有るが、斯(か)うした潔(いさぎよ)い臨終の光景(ありさま)は、又た人々に哀憐(あはれみ)の情を催(おこ)させた。叔父も、丑松もすくなからず胸を打たれたのである。獣医はあちこちと廻つて歩き乍ら、種牛の皮を撮(つま)んで見たり、咽喉(のど)を押へて見たり、または角を叩(たゝ)いて見たりして、最後に尻尾を持上たかと思ふと、検査は最早(もう)其で済んだ。屠手は総懸りで寄つて群(たか)つて、『しツ/\』と声を揚げ乍ら、無理無体に屠殺の小屋の方へ種牛を引入れた。屠手の頭(かしら)は油断を見澄まして、素早く細引を投げ搦(から)む。(どう)と音して牛の身体が板敷の上へ横に成つたは、足と足とが引締められたからである。持主は茫然(ばうぜん)として立つた。丑松も考深い目付をして眺め沈んで居た。やがて、種牛の眉間(みけん)を目懸けて、一人の屠手が斧(をの)(一方に長さ四五寸の管(くだ)があつて、致命傷を与へるのは是(この)管である)を振翳(ふりかざ)したかと思ふと、もう其が是畜生の最後。幽(かすか)な呻吟(うめき)を残して置いて、直に息を引取つて了つた――一撃で種牛は倒されたのである。