宵(よひ)の勤行(おつとめ)も終る頃で、子坊主がかん/\鳴らす鉦(かね)の音を聞き乍ら、丑松は蓮華寺の山門を入つた。上の渡しから是処迄(こゝまで)来るうちに、もう悉皆(すつかり)雪だらけ。羽織の裾も、袖も真白。其と見た奥様は飛んで出て、吾子が旅からでも帰つて来たかのやうに喜んだ。人々も出て迎へた。下女の袈裟治(けさぢ)は塵払(はたき)を取出して、背中に附いた雪を払つて呉れる。庄馬鹿は洗足(すゝぎ)の湯を汲んで持つて来る。疲れて、がつかりして、蔵裏(くり)の上(あが)り框(がまち)に腰掛け乍ら、雪の草鞋(わらぢ)を解(ほど)いた後、温暖(あたゝか)い洗(すゝ)ぎ湯(ゆ)の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何(どんな)であつたらう。唯(たゞ)――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷(うれしく)思ふにつけても、丑松は心に斯(か)う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
其時、白衣(びやくえ)に袈裟(けさ)を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介(ひきあはせ)で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家(だんか)に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
夕飯(ゆふはん)は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲(とりま)いて、旅の疲労(つかれ)を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁(えかう)には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程(なるほど)左様(さう)言はれて見ると、其人の平常衣(ふだんぎ)らしい。亀甲綛(きつかふがすり)の書生羽織に、縞(しま)の唐桟(たうざん)を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢(ながじゆばん)の色の紅梅を見るやうなは八口(やつくち)のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層(ひとしほ)お志保を可懐(なつか)しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈(ランプ)のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴(へ)て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗(な)め谷川の水を飲んで烏帽子(ゑぼし)ヶ嶽(だけ)の麓に彷徨(さまよ)ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場(とぎうば)のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景(ありさま)を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中(わけても)、あの可憐(あはれ)な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語(ひとこと)も口外しなかつた。
斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想(かんじ)を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克(よ)く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで『え?』なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対(うけこたへ)をして居るのだと感づいた。終(しまひ)には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見(みいだ)した。しばらく丑松は茫然(ぼんやり)として、穴の開くほど奥様の顔を熟視(みまも)つたのである。
克く見れば、奥様は両方の(まぶち)を泣腫(なきは)らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁(うれひ)の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是(これ)は奈何(どう)したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克(よ)く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部(なか)の様子の何処となく平素(ふだん)と違ふやうに思はれることは。
軈(やが)て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈(ランプ)を点(つ)けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
『奈何(どう)したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。』
斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯(はしごだん)を上つた。
其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反(かへ)つて能(よ)く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程(いくら)心に描いて見ても、明瞭(あきらか)に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同(ごつちや)になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何(どう)捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一(まとまり)が着かない。時としては彼(あ)のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口唇(くちびる)にあらはれる若々しい微笑(ほゝゑみ)を――あゝ、あゝ、記憶ほど漠然(ぼんやり)したものは無い。今、思ひ出す。今、消えて了ふ。丑松は顕然(はつきり)と其人を思ひ浮べることが出来なかつた。