其朝ほど無思想な状態(ありさま)で居たことは、今迄丑松の経験にも無いのであつた。実際其朝は半分眠り乍ら羽織袴を着けて来た。奥様が詰て呉れた弁当を提げて、久し振で学校の方へ雪道を辿(たど)つた時も、多くの教員仲間から弔辞(くやみ)を受けた時も、受持の高等四年生に取囲(とりま)かれて種々(いろ/\)なことを尋ねられた時も、丑松は半分眠り乍ら話した。授業が始つてからも、時々眼前(めのまへ)の事物(ことがら)に興味を失つて、器械のやうに読本の講釈をして聞かせたり、生徒の質問に答へたりした。其日は遊戯の時間の監督にあたる日、鈴が鳴つて休みに成る度に、男女の生徒は四方から丑松に取縋(とりすが)つて、『先生、先生』と呼んだり叫んだりしたが、何を話して何を答へたやら、殆んど其感覚が無かつた位。丑松は夢見る人のやうに歩いて、あちこちと馳せちがふ多くの生徒の監督をした。
銀之助が駈寄つて、
『瀬川君――君は気分でも悪いと見えるね。』
と言つたのは覚えて居るが、其他の話はすべて記憶に残らなかつた。
斯(か)ういふ中にも、唯一つ、あの省吾に呉れたいと思つて、用意したものを持つて来ることだけは忘れなかつた。昼休みには、高等科から尋常科までの生徒が学校の内で飛んだり跳ねたりして騒いだ。なかには広い運動場に出て、雪投げをして遊ぶものもあつた。丁度高等四年の教室には誰も居なかつたので、そこへ丑松は省吾を連れて行つて、新聞紙に包んだものを取出して見せて、
『君に呈(あ)げようと思つて斯ういふものを持つて来ました。帳面です、内に入つてるのは。是(これ)は君、家へ帰つてから開けて見るんですよ。いいかね。学校の内で開けて見るんぢや無いんですよ――ね、是を君に呈げますから。』
と言つて、丑松は自分の前に立つ少年の驚き喜ぶ顔を見たいと思ふのであつた。意外にも省吾は斯の贈物を受けなかつた。唯もう目を円(まる)くして、丑松の様子と新聞紙の包とを見比べるばかり。奈何(どう)して斯様(こん)なものを呉れるのであらう。第一、それからして不思議でならない。と言つたやうな顔付。
『いゝえ、私は沢山です。』
と省吾は幾度か辞退した。
『其様(そん)な、君のやうな――』と丑松は省吾の顔を眺めて、『人が呈(あ)げるツて言ふものは、貰ふもんですよ。』
『はい、難有う。』と復た省吾は辞退した。
『困るぢやないか、君、折角(せつかく)呈げようと思つて斯うして持つて来たものを。』
『でも、母さんに叱られやす。』
『母さんに? 其様な馬鹿なことが有るもんか。私が呈げるツて言ふのに、叱るなんて――私は君の父上(おとつ)さんとも懇意だし、それに、君の姉さんには種々(いろ/\)御世話に成つて居るし、此頃(こなひだ)から呈げよう/\と思つて居たんです。ホラ、よく西洋綴の帳面で、罫の引いたのが有ませう。あれですよ、斯の内に入つてるのは。まあ、君、其様(そん)なことを言はないで、是を家へ持つて帰つて、作文でも何でも君の好なものを書いて見て呉れたまへ。』
斯う言つて、其を省吾の手に持たして居るところへ、急に窓の外の方で上草履の音が起る。丑松は省吾を其処に残して置いて、周章(あわ)てゝ教室を出て了つた。