月曜の朝早く校長は小学校へ出勤した。応接室の側の一間を自分の室と定めて、毎朝授業の始まる前には、必ず其処に閉籠(とぢこも)るのが癖。それは一日の事務の準備(したく)をする為でもあつたが、又一つには職員等(たち)の不平と煙草の臭気(にほひ)とを避ける為で。丁度其朝は丑松も久し振の出勤。校長は丑松に逢つて、忌服中のことを尋ねたり、話したりして、軈てまた例の室に閉籠つた。
この室の戸を叩(たゝ)くものが有る。其音で、直に校長は勝野文平といふことを知つた。いつも斯ういふ風にして、校長は斯(こ)の鍾愛(きにいり)の教員から、さま/″\の秘密な報告を聞くのである。男教員の述懐、女教員の蔭口、其他時間割と月給とに関する五月蠅(うるさい)ほどの嫉(ねた)みと争ひとは、是処(こゝ)に居て手に取るやうに解るのである。其朝も亦、何か新しい注進を齎(もたら)して来たのであらう、斯う思ひ乍ら、校長は文平を室の内へ導いたのであつた。
いつの間にか二人は丑松の噂(うはさ)を始めた。
『勝野君。』と校長は声を低くして、『君は今、妙なことを言つたね――何か瀬川君のことに就いて新しい事実を発見したとか言つたね。』
『はあ。』と文平は微笑(ほゝゑ)んで見せる。
『どうも君の話は解りにくゝて困るよ。何時でも遠廻しに匂はせてばかり居るから。』
『だつて、校長先生、人の一生の名誉に関(かゝ)はるやうなことを、左様(さう)迂濶(うくわつ)には喋舌(しやべ)れないぢや有ませんか。』
『ホウ、一生の名誉に?』
『まあ、私の聞いたのが事実だとして、其が斯の町へ知れ渡つたら、恐らく瀬川君は学校に居られなくなるでせうよ。学校に居られないばかりぢや無い、あるひは社会から放逐されて、二度と世に立つことが出来なくなるかも知れません。』
『へえ――学校にも居られなくなる、社会からも放逐される、と言へば君、非常なことだ。それでは宛然(まるで)死刑を宣告されるも同じだ。』
『先(ま)づ左様(さう)言つたやうなものでせうよ。尤も、私が直接(ぢか)に突留めたといふ訳でも無いのですが、種々(いろ/\)なことを綜(あつ)めて考へて見ますと――ふふ。』
『ふゝぢや解らないねえ。奈何(どん)な新しい事実か、まあ話して聞かせて呉れ給へ。』
『しかし、校長先生、私から其様(そん)な話が出たといふことになりますと、すこし私も迷惑します。』
『何故(なぜ)?』
『何故ツて、左様ぢや有ませんか。私が取つて代りたい為に、其様なことを言ひ触らしたと思はれても厭ですから――毛頭私は其様な野心が無いんですから――なにも瀬川君を中傷する為に、御話するのでは無いんですから。』
『解つてますよ、其様なことは。誰が君、其様なことを言ふもんですか。其様な心配が要るもんですか。君だつても他の人から聞いたことなんでせう――それ、見たまへ。』
文平が思はせ振な様子をして、何か意味ありげに微笑めば微笑むほど、余計に校長は聞かずに居られなくなつた。
『では、勝野君、斯ういふことにしたら可(いゝ)でせう。我輩は其話を君から聞かない分にして置いたら可(いゝ)でせう。さ、誰も居ませんから、話して聞かせて呉れ給へ。』
斯う言つて、校長は一寸文平に耳を貸した。文平が口を寄せて、何か私語(さゝや)いて聞かせた時は、見る/\校長も顔色を変へて了(しま)つた。急に戸を叩く音がする。ついと文平は校長の側を離れて窓の方へ行つた。戸を開けて入つて来たのは丑松で、入るや否や思はず一歩(ひとあし)逡巡(あとずさり)した。
『何を話して居たのだらう、斯(こ)の二人は。』と丑松は猜疑深(うたぐりぶか)い目付をして、二人の様子を怪まずには居られなかつたのである。
『校長先生、』と丑松は何気なく尋ねて見た。『どうでせう、今日はすこし遅く始めましたら。』
『左様(さやう)――生徒は未(ま)だ集りませんか。』と校長は懐中時計を取出して眺める。
『どうも思ふやうに集りません。何を言つても、是雪ですから。』
『しかし、最早(もう)時間は来ました。生徒の集る、集らないは兎(と)に角(かく)、規則といふものが第一です。何卒(どうぞ)小使に左様言つて、鈴を鳴らさせて下さい。』