『瀬川先生、御客様でやすよ。』
と喚起(よびおこ)す袈裟治の声に驚かされて、丑松は銀之助が来たことを知つた。銀之助ばかりでは無い、例の準教員も勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)でやつて来た。其日は、地方を巡回して歩く休職の大尉とやらが軍事思想の普及を計る為、学校の生徒一同に談話(はなし)をして聞かせるとかで、午後の課業が休みと成つたから、一寸暇を見て尋ねて来たといふ。丑松は寝床の上に起直つて、半ば夢のやうに友達の顔を眺めた。
『君――寝て居たまへな。』
斯う銀之助は無造作な調子で言つた。真実丑松をいたはるといふ心が斯(この)友達の顔色に表れる。丑松は掛蒲団の上にある白い毛布を取つて、丁度褞袍(どてら)を着たやうな具合に、其を身に纏(まと)ひ乍ら、
『失敬するよ、僕は斯様(こん)なものを着て居るから。ナニ、君、其様(そんな)に酷(ひど)く不良(わる)くも無いんだから。』
『風邪(かぜ)ですか。』と準教員は丑松の顔を熟視(みまも)る。
『まあ、風邪だらうと思ふんです。昨夜から非常に頭が重くて、奈何(どう)しても今朝は起きることが出来ませんでした。』と丑松は準教員の方へ向いて言つた。
『道理で、顔色が悪い。』と銀之助は引取つて、『インフルヱンザが流行(はや)るといふから、気をつけ給へ。何か君、飲んで見たら奈何だい。焼味噌のすこし黒焦(くろこげ)に成つたやつを茶漬茶椀かなんかに入れて、そこへ熱湯(にえゆ)を注込(つぎこ)んで、二三杯もやつて見給へ。大抵の風邪は愈(なほ)つて了(しま)ふよ。』と言つて、すこし気を変へて、『や、好い物を持つて来て、出すのを忘れた――それ、御土産(おみやげ)だ。』
斯(か)う言つて、風呂敷包の中から取出したのは、十一月分の月給。
『今日は君が出て来ないから、代理に受取つて置いた。』と銀之助は言葉を続けた。
『克(よ)く改めて見て呉れ給へ――まあ有る積りだがね。』
『それは難有う。』と丑松は袋入りの銀貨取混ぜて受取つて、『確に。して見ると今日は二十八日かねえ。僕はまた二十七日だとばかり思つて居た。』
『はゝゝゝゝ、月給取が日を忘れるやうぢやあ仕様が無い。』と銀之助は反返(そりかへ)つて笑つた。
『全く、僕は茫然(ぼんやり)して居た。』と丑松は自分で自分を励ますやうにして、『今月は君、小だらう。二十九、三十と、十一月も最早(もう)二日しか無いね。あゝ今年も僅かに成つたなあ。考へて見ると、うか/\して一年暮して了つた――まあ、僕なぞは何(なんに)も為なかつた。』
『誰だつて左様(さう)さ。』と銀之助も熱心に。
『君は好いよ。君はこれから農科大学の方へ行つて、自分の好きな研究が自由にやれるんだから。』
『時に、僕の送別会もね、生徒の方から明日にしたいと言出したが――』
『明日に?』
『しかし、君も斯うして寝て居るやうぢやあ――』
『なあに、最早愈(なほ)つたんだよ。明日は是非出掛ける。』
『はゝゝゝゝ、瀬川君の病気は不良(わる)くなるのも早いし、快(よ)くなるのも早い。まあ大病人のやうに呻吟(うな)つてるかと思ふと、また虚言(うそ)を言つたやうに愈(なほ)るから不思議さ――そりやあ、もう、毎時(いつも)御極りだ。それはさうと、斯うして一緒に馬鹿を言ふのも僅かに成つて来た。其内に御別れだ。』
『左様かねえ、君はもう行つて了ふかねえ。』
斯ういふ言葉を取交して、二人は互に感慨に堪へないといふ様子であつた。其時迄、黙つて二人の談話(はなし)を聞いて、巻煙草ばかり燻(ふか)して居た準教員は、唐突(だしぬけ)に斯様(こん)なことを言出した。
『今日僕は妙なことを聞いて来た。学校の職員の中に一人新平民が隠れて居るなんて、其様(そん)なことを町の方で噂(うはさ)するものが有るさうだ。』