『誰が其様なことを言出したんだらう。』と銀之助は準教員の方へ向いて言つた。
『誰が言出したか、其は僕も知らないがね。』と準教員はすこし困却(こま)つたやうな調子で、『要するに、人の噂に過ぎないんだらうと思ふんだ。』
『噂にもよりけりさ。其様なことを言はれちやあ、大に吾儕(われ/\)が迷惑するねえ。克(よ)く町の人は種々(いろ/\)なことを言触らす。やれ、女の教員が奈何(どう)したの、男の教員が斯様(かう)したのツて。何故(なぜ)、左様(さう)人の噂が為たいんだらう。そんなら、君、まあ学校の職員を数へて見給へ。穢多らしいやうな顔付のものが吾儕の中にあるかい。実に怪しからんことを言ふぢやないか――ねえ、瀬川君。』
斯う言つて、銀之助は丑松の方を見た。丑松は無言で、白い毛布に身を包んだまゝ。
『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出した。『校長先生は随分几帳面(きちやうめん)な方だが、なんぼなんでも新平民とは思はれないし、と言つて、教員仲間に其様なものは見当りさうも無い。左様さなあ――いやに気取つてるのは勝野君だ――まあ、其様な嫌疑のかゝるのは勝野君位のものだ。』
『まさか。』と準教員も一緒になつて笑つた。
『そんなら、君、誰だと思ふ。』と銀之助は戯れるやうに、『さしづめ、君ぢやないか。』
『馬鹿なことを言ひ給へ。』と準教員はすこし憤然(むつ)とする。
『はゝゝゝゝ、君は直に左様(さう)怒(おこ)るから不可(いかん)。なにも君だと言つた訳では無いよ。真箇(ほんたう)に、君のやうな人には戯語(じようだん)も言へない。』
『しかし。』と準教員は真面目(まじめ)に成つて、『是(これ)がもし事実だと仮定すれば――』
『事実? 到底(たうてい)其様なことは有得べからざる事実だ。』と銀之助は聞入れなかつた。『何故と言つて見給へ。学校の職員は大抵出処(でどこ)が極(きま)つて居る。君等のやうに講習を済まして来た人か、勝野君のやうに検定試験から入つて来た人か、または吾儕(われ/\)のやうに師範出か――是より外には無い。若(も)し吾儕の中に其様(そん)な人が有るとすれば、師範校時代にもう知れて了ふね。卒業する迄も其が知れずに居るなんてことは、寄宿舎生活が許さないさ。検定試験を受けるやうな人は、いづれ長く学校に関係した連中だから、是も知れずに居る筈が無し、君等の方はまた猶更(なほさら)だらう。それ見給へ。今になつて、突然其様なことを言触らすといふは、すこし可笑(をか)しいぢやないか。』
『だから――』と準教員は言葉に力を入れて、『僕だつても事実だと言つた訳では無いサ。若(もし)事実だと仮定すれば、と言つたんサ。』
『若(もし)かね。はゝゝゝゝ。君の言ふ若は仮定する必要の無い若だ。』
『左様(さう)言へばまあ其迄だが、しかし万一其様(そん)なことが有るとすれば、奈何(どう)いふ結果に成つて行くものだらう――僕は考へたばかりでも恐しいやうな気がする。』
銀之助は答へなかつた。二人の客はもうそれぎり斯様(こん)な話を為なかつた。
軈(やが)て二人が言葉を残して出て行かうとした時は、丑松は喪心した人のやうで、其顔色は白い毛布に映つて、一層蒼ざめて見えたのである。『あゝ、瀬川君は未だ快(よ)くないんだらう。』斯(か)う銀之助は自分で自分に言ひ乍ら、準教員と一緒に楼梯(はしごだん)を下りて行つた。
暫時(しばらく)丑松は茫然として部屋の内を眺め廻して居たが、急に寝床を片付けて、着物を着更へて見た。不図(ふと)思ひついたやうに、押入の隅のところに隠して置いた書物を取出した。それはいづれも蓮太郎を思出させるもので、彼の先輩が心血と精力とを注ぎ尽したといふ『現代の思潮と下層社会』、小冊子には『平凡なる人』、『労働』、『貧しきものゝ慰め』、それから『懴悔録』なぞ。丑松は一々内部(なか)を好く改めて見て、蔵書の印がはりに捺(お)して置いた自分の認印(みとめ)を消して了つた。ほかに、床の間に置並べた語学の参考書の中から、五六冊不要なのを抜取つて、塵埃(ほこり)を払つて、一緒にして風呂敷に包んで居ると、丁度そこへ袈裟治が入つて来た。
『御出掛?』
斯う声を掛ける。丑松はすこし周章(あわ)てたといふ様子して、別に返事もしないのであつた。
『この寒いのに御出掛なさるんですか。』と袈裟治は呆(あき)れて、蒼(あを)ざめた丑松の顔を眺めた。『気分が悪くて寝て居なさる人が――まあ。』
『いや、もう悉皆(すつかり)快くなつた。』
『ほゝゝゝゝ。それはさうと、御腹(おなか)が空きやしたらう。何か食べて行きなすつたら――まあ、貴方(あんた)は今朝から何(なんに)も食べなさらないぢやごはせんか。』
丑松は首を振つて、すこしも腹は空かないと言つた。壁に懸けてある外套(ぐわいたう)を除(はづ)して着たのも、帽子を冠つたのも、着る積りも無く着、冠る積りも無く冠つたので、丁度感覚の無い器械が動くやうに、自分で自分の為(す)ることを知らない位であつた。丑松はまた、友達が持つて来て呉れた月給を机の抽匣(ひきだし)の中へ入れて、其内を紙の袋のまゝ袂へも入れた。尤も幾許(いくら)置いて、幾許自分の身に着けたか、それすら好くは覚えて居ない。斯うして書物の包を提げて、成るべく外套の袖で隠すやうにして、軈てぶらりと蓮華寺の門を出た。