「おばば、
むし暑く
「おばば。」
「……」
老婆は、あわただしくふり返った。見ると、年は六十ばかりであろう。
「おや、太郎さんか。」
日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。
「何か用でもおありか。」
「いや、別に用じゃない。」
片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。
「ただ、
「用のあるは、いつも娘ばかりさね。
「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」
「なに、手はずに変わりがあるものかね。集まるのは
老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、
「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」
これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた
「じゃ
「なに、やっぱり
「なんになって行ったって、あいつの事だ。当てになるものか。」
「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。だから、娘にきらわれるのさ。やきもちにも、ほどがあるよ。」
老婆は、鼻の先で笑いながら、
「そんな事じゃ、しっかりしないと、次郎さんに取られてしまうよ。取られてもいいが、どうせそうなれば、ただじゃすまないからね。おじいさんでさえ、それじゃ時々、目の色を変えるんだから、お前さんならなおさらだろうじゃないか。」
「わかっているわな。」
相手は、顔をしかめながら、いまいましそうに、柳の根へつばを吐いた。
「それがなかなか、わからないんだよ。今でこそお前さんだって、そうやって、すましているが、娘とおじいさんとの仲をかぎつけた時には、まるで、気がふれたようだったじゃないか。おじいさんだって、そうさ、あれで、もう少し気が強かろうものなら、すぐにお前さんと
「そりゃもう一年
「何年
こう言って、老婆は、まばらな齒を出して、笑った。
「冗談じゃない。――それより、今夜の相手は、曲がりなりにも、
太郎は、日にやけた顔に、いらだたしい色を浮かべながら、話頭を転じた。おりから、雲の峰が一つ、太陽の道に当たったのであろう。あたりが
「なんの、藤判官だといって、高が青侍の四人や五人、わたしだって、昔とったきねづかさ。」
「ふん、おばばは、えらい勢いだな。そうして、こっちの
「いつものとおり、男が二十三人。それにわたしと娘だけさ。
「そう言えば、阿濃も、かれこれ臨月だったな。」
太郎はまた、あざけるように口をゆがめた。それとほとんど同時に、雲の影が消えて、往来はたちまち、元のように、目が痛むほど、明るくなる。――
「あの
「親のせんぎはともかく、あのからだじゃ何かにつけて不便だろう。」
「そりゃ、どうにでもしかたはあるのだけれど、あれが不承知なのだから、困るわね。おかげで、仲間の者へ
「が、
この時、太郎のくちびるは、目に見えぬほど、かすかにひきつった。が、老婆は、これに気がつかなかったらしい。
「おおかた、きょうあたりは、猪熊のわたしの
片目は、じっと老婆を見た。そうして、それから、静かな声で、
「じゃ、いずれまた、日が暮れてから、会おう。」
「あいさ。それまでは、お前さんも、ゆっくり昼寝でもする事だよ。」
二人の別れたあとには、例の
二
猪熊のばばは、黄ばんだ髪の根に、じっとりと汗をにじませながら、足にかかる夏のほこりも払わずに、杖をつきつき歩いてゆく。――
通い慣れた道ではあるが、自分が若かった昔にくらべれば、どこもかしこも、うそのような変わり方である。自分が、まだ
その上、
それも、そのはずである。四五間先に、道とすすき原とを(これも、元はたれかの広庭であったのかもしれない。)隔てる、くずれかかった
別して、老婆の目をひいたのは、その小屋の前に、腕を組んでたたずんだ、十七八の若侍で、これは、朽ち葉色の水干に
「何をしているのだえ。次郎さん。」
相手は、驚いて、ふり返ったが、つくも髪の、
小屋の中には、破れ畳を一枚、じかに地面へ敷いた上に、四十
枕もとには、縁の欠けた
それを見ると、気丈な
「なんだえ。これは。
「そうさ。とてもいけないというので、どこかこの近所の
次郎はまた、白い齒を見せて、微笑した。
「それを、お前さんはまた、なんだって、見てなんぞいるのさ。」
「なに、今ここを通りかかったら、野ら犬が二三匹、いい
老婆は、
「いったい、生きているのかえ。それとも、死んでいるのかえ。」
「どうだかね。」
「気らくだよ、この人は。死んだものなら、犬が食ったって、いいじゃないか。」
老婆は、こう言うと、
「そんな事をしたって、だめだよ。さっきなんぞは、犬に食いつかれてさえ、やっぱりじっとしていたんだから。」
「それじゃ、死んでいるのさ。」
次郎は、三たび白い齒を見せて、笑った。
「死んでいたって、犬に食わせるのは、ひどいやね。」
「何がひどいものかね。死んでしまえば、犬に食われたって、痛くはなしさ。」
老婆は、
「死ななくったって、ひくひくしているよりは、いっそ一思いに、のど笛でも犬に食いつかれたほうが、ましかもしれないわね。どうせこれじゃ、生きていたって、長い事はありゃせずさ。」
「だって、人間が犬に食われるのを、黙って見てもいられないじゃないか。」
すると、
「そのくせ、人間が人間を殺すのは、お互いに平気で、見ているじゃないか。」
「そう言えば、そうさ。」
次郎は、ちょいと
「どこへ
「
こう言ううちに、
「ああ、行ってもいい。」
次郎もようやく、病人の小屋をあとにして、老婆と肩を並べながら、ぶらぶら炎天の往来を歩きだした。
「あんなものを見たんで、すっかり
老婆は、
「――ええと、平六の
「なにわたしも、始めからそのつもりで、こっちへ出て来たのさ。」
「そうかえ、それはお前さんにしては、気がきいたね。お前さんのにいさんの御面相じゃ、一つ間違うと、向こうにけどられそうで、下見に行っても、もらえないが、お前さんなら、大丈夫だよ。」
「かわいそうに、兄きもおばばの口にかかっちゃ、かなわないね。」
「なに、わたしなんぞはいちばん、あの人の事をよく言っているほうさ。おじいさんなんぞと来たら、お前さんにも話せないような事を、言っているわね。」
「それは、あの事があるからさ。」
「あったって、お前さんの悪口は、言わないじゃないか。」
「じゃおおかた、わたしは子供扱いにされているんだろう。」
二人は、こんな閑談をかわしながら、狭い往来をぶらぶら歩いて行った。歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている
「だが、次郎さん、お気をつけよ。」
「娘の事じゃ、ずいぶんにいさんも、夢中になりかねないからね。」
が、これは、次郎の心に、思ったよりも大きな影響を与えたらしい。彼は、ひいでた
「そりゃわたしも、気をつけている。」
「気をつけていてもさ。」
老婆は、いささか、相手の感情の、この急激な変化に驚きながら、例のごとくくちびるをなめなめ、つぶやいた。
「気をつけていてもだわね。」
「しかし、兄きの思わくは兄きの思わくで、わたしには、どうにもできないじゃないか。」
「そう言えば、
次郎は、老婆の
「さっき、向こうの
こう言って、老婆は、いつか自分にも起こって来た不安を、しいて消そうとするように、わざとしわがれた声で、笑って見せた。が、次郎は依然として、顔を暗くしながら、何か物思いにふけるように、目を伏せて歩いている。……
「
かれこれその時分の事である。
今まで死んだようになっていた女が、その時急に、黄いろくたるんだまぶたをあけて、腐った卵の白味のような目を、どんより
三
日中の往来は、人通りもきわめて少ない。
すると
彼は、しばらく足をとめて、車を通りこさせてから、また片目を地に伏せて、黙々と歩きはじめた。――
(おれが右の
考えれば、まだきのうのように思われるが、実はもう一年
その晩から、おれは何度となく、猪熊のばばの家へ出はいりをした。
日の暮れに来て、
「はい、はい」と馬をしかる声がする。太郎は、あわてて、道をよけた。
米俵を二俵ずつ、左右へ積んだ馬をひいて、
太郎は、歩きながら、思い出したように、はたはたと、
(そういう月日が、続くともなく続くうちに、おれは、偶然あの女と養父との関係に、気がついた。もっともおれ一人が、
おれは、それを感づいた時に、なんとも言えず、不快だった。そういう事をする親子なら、殺して飽きたらない。それを黙って見る実の母の、
頭を上げると、太郎はいつか二条を折れて、
太郎の心には、一瞬の間、幼かった昔の記憶が、――弟といっしょに、五条の橋の下で、
太郎は、橋を渡りながら、うすいあばたのある顔に、また険しい色をひらめかせた。――
(すると、突然ある日、そのころ
その翌日から、おれと弟とは、猪熊の沙金の家で、人目を忍ぶ身になった。一度罪を犯したからは、正直に暮らすのも、あぶない世渡りをしてゆくのも、
太郎は、半ば無意識に
「おれは、悪事をつむに従って、ますます
その沙金を、おれは今、肉身の弟に奪われようとしている。おれが命を
おれと弟とは、気だてが変わっているようで、実は見かけほど、変わっていない。もっとも顔かたちは、七八年
こう思えば、次郎と
太郎は、
太郎は、まのあたりに、自分の行く末を見せつけられたような心もちがした。そうして、思わず下くちびるを堅くかんだ。――
「ことに、このごろは、
沙金を失い、弟を失い、そうしてそれとともにおれ自身を失ってしまう。おれはすべてを失う時が来たのかもしれない。……)
そう思ううちに、彼は、もう
太郎は、急にある気づかれを感じて、一味の感傷にひたりながら、その目に涙をうかべて、そっと戸口へ立ちよった。すると、その時である。家の中から、たちまちけたたましい女の声が、
彼は、入り口の布をあげて、うすぐらい家の中へ、せわしく一足ふみ入れた。
四
猪熊のばばに別れると、次郎は、重い心をいだきながら、
日の光は、相変わらず目の前の往来を、照り
次郎は、腰にさした扇をぬいて、その
なんで自分は、こう苦しまなければ、ならないのであろう。たった一人の兄は、自分を
しかし、兄には、自分のこの苦しみがわからない。ただいちずに、自分を、恋の
自分は、
この自分の憎しみも、兄にはわかっていないようだ。いや、元来兄は、自分のように、あの女の獣のような心を、憎んではいないらしい。たとえば、
次郎は、ぼんやり往来をながめながら、こんな事をしみじみと考えた。すると、ちょうどその時である。突然、けたたましい笑い声が、まばゆい日の光を動かして、往来のどちらかから聞こえて来た。と思うと、かん
が、柱の下をはなれて、まだ石段へ足をおろすかおろさないうちに、
男は、
「じゃよくって。きっと忘れちゃいやよ。」
「大丈夫だよ。おれがひきうけたからは、
「だって、わたしのほうじゃ命がけなんですもの。このくらい、念を押さなくちゃしようがないわ。」
男は赤ひげの少しある口を、
「おれのほうも、これで命がけさ。」
「うまく言っているわ。」
二人は、寺の門の前を通りすぎて、さっき次郎が
「今のやつを見た?」
沙金は、
「見なくってさ。」
「あれはね。――まあここへかけましょう。」
二人は、石段の下の段に、肩をならべて、腰をおろした。幸い、ここには門の外に、ただ一本、細い幹をくねらした、赤松の影が落ちている。
「あれは、
沙金は、石段の上に腰をおろすかおろさないのに、
「そうして、お前さんの
沙金は、目を細くして笑いながら、無邪気らしく、首をふった。
「あいつのばかと言ったら、ないのよ。わたしの言う事なら、なんでも、犬のようにきくじゃないの。おかげで、何もかも、すっかりわかってしまった。」
「何がさ。」
「何がって、
「そうだ。兄きなら、なんでもお前の
「いやだわ。やきもちをやかれるのは、わたし大きらい。それも、太郎さんなんぞ、――そりゃはじめは、わたしのほうでも、少しはどうとか思ったけれど、今じゃもうなんでもないわ。」
「そのうちに、わたしの事もそう言う時が来やしないか。」
「それは、どうだかわかりゃしない。」
「おこったの? じゃ、来ないって言いましょうか。」
「
次郎は、顔をしかめながら、足もとの石を拾って、向こうへ投げた。
「そりゃ、
沙金は、こう言って、しばらくじっと、往来を見つめていたが、急に鋭い目を、次郎の上に転じると、たちまち冷ややかな微笑が、くちびるをかすめて、一過した。
「そんなに疑うのなら、いい事を教えてあげましょうか。」
「いい事?」
「ええ」
女は、顔を次郎のそばへ持って来た。うす化粧のにおいが、汗にまじって、むんと鼻をつく。――次郎は、身のうちがむずがゆいほど、はげしい衝動を感じて、思わず顔をわきへむけた。
「わたしね、あいつにすっかり、話してしまったの。」
「何を?」
「今夜、みんなで
次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
「わたしこう言ったの。わたしの寝る
「どうしてまた、そんなよけいな事をしたのさ。」
次郎は、まだ落ち着かない様子で、当惑したらしく、
「よけいじゃないわ。」
沙金は、気味悪く、微笑した。そうして、左の手で、そっと次郎の右の手に、さわりながら、
「あなたのためにしたの。」
「どうして?」
こう言いながら、次郎の心には、恐ろしいあるものが感じられた。まさか――
「まだわからない? そう言っておいて、太郎さんに、馬を盗む事を頼めば――ね。いくらなんだって、一人じゃかなわないでしょう。いえさ、ほかのものが加勢をしたって、知れたものだわ。そうすれば、あなたもわたしも、いいじゃないの。」
次郎は、全身に水を浴びせられたような心もちがした。
「兄きを殺す!」
「殺しちゃ悪い?」
「悪いよりも――兄きを
「じゃあなた殺せて?」
次郎は、沙金の目が、
「しかし、それは
「卑怯でも、しかたがなくはない?」
「それも、兄き一人やるのならいいが、仲間を皆、あぶない目に会わせてまで――」
こう言いながら、次郎は、しまったと思った。
「一人やるのならいいの? なぜ?」
次郎は、女の手をはなして、立ち上がった。そうして、顔の色を変えたまま、黙って、
「太郎さんを殺していいんなら、仲間なんぞ何人殺したって、いいでしょう。」
沙金は、下から次郎の顔を見上げながら、一句を射た。
「おばばはどうする?」
「死んだら、死んだ時の事だわ。」
次郎は、立ち止まって、沙金の顔を見おろした。女の目は、
「あなたのためなら、わたしたれを殺してもいい。」
このことばの中には、
「しかし、兄きは――」
「わたしは、親も捨てているのじゃない?」
こう言って、沙金は、目を落とすと、急に張りつめた顔の表情がゆるんで、焼け砂の上へ、日に光りながらはらはらと涙が落ちた。
「もうあいつに話してしまったのに、――今さら取り返しはつきはしない。――そんな事がわかったら、わたしは――わたしは、仲間に――太郎さんに殺されてしまうじゃないの。」
その切れ切れなことばと共に、次郎の心には、おのずから絶望的な勇気が、わいてくる。血の色を失った彼は、黙って、土にひざをつきながら、冷たい両手に堅く、
彼らは二人とも、その握りあう手のうちに、恐ろしい承諾の意を感じたのである。
五
白い布をかかげて、家の中に一足ふみこんだ太郎は、意外な光景に驚かされた。――
見ると、広くもない
太郎は、
「何をする?」
太郎の鋭いこのことば、たちまちかみつくような、老人のことばで答えられた。
「おぬしこそ、何をする。」
「おれか。おれならこうするわ。」
太郎は、
「助けてくれ。人殺しじゃ。」
老人は、こうわめきながら、始めの勢いにも似ず、
「人殺し。人殺し。助けてくれ。親殺しじゃ。」
「ばかな事を。たれがおぬしなぞ殺すものか。」
太郎は、ひざの下に老人を押し伏せたまま、こう高らかに、あざわらった。が、それと同時に、このおやじを殺したいという欲望が、おさえがたいほど強く、起こって来た。殺すのには、もちろんなんのめんどうもない。ただ、一突き――あの赤く皮のたるんでいる
「うそじゃ。うそじゃ。おぬしは、いつもわしを殺そうと思うている。――やい、たれか助けてくれ。人殺しじゃ。親殺しじゃ。」
「おぬしは、なんで
「言う。言う。――言うがな。言ったあとでも、おぬしの事じゃ。殺さないものでも、なかろう。」
「うるさい。言うか、言わぬか。」
「言う。言う。言う。が、まず、そこを放してくれ。これでは、息がつまって、口がきけぬわ。」
太郎は、それを耳にもかけないように、殺気立った声で、いらだたしく繰り返した。
「言うか、言わぬか。」
「言う。」と、
「薬? では、
「それ見い。言えと言うから、言えば、なおおぬしは、わしを殺す気になるわ。人殺し。
「たれがおぬしを殺すと言った?」
「殺さぬ気なら、なぜおぬしこそ、
老人は、汗にぬれたはげ頭を
「人殺し。親殺し。うそつき。親殺し。親殺し。」
「おぬしを殺すような太刀は、持たぬわ。」
「殺せば、親殺しじゃて。」
彼の様子に安心した、
「おぬしを殺して、なんで親殺しになる?」
太郎は、目を窓にやりながら、吐き出すように、こう言った。四角に空を切りぬいた窓の中には、
「親殺しじゃよ。――なぜと言えばな。
「じゃ、その子を
老人は、さっきの争いに破れた、
「畜生でも、親殺しはすまいて。」
太郎は、くちびるをゆがめて、あざわらった。
「相変わらず、達者な口だて。」
「何が達者な口じゃ。」
「されば、おぬしにきくがな、おぬしは、このわしを、親と思うか。いやさ、親と思う事ができるかよ。」
「きくまでもないわ。」
「できまいな」
「おお、できない。」
「それが手前勝手じゃ。よいか。
老人は、勝ち誇った顔色で、しわだらけの人さし指を、相手につきつけるようにしながら、目をかがやかせて、しゃべり立てた。
「どうじゃ。わしが無理か、おぬしが無理か、いかなおぬしにも、このくらいな事はわかるであろう。それもわしとおばばとは、まだわしが、
太郎は、こういう場合、この酒飲みの、
「そのうちに、わしはおばばに
「そんなら、おぬしはきらわれたのじゃないか。」
「
猪熊の爺は、真顔になって、こう言ったが、すぐまた、ひざをすすめて、太郎のほうへにじり寄りながら、つばをのみのみ、話しだした。
「そのうちに、おばばがその
今では全く、太郎と一つ畳にすわりこんだ老人は、ここまで話すと、次第に感情がたかぶって来たせいか、しばらくはただ、涙に
「めぐり会ってみれば、おばばは、もう昔のおばばではない。わしも、昔のわしでなかったのじゃ。が、つれている子の
「されば、昔からきょうの日まで、わしが命にかけて思うたのは、ただ、昔のおばば一人ぎりじゃ。つまりは今の
涙がかわくに従って、老人はまた、元のように、ふて腐れた
「畜生が畜生を殺すのじゃ。さあ殺せ。おぬしは、
こう言いながら、老人は、いちはやく、倒れた
「おぬしのような畜生には、これがちょうど、相当だわ。」
「畜生呼ばわりは、おいてくれ。
太郎は、再びこのおやじを殺さなかった事を後悔した。が、同時にまた、殺そうという気の起こる事を恐れもした。そこで、彼は、片目を火のようにひらめかせながら、黙って、席を
「おぬしは、今の話をほんとうだと思うか。あれは、みんなうそじゃ。ばばが昔なじみじゃというのも、うそなら、沙金がおばばに似ているというのもうそじゃ。よいか。あれは、みんなうそじゃ。が、とがめたくも、おぬしはとがめられまい。わしはうそつきじゃよ。畜生じゃよ。おぬしに殺されそくなった、人でなしじゃよ。………」
老人は、こう
「どこへ行こう。」
外へ出て、思わずこう小首を傾けた太郎は、ふとさっきまでは、自分が
「ままよ。
彼のこの決心には、もちろん、いくぶん沙金に会えるという望みが、隠れている。沙金は、日ごろから、強盗にはいる
それから、三条を西へ折れて、
朽ち葉色の
太郎は、額を曇らせながら、思わず道ばたに足をとめて、苦しそうにつぶやいた。
「どうせみんな畜生だ。」
六
ふけやすい夏の
月はまだ上らない。見渡す限り、重苦しいやみの中に、声もなく眠っている
その時、王城の北、
「いいかい。今夜の仕事は、いつもより手ごわい相手なんだからね。みなそのつもりで、いておくれ。さしずめ十五六人は、太郎さんといっしょに、裏から、あとはわたしといっしょに、表からはいってもらおう。中でも目ぼしいのは、裏の
太郎は、黙って星を見ていたが、これを聞くと、くちびるをゆがめながら、うなずいた。
「それから断わっておくが、女子供を質になんぞとっては、いけないよ。あとの始末がめんどうだからね。じゃ、
こう言って、沙金は弓をあげて、一同をさしまねいたが、しょんぼり、指をかんで立っている、阿濃を顧みると、またやさしくことばを添えた。
「じゃ、お前はここで、待っていておくれ。
阿濃は、子供のように、うっとり沙金の顔を見て、静かに
「されば、
「おぬしこそ、また影法師なぞにおびえまいぞ。」
これと共に、二十三人の盗人どもは、ひとしく忍び笑いをもらしながら、
あとには、ただ、いつか月しろのした、うす明るい空にそむいて、
七
次郎は、二人の侍と三頭の犬とを相手にして、血にまみれた
相手を殺すか、相手に殺されるか、二つに一つより生きる道はない。彼の心には、こういう覚悟と共に、ほとんど常軌を逸した、凶猛な勇気が、刻々に力を増して来た。相手の太刀を受け止めて、それを向こうへ切り返しながら、足もとを襲おうとする犬を、とっさに横へかわしてしまう。――彼は、この働きをほとんど同時にした。そればかりではない。どうかするとその拍子に切り返した太刀を、逆にまわして、後ろから来る犬の
それがどのくらい続いたか、わからない。が、やがて、上段に太刀をふりかざした侍の一人が、急に半身を後ろへそらせて、けたたましい悲鳴をあげたと思うと、次郎の太刀は、早くもその男の
これから
「お
「なぜ十郎を捨てておくのじゃ。おぬしたちは矢玉が恐ろしゅうて、仲間を見殺しにする気かよ。」
「おぬしは、お
次郎は、このことばに皮肉な
やがて敵と味方は、見る見るうちに一つになって、気の違ったようにわめきながら、十郎の倒れている前後をめぐって、無二無三に打ち合い始めた。その中にまた、狩犬がけたたましく、血に飢えた声を響かせて、戦いはいずれが勝つとも、しばらくの間はわからない。そこへ一人、裏へまわった仲間の一人が、汗と
「あっちは皆ひき上げますぜ。」
その男は、月あかりにすかしながら、沙金の前へ来ると、息を切らし切らし、こう言った。
「なにしろ
「囲まれて、どうしたえ。」
「どうしたか、わかりません。が、事によると、――まあそれもあの人の事だから、
次郎は、顔をそむけながら、沙金のそばを離れた。が、
「それにおじじやおばばまで、手を負ったようでした。あのぶんじゃ殺されたやつも、四五人はありましょう。」
沙金はうなずいた。そうして次郎のあとから追いかけるように、険のある声で、
「じゃ、わたしたちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。
次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、
「しかたがないわね。じゃ、わたしたちだけ帰りましょう。」
そういう話のまだ終わらないうちに、そうして、次郎がそれを聞かないもののように、再び指を口に含んで相図を吹こうとした時に、盗人たちの何人かが、むらむらと備えを乱して、左右へ分かれた中から、人と犬とが一つになって、二人の近くへ迫って来た。――と思うと、沙金の手に
彼は
彼は、相手の血が、生暖かく彼の手にかかったのを感じた。太刀の先が
それからのちの事は、次郎にも、まるで夢のようにしか思われない。彼はただ、前後左右から落ちて来る
が、相手の一人を殺し、一人を追いはらったあとで、犬だけなら、恐れる事もないと思ったのは、結局次郎の空だのみにすぎなかった。犬は三頭が三頭ながら、大きさも毛なみも一対な茶まだらの
しかも、いら立てば立つほど、彼の打つ太刀は皆
が、彼のこの企ては、単に失敗したというだけの事ではない。実はそれがために、かえって
犬は、新しい餌食を見ると、一瞬のいとまもなく、あらしに吹かれて飛ぶ稲穂のように、八方から次郎へ飛びかかった。たくましい黒犬が、
次郎は、絶望の目をあげて、天上の小さな月を
するとその時である。月にほのめいた両京二十七坊の夜の底から、かまびすしい犬の声を圧してはるかに
―――――――――――――――――
しかしその間も
ひとり加茂川ばかりではない。さっきまでは、目の下に黒く
窓によりかかった
そのうちに、彼女はふと、胎児が動くのは、眠れないからではないかと思いだした。事によると、眠られないあまりに、小さな手や足を動かして、泣いてでもいるのかもしれない。「坊やはいい子だね。おとなしく、ねんねしておいで、今にじき夜が明けるよ。」――彼女は、こう胎児にささやいた。が、腹の中の身動きは、やみそうで、容易にやまない。そのうちに痛みさえ、どうやら少しずつ加わって来る。
君をおきて
あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
うろ覚えに覚えた歌の声は、あだし心を
われ持たばや
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
しかし、その子が、実際次郎の
なよや、末の松山
波も越えなむや
波も越えなむ
歌の声は、ともし火の光のように、次第に細りながら消えていった。そうして、それと共に、力のない波も越えなむや
波も越えなむ
―――――――――――――――――
相手の用意に裏をかかれた盗人の群れは、裏門を襲った一隊も、防ぎ矢に射しらまされたのを始めとして、
「はやるまいぞ。わしはこの殿の
「うそをつけ。――おのれにたばかれるような
侍たちは、口々にののしりながら、早くも
「何がうそじゃ。何がうそじゃよ。」
彼は、目を大きくして、あたりをしきりに見回しながら、逃げ場はないかと気をあせった。額には、つめたい汗がわいて来る。手もふるえが止まらない。が、周囲は、どこを見ても、むごたらしい生死の争いが、盗人と侍との間に戦われているばかり、静かな月の下ではあるが、はげしい
「うそをついたがどうしたのじゃ。
こう言うことばと共に、
「だまし討ちじゃ。だまし討ちを、食らわせおった。助けてくれ。だまし討ちじゃ。」
赤あざの侍は、その後ろからまた、のび上がって、血に染んだ
それから、二人の間には、ほとんど人間とは思われない、猛烈なつかみ合いが、始まった。打つ。
老婆は、肩で息をしながら、侍の死体の上に横たわって、まだ相手の
「おじいさん。おじいさん。」と、かすかに、しかもなつかしそうに、自分の夫を呼びかけた。が、たれもこれに答えるものはない。
「おじいさん。」
老婆は、血の交じった
その時である。太郎は、そこを
それも無理はない。彼は、味方の破れるのを見ると、よしや何物を得なくとも、この馬だけは奪おうと、かたく心に決したのである。そうして、その決心どおり、
彼の念頭には、沙金がある。と同時にまた、次郎もある。彼は、みずから欺く弱さをしかりながら、しかもなお
そのぬぐった太刀を、ちょうど
「次郎か。」
太郎は、我を忘れて、叫びながら、険しく
太郎は――一時に、色を失った太郎の顔には、もうさっきの微笑の影はない。彼の心の中では、何ものかが、「走れ、走れ」とささやいている。ただ、
「走れ、なぜ走らない?」ささやきは、耳を離れない。そうだ。どうせいつかしなくてはならない事である。おそいと早いとの相違がなんであろう。もし弟と自分の位置を換えたにしても、やはり弟は自分のしようとする事をするに違いない。「走れ。
するとたちまちまた、彼のくちびるをついて、なつかしいことばが、あふれて来た。「弟」である。肉身の、忘れる事のできない「弟」である。太郎は、かたく
「次郎。」
近づくままに、彼はこう叫んだ。心の中に吹きすさぶ感情のあらしが、このことばを機会として、一時に外へあふれたのであろう。その声は、
次郎は、きっと馬上の兄を見た。それは日ごろ見る兄ではない。いや、今しがた馬を飛ばせて、いっさんに走り去った兄とさえ、変わっている。険しくせまった
「早く乗れ。次郎。」
太郎は、群がる犬の中に、
と、たちまち一頭、血みどろの口をした黒犬が、すさまじくうなりながら、砂を巻いて
が、次郎は、それをうつくしい夢のように、うっとりした目でながめていた。彼の目には、天も見えなければ、地も見えない。ただ、彼をいだいている兄の顔が、――半面に月の光をあびて、じっと行く手を見つめている兄の顔が、やさしく、おごそかに映っている。彼は、限りない安息が、おもむろに心を満たして来るのを感じた。母のひざを離れてから、何年にも感じた事のない、静かな、しかも力強い安息である。――
「にいさん。」
馬上にある事も忘れたように、次郎はその時、しかと兄をいだくと、うれしそうに微笑しながら、
八
中でも、いちばん
「やい、おばば、おばばはどうした。おばば。」
彼は、
「おばばか。おばばはもう十万億土へ行ってしもうた。おおかた
言いすてて、自分の冗談を、自分でからからと笑いながら、向こうのすみに、
「お
沙金は、あでやかな声で、笑った。
「冗談じゃないよ。どうせ死ぬものなら、自然に死なしておやりな。」
「なるほどな、それもそうじゃ。」
と、たれか、彼の苦しみも知らないように、
いたち笛ふき
猿 かなず
いなごまろは拍子うつ
きりぎりす
ぴしゃりと、蚊をたたく音が、それに次いで聞こえる。中には「ほう、やれ」と拍子をとったものもあった。二三人が、肩をゆすったけはいで、息のつまったような笑い声を立てる。――いなごまろは拍子うつ
きりぎりす
あの虫のように、自分もほどなく死ななければならない。死ねば、どうせ
「畜生。人でなし。太郎。やい。
まわらない舌の先から、おのずからこういうことばが、とぎれとぎれに落ちて来る。――
「太郎さんは、よくよく憎まれたものさな。」
「太郎さんはどうした。」とたずねたものがある。
「まず助かるまいな。」
「死んだのを見たと言うたのは、たれじゃ。」
「わしは、五六人を相手に切り合うているのを見た。」
「やれやれ、
「次郎さんも、見えないぞ。」
「これも事によると、同じくじゃ。」
太郎も死んだ。おばばも、もう生きてはいない。自分も、すぐに死ぬであろう。死ぬ。死ぬとは、なんだ。なんにしても、自分は死にたくない。が、死ぬ。虫のように、なんの
夜はたれとか寝 む
常陸 の介 と寝 む
寝 たる肌 もよし
男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
また、鼻歌の声が、油しめ男山の峰のもみじ葉
さぞ名はたつや
「
「なるほど、そうじゃ。」
「おおかた、この上に寝ておろう。」
「や、上で
みな、一時にひっそりとなった。その中を、絶え絶えにつづく
「猫も化けるそうな。」
「
すると、
「猫じゃないよ。ちょっとたれか行って、見て来ておくれ。」
声に応じて、
「どうじゃ。
平六は、
「上へ上がって見ると、阿濃め、窓の下へつっ伏したなり、死んだようになって、うなっていると、
「やあ舌がある。」
前に鼻歌をうたった男が、
「その子を見せてくれ。よ。その子を。見せないか。やい、
平六は、足で彼の頭をこづいた。そうして、おどかすような調子で、こう言った。
「見たければ、見るさ。極道とは、おぬしの事じゃ。」
猪熊の爺は、濁った目を大きく見開いて、平六が身をかがめながら、無造作につきつけた赤ん坊を、食いつきそうな様子をして、じっと見た。見ているうちに、顔の色が、次第に
「この子は――この子は、わしの子じゃ。」
彼は、はっきりこう言って、それから、もう一度赤ん坊の指にふれると、その手が力なく、落ちそうになる。――それを、
「
平六は、たれに言うともなく、つぶやいた。――
「
「さればさ。
「
「
盗人たちは、口々にこんな事を、うす寒そうに、話し合った。と、遠くで、かすかに、鶏の声がする。いつか夜の明けるのも、近づいたらしい。
「阿濃は?」と沙金が言った。
「わしが、あり合わせの
平六の答えも、日ごろに似ずものやさしい。
そのうちに、盗人が二人三人、
「
「無常迅速。」
「生き顔より、死に顔のほうがよいようじゃな。」
「どうやら、前よりも真人間らしい顔になった。」
猪熊の爺の死骸は、
九
翌日、猪熊のある家で、むごたらしく殺された女の死骸が発見された。年の若い、
また、不思議な事には、その家の
その夜、阿濃は、夜ふけて、ふと目をさますと、太郎次郎という兄弟のものと、
「その上、その次郎さんと申しますのが、この子の親なのでございます。」
「それから、太郎さんと次郎さんとは、わたしの所へ来て、たっしゃでいろよと申しました。この子を見せましたら、次郎さんは、笑いながら、頭をなでてくれましたが、それでもまだ目には涙がいっぱいたまっておりましたっけ。わたしはもっとそうしていたかったのでござりますが、二人とも、たいへんに急いで、すぐに外へ出ますと、おおかた
それから、十年余りのち、尼になって、子供を養育していた阿濃は、
「次郎さんなら、わたしすぐにも駆けて行って、会うのだけれど、あの人はこわいから……」
(大正六年四月二十日)
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