「
「毛利先生と云うのは誰だい。」
「僕の中学の先生さ。まだ君には話した事がなかったかな。」
自分は
―――――――――――――――――――――――――
もうかれこれ十年ばかり以前、自分がまだある府立中学の三年級にいた時の事である。自分の級に英語を教えていた、
自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任当日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎えると云う好奇心に圧迫されて、
が、
「諸君」と、
自分たちは過去三年間、
しかし毛利先生は、「諸君」と云ったまま、教室の中を見廻して、しばらくは何とも口を開かない。肉のたるんだ先生の顔には、悠然たる微笑の影が浮んでいるのに
「諸君」
やがて
「これから
しかし幸いにして先生は、自分たちが笑を
が、その生徒が席に復して、先生がそこを訳読し始めると、再び自分たちの間には、そこここから失笑の声が起り始めた。と云うのは、あれほど発音の妙を極めた先生も、いざ翻訳をするとなると、ほとんど日本人とは思われないくらい、日本語の数を知っていない。あるいは知っていても、その場に臨んでは急には思い出せないのであろう。たとえばたった一行を訳するにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とうとう飼う事にしました。何を飼う事にしたかと云えば、それ、あの妙な
勿論猿でさえこのくらいだから、少し面倒な
それでもなお毛利先生は、休憩時間の
―――――――――――――――――――――――――
それから三四日
「どうだね、今度来た
「ええ、あんまり――何です。
「お前よりも出来ないか。」
「そりゃ僕より出来ます。」
「じゃ、文句を云う事はないじゃないか。」
豪傑はミットをはめた手で頭を掻きながら、
「でも先生、僕たちは
「何、たった一学期やそこいら、誰に教わったって同じ事さ。」
「じゃ毛利先生は一学期だけしか御教えにならないんですか。」
この質問には丹波先生も、いささか急所をつかれた感があったらしい。
「そりゃ毛利先生は、随分古い人だから、我々とは少し違っているさ。今朝も僕が電車へ乗ったら、先生は一番まん中にかけていたっけが、乗換えの近所になると、『車掌、車掌』って声をかけるんだ。僕は
「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へ
「あのいつも腰に下っている、白い
「毛利先生が電車の
自分たちは丹波先生を囲んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく
「それよりかさ、あの帽子が
こう云う自分も皆と一しょに、
―――――――――――――――――――――――――
就任の当日
それがかれこれ二三十分も続いたであろう。その中に毛利先生は、急に
「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいったって、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでしょう。我々になると、ちゃんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これで
「先生、僕たちは英語を教えて頂くために、出席しています。ですからそれが教えて頂けなければ、教室へはいっている必要はありません。もしもっと御話が続くのなら、僕は今から体操場へ行きます。」
こう云って、その生徒は、一生懸命に
「いや、これは
が、この気の毒な光景も、当時の自分には
それから休憩時間の
―――――――――――――――――――――――――
こう云う次第だったから、一学期の
すると大学を卒業した年の秋――と云っても、日が暮れると、しばしば深い
ところが、はいって見るとカッフェの中は、狭いながらがらんとして、客の影は一人もない。置き並べた大理石の
鏡の中には、二階へ上る
自分は先生を見ると同時に、先生と自分とを隔てていた七八年の歳月を、
「そら、ここにある形容詞がこの名詞を支配する。ね、ナポレオンと云うのは人の名前だから、そこでこれを名詞と云う。よろしいかね。それからその名詞を見ると、すぐ後に――このすぐ後にあるのは、何だか知っているかね。え。お前はどうだい。」
「関係――関係名詞。」
給仕の一人が
「何、関係名詞? 関係名詞と云うものはない。関係――ええと――関係代名詞? そうそう関係代名詞だね。代名詞だから、そら、ナポレオンと云う名詞の代りになる。ね。代名詞とは名に代る
話の具合では、毛利先生はこのカッフェの給仕たちに英語を教えてでもいるらしい。そこで自分は
自分は鏡の中のこの光景を、しばらく眺めている間に、毛利先生に対する温情が意識の表面へ浮んで来た。一そ自分もあすこへ行って、先生と
自分は眼を伏せたまま、給仕の手から伝票を受けとると、黙ってカッフェの入口にある
「あすこに英語を教えている人がいるだろう。あれはこのカッフェで頼んで教えて貰うのかね。」
自分は金を払いながら、こう尋ねると、給仕頭は戸口の往来を眺めたまま、つまらなそうな顔をして、こんな答を聞かせてくれた。
「何、頼んだ
これを聞くと共に自分の想像には、
「名に代る
(大正七年十二月)
(声明:本文内容均出自日本青空文库,仅供学习使用,勿用于任何商业用途。)