或秋の夜半であつた。
少女はそれにも関らず、西瓜の種を噛みやめては、時々涼しい眼を挙げて、卓の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな
少女は名を
かう云ふ金花の行状は、勿論彼女が生れつきにも、拠つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、
――さう云へば今年の春、
「お前は耶蘇教徒かい。」と、
「ええ、五つの時に洗礼を受けました。」
「さうしてこんな商売をしてゐるのかい。」
彼の声にはこの瞬間、皮肉な調子が交つたやうであつた。が、金花は彼の腕に、
「この商売をしなければ、
「お前の父親は老人なのかい。」
「ええ――もう腰も立たないのです。」
「しかしだね、――しかしこんな稼業をしてゐたのでは、天国に行かれないと思やしないか。」
「いいえ。」
金花はちよいと十字架を眺めながら、考深さうな眼つきになつた。
「天国にいらつしやる基督様は、きつと私の心もちを汲みとつて下さると思ひますから。――それでなければ基督様は
若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隠しを探ると、
「これはさつき日本へ
金花は始めて客をとつた夜から、実際かう云ふ確信に自ら安んじてゐたのであつた。
所が
すると或日陳山茶が、金花の部屋へ遊びに来た時に、こんな迷信じみた療法を
「あなたの病気は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておしまひなさいよ。さうすればきつと二三日中に、よくなつてしまふのに違ひないわ。」
金花は
「ほんたう?」と、軽く聞き返した。
「ええ、ほんたうだわ。私の姉さんもあなたのやうに、どうしても病気が
「その御客はどうして?」
「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」
山茶が部屋を去つた後、金花は独り壁に懸けた十字架の前に
「天国にいらつしやる基督様。私は
かう決心した宋金花は、その後山茶や迎春にいくら商売を勧められても、剛情に客をとらずにゐた。又時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに来ても、一しよに煙草でも吸ひ合ふ外に、決して客の意に従はなかつた。
「私は恐しい病気を持つてゐるのです。側へいらつしやると、あなたにも移りますよ。」
それでも客が酔つてでもゐて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花は何時もかう云つて、実際彼女の病んでゐる証拠を示す事さへ
今夜も彼女はこの
金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、やがて身震ひを一つすると
金花は思はず立ち上つて、この見慣れない外国人の姿へ、
「何か御用ですか。」
金花は
客は彼女が当惑らしく、美しい眉をひそめたのを見ると、突然大声に笑ひながら、無造作に鳥打帽を脱ぎ離して、よろよろこちらへ歩み寄つた。さうして
支那語を知らない外国人と、長い一夜を明す事も、金花には珍しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、
客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた顔は、この
「この間肥つた奥さんと一しよに、
金花がこんな事を考へてゐる内に、
金花はちよいと椅子をずらせて、西瓜の種を含んだ儘、当惑らしい顔になつた。客は確に二弗の金では、彼女が体を任せないと云つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言葉の通じない彼に、立ち入つた
所が相手の外国人は、
それから二人は長い間、手真似と身ぶりとの入り交つた押し問答を続けてゐた。その間に客は根気よく、一本づつ指の数を増した揚句、しまひには十
彼女は
「何でも何処かで見たやうだと思つたのは、この基督様の御顔だつたのだ。」
金花は
やがて客はパイプを止めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑ひ声の言葉をかけた。それが金花の心には、
客はズボンの隠しを探つて、じやらじやら銀の音をさせながら、依然とうす笑ひを浮べた眼に、暫くは金花の立ち姿を好ましさうに眺めてゐた。が、その眼の中のうす笑ひが、熱のあるやうな光に変つたと思ふと、いきなり椅子から飛び上つて、酒の匂のする背広の腕に、力一ぱい金花を抱きすくめた。金花はまるで
二
数時間の後、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな
* * *
――金花は
彼女の椅子の後には、
金花は時々箸を止めて、
それにも関らず卓の上には、食器が一つからになると、
その内に金花は誰か一人、音もなく彼女の椅子の後へ、歩み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後を振り返つて見た。すると其処にはどう云ふ訳か、あると思つた窓がなくて、
金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに来た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯気の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然
「あなたも此処へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい声をかけた。
「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」
円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
「ではあなたは召上らないのでございますか。」
「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。
南京の基督はかう云つたと思ふと、
* * *
天国の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狭い部屋中にうすら寒く拡がり出した頃であつた。が、
金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉の丸焼きや、耶蘇基督や、その外いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寝台の中が、だんだん
「もしあの人に病気でも移したら、――」
金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝は
「ではあれも夢だつたかしら。」
部屋は冷かな朝の空気に、残酷な位
「やつぱり夢ではなかつたのだ。」
金花はかう
「それとも本当に帰つたのかしら。」
彼女は重い胸を抱きながら、毛布の上に脱ぎ捨てた、黒繻子の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顔には見る見る内に、生き生きした血の色が拡がり始めた。それはペンキ塗りの戸の向うに、あの怪しい外国人の足音でも聞えた為であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移り香が、偶然恥しい昨夜の記憶を
「ではあの人が基督様だつたのだ。」
彼女は思はず
三
翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家は
「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」
その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に真面目になつて、一夜南京に
その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を独り考へてゐた。――
「おれはその外国人を知つてゐる。あいつは日本人と
金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに
「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後一度も
「ええ、一度も。」
金花は西瓜の種を
本篇を草するに当り、谷崎潤一郎氏作「秦淮 の一夜」に負ふ所尠 からず。附記して感謝の意を表す。
(大正九年六月)
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