小川未明
犬ころしが、はいってくるというので、犬を飼っている家では、かわいい犬を捕られてはたいへんだといって、畜犬票をもらってきてつけてやりました。
しかし、かわいそうなのは、宿なしの犬でありました。寒い晩も、あたたかい小舎があるのでないから、軒下や、森の中で、眠らなければなりません。また、だれも、畜犬票などをもらってきて、つけてくれるものがなかったのです。
勇ちゃんは、外を歩いているとき、いろいろの犬を見ました。首輪に、札のついているのは、どこを歩いていても、安心だから、べつになんとも思わなかったけれど、なかには、首輪のないもの、また、首輪はあっても、札のついていないものがありました。それらの犬たちは、捨てられたか、森や、空き家の中で生まれたかして、まったく飼い主のないものでありました。
しっかりした人間の助けを受けているものと、なんの助けもないものと、どちらがしあわせでありましょう?
「犬ころしに見つかったら、いつ捕まえられてしまうかしれない。」と、勇ちゃんは、札のない犬を見るとあわれに思いました。そして、そのたびに、クロのことが、心配でならなかったのでした。
勇ちゃんの、かわいがっているクロは、やはり、宿無し犬であります。森の中で生まれて、森の中で大きくなったので、めったの人にはなつきませんでしたが、勇ちゃんは、自分のもらったお菓子を分けてやったり、また、魚の骨があれば、わざわざ持っていってやったり、平常から、クロをかわいがっていましたので、クロは、だれよりも、いちばん勇ちゃんになついていました。
ほかの人が、クロを呼ぶと、すぐ近くまできて、尾を振るけれど、けっして、頭をなでようとしても、そばへはきませんでした。そして、注意深く、相手の顔色をうかがっていました。勇ちゃんが呼ぶと、勇ちゃんだけには、安心しているとみえて、そばへ寄り、足もとへからだをすりつけました。そして、頭をなでてやると、目を細くして、クン、クンといって喜びました。だから、勇ちゃんが、クロをかわいがるのも無理はありません。
「ねえ、お母さん、クロを家の犬にしてくださいませんか。」と、勇ちゃんは、たびたび、頼んだのであります。
いつも、お母さんは、こころよい返事をしてくださいませんでした。
「生きものを飼うのは、めんどうです。しまいには、その世話を私がしなければなりませんから……。」と、おっしゃいました。
「いいえ、お母さん! 僕が、犬の世話をします。」と、勇ちゃんは、いいましたけれど、お母さんは、なかなかそれをお信じになりませんでした。
また、あるときは、勇ちゃんがしつこく頼むと、お母さんは、
「いつかも、おまえがそういって、小鳥を飼ったことがあるが、その世話は、みんなお母さんがしなければならなかったじゃありませんか? 小鳥とちがって、犬の世話は、私にはできませんから。」と、おっしゃいました。
勇ちゃんは、お母さんに頼んでも、望みがないと思いましたから、こんど、お父さんにお願いしてみようと考えました。そして、お父さんが、承知してくだされたなら、そのときは、お母さんだって、許してくださるにちがいないと思ったのでした。
「よう、お父さん! クロをうちの犬にしてください。」
勇ちゃんは、役所からお帰りになった、お父さんの頸ったまにすがりついてねだりました。さすがにお父さんは、自分が子供の時分、犬や、ねこや、小鳥や、そうした動物がすきだったばかりでなく、飼ったことの経験があるので、頭からいけないとは、いわれませんでした。そして、クロという犬は、どんな犬だと、くわしく、勇ちゃんから、ようすをおききになりました。
勇ちゃんは、知るかぎり、クロのりこうなことを話しました。
「そりゃ、クロという犬はりこうなんですよ。僕とならいっしょについてゆきますけれど、ほかの人には、ついてゆかないのです。僕といっしょでも、すこし遠くへゆくと、さっさと独りで帰ってしまいます。自分に、鑑札がないということを知っているんですね。」
こう、いいますと、お父さんは、うなずきながら、きいていられましたが、
「おまえのいうとおりです。しかし、そのクロばかりでありません。すべて野犬はりこうなものです。だれも、保護してくれるものがないから、自分の気を許さないのです。そして、生まれから、野で育った犬は、家へつれてきてもいつくものではないから、うちで飼うなどと考えずに、おまえが、かわいがってやれば、それでいいのです。」と、お父さんは、論されました。
なるほど、いつかないということが、勇ちゃんにもわかったから、このうえ無理にお父さんにお願いしても、むだだと悟ったのでした。
「しかし、犬ころしに見つかったら、つれていってしまわれるだろう……。」と思うと、どうしたらいいだろうかと気をもんだのでした。
晩に、森の方で犬のなき声がしたり、昼間でも、犬がやかましくほえて、あたりがなんとなく騒がしく感ぜられると、犬ころしが、やってきたのでないかしらん、そして、クロが、つかまったのでないかしらんと、胸がどきどきしました。勇ちゃんは、外へ飛び出していって、クロの姿を見るまでは、安心されなかったのであります。
ある日、勇ちゃんは、徳ちゃんが、銅製のメダルを持っているのを見ました。そのメダルは、ちょうど、畜犬票が、古くなったような、大きさも、色合いも、そっくりでありましたので、もしこれを犬の首輪にぶらさげておいたら、だれの目にも、畜犬票と見えるであろうと思いました。
「徳ちゃん、そのメダルを、僕にくれない?」
と、勇ちゃんは、いいました。
徳ちゃんは、目をまるくして、驚いたというようなようすをして、
「これは、僕、やっと人からもらった大事なやつなんだぜ。デッドボールの優勝メダルだからな。」と、徳ちゃんは、答えました。
「なにかと交換しようよ。」と、勇ちゃんは、いったのです。
「どんなものと?」
「万年筆と……。」
「いつかのかい、あんなものはいやだ。だってプラチナがなくなって、そのうえ、こわれているんじゃないか? あんなもの、字なんか書けやしないもの。」
「じゃ、僕の持っているもので、なんでも、君の好きなものと換えてくれないか。」
勇ちゃんが、こういうと、徳ちゃんは、メダルを勲章のように、自分の胸のあたりにつけるまねをしてみせました。
「いつか、僕に見せた、あの青い石となら、換えてもいいよ。」
ややしばらくしてから、徳ちゃんが、こう答えました。
「あの、僕が、田舎から持ってきた、青い石かい?」
こんどは、勇ちゃんが、目をまるくしたのです。
「ああ、あの青い石となら、換えてもいいな。」と、徳ちゃんは、勇ちゃんの顔を見ました。
「あの、青い石は、大事なんだがなあ。」と、勇ちゃんは、考えていました。
「あの石でなければ、僕も、いやだ!」と、徳ちゃんが、いいました。
「万年筆だといいのだがなあ……。君、万年筆では、だめかい?」
「あんな、君んちの、姉さんの持っていた、お古なんかいやだ。」
「じゃ、青い石と換えようよ。」と、勇ちゃんは、メダルがほしいばかりに、つい決心しました。
「ああ、換えよう!」
徳ちゃんは、青い石が、前から、ほしかったので、にっこりしました。勇ちゃんは、自分の家へ青い石を取りに駆けてゆきました。
この、青い石というのは、勇ちゃんが、夏休みに、遠い北のおばあさんのところへいったとき、垣根のきわの、道の上に頭を出していたのです。あまりに、青くて、きれいだったので勇ちゃんは、棒きれでいっしょうけんめいに、その石を掘り出しました。そして、野ばらの咲く里川で、その石を洗いました。石は水にぬれると、空の色よりも、もっと青い色をしていました。
勇ちゃんといっしょに、青い石は、暗い長い、トンネルを汽車で通って、知らない他国へきたのでした。そして、知らない町の空の下で、じっと太陽を見上げました。石は、ものをいいませんが、どんなに心細かったかしれません。勇ちゃんが、この大事な石を、友だちに見せると、
「いい石だなあ。」と、良ちゃんも、徳ちゃんも、善ちゃんも、ほめたのでした。
それから、勇ちゃんは、石をひきだしの中にいれて、ときどきだしてみました。この石を見るといつでも、田舎のおばあさんの顔や、おばあさんの家のいけがきや、白い野ばらの咲いている里川の景色が、ありありと浮かんで見えたのでした。
しかし、青い石よりは、クロの命のほうが、はるかに大事であったからです。勇ちゃんは、石と取り換えたメダルをクロのくびにつけてやりました。そのためか、あるいは、クロがりこうで、用心深かったためか、ほかの野犬が、幾ひきも捕まえられていったのに、クロだけは、無事でありました。
「あんなに、勇治が犬をかわいがるのだから、ほんとうの鑑札を受けてやろうか。」と、ある日勇ちゃんのお父さんは、クロが喜んで、勇ちゃんに飛びついているようすを見て、こういわれたのであります。