この時、私はやはり普通の婆さんでしかないというより他は思われなかった。何んで悪魔なもんか……普通の人の好い婆さんだと思った。明る日、私は鉄工場へ行った時仲間の者に向って、
「何処か安い間があったら移りたいと思うから探してくれませんか……何 に今日や明日でなくってもいそがなくてもよいのだから。」といった。
晩方家へ帰ると、その晩から私は発熱がして頭が重くなった。風をひいたのだ。明る日は工場を休んで臥 ていた。また便所に行く時下りて、婆さんに今日は風をひいたから休んだといったら、それは罪のない笑い方をやって、
「へへへへへ。」と笑って、やはり枯れた指頭 で窪んだ両眼を擦って、決して気の毒だとも何ともいわなかった。
昼頃再び二階を下りた時に、私は、
「昨夜 雨戸を閉めるのを忘れて眠 たので風をひいたのだ。今日は咽喉 が腫れましたよ。」と語ると婆さんはさも嬉しそうに、喜 しそうに以前よりも、もっと罪がなさそうに、
「へへへへへへへへへ。」と笑って、枯れた指頭で両眼を擦っている。私は、
「この婆は冷酷な婆だな。」と白眼 で睨んでやった!
腹立しく思って、私は二階へ上ると青い室の裡で臥ていて、ばたばたやって熱のために苦しんだ。青い室が一時は黄色く見えて、熱のため眼の心 が痛んだ。薄暗い室の中が熱臭くなって、むうむうとする。私は毛布を頭から被って耳朶 の熱するのを我慢して早く風を癒 そうと思って枕や、寝衣 がびっしょり湿 れる程汗を取った。これで明日は癒りそうだ。ドラ腐敗した空気を新鮮な空気に入れ換ようと高窓を開けにかかると足がふらふらして床の上に倒れた。まだ日暮前であった。その儘私は、腐った空気の中で、五体が疲れたためすやすやと二三時間程眠ったのである。眼が醒めた時には、もう暗くなっていた。
高窓には、青い月の光りが射している。戸外 は霜が降って寒いと見 て往来を通る人の下駄の音が冴えて聞える。まだ宵の口には相違ない。私はランプを点 そうと思って、手探りに四辺 を探したが分らなかった。で、二階を降りて下を見ると、暗い飴色のランプの下に白髪頭の老婆は、やはりいつもと同じ方向に対 って茫然 として坐っている。勿論 長火鉢に相変らず火の気がなかった。身を切るように寒さが膚 に浸みた。老婆は、痩せ細った手をきちんと膝の上に重ねている――この時私は老婆の向いている方向には、何 かあるのでないかと思ったから、その方を見たが何もない。ただその方角は鬼門で歳破金神 に当っていると思ったことと、暗いランプの光りに照されて隅の煤けた柱に頭の磨り切れた古箒 が下っていた。私は婆さんが、あの箒を見ているのかと思った。
「どうも苦しくて死にそうでしたよ。」と唐突 にいって、私は出来るだけ婆さんを驚かして、今少し複雑な情味ある話を聞きたいと思った。婆さんは、また罪のない(私にはそう見える)笑いをやって、
「へへへへへへへへ。」といって皺の寄った顔と凹んだ眼のあたりを枯れた血の気のない手で撫廻 した。
「ひどい熱でした。死ぬかと思いました。」と極めて誇張して言って、何 ういうか婆さんの返事が聞きたかった。けれど婆さんは少しも騒いだ様子も見せずにへへへへと笑って、たえず顔を撫で廻している。若 しこの婆さんの笑いが毒々しい笑いで、面付 が獰悪 であったら私はこの時、憤怒 して擲 り飛 したかも知れない。いくら怖しいといったって、たかが老耄 た婆 でないか。けれどその笑いがいかにも罪がなく、無邪気であった。で、何処か私の死んだ婆さんに似た処があって恍然 した処がある。私は、この老婆は果して罪のない老婆であろうか。それとも斯様 に罪なげに見えるがその実腹の怖しい婆であるのか分らなかった。
兎 に角 この笑いは謎だ! と思った。
「医者にかかれば金が入るし困ったものだ。この分ではまだ明日も癒りそうもない。」といった。けれど斯様ことを言ったって、老婆はちっとも感じなかった。へへへへへへと無気味に笑って、ひからび切 た手で顔を撫で廻している。
私はまた死んだ祖母に向って話しているような気がして、罪のない仏様のような婆さんだとも思った。
けれども決してそうでない! 先日病院の石垣の下で遇 ったことや家に道具一つないことや、いつもこうやって坐っていて、食物 を食った様子も見ないことや、長火鉢に火の気のないことや――而 してこの老婆は子も孫もなく一人で生きているということを考えた時、私はもはやこの老婆に捕われてしまって、到底この家 から逃出すことが出来ない運命に陥っているように感ぜられた。
「何処か安い間があったら移りたいと思うから探してくれませんか……
晩方家へ帰ると、その晩から私は発熱がして頭が重くなった。風をひいたのだ。明る日は工場を休んで
「へへへへへ。」と笑って、やはり枯れた
昼頃再び二階を下りた時に、私は、
「
「へへへへへへへへへ。」と笑って、枯れた指頭で両眼を擦っている。私は、
「この婆は冷酷な婆だな。」と
腹立しく思って、私は二階へ上ると青い室の裡で臥ていて、ばたばたやって熱のために苦しんだ。青い室が一時は黄色く見えて、熱のため眼の
高窓には、青い月の光りが射している。
「どうも苦しくて死にそうでしたよ。」と
「へへへへへへへへ。」といって皺の寄った顔と凹んだ眼のあたりを枯れた血の気のない手で
「ひどい熱でした。死ぬかと思いました。」と極めて誇張して言って、
「医者にかかれば金が入るし困ったものだ。この分ではまだ明日も癒りそうもない。」といった。けれど斯様ことを言ったって、老婆はちっとも感じなかった。へへへへへへと無気味に笑って、ひからび
私はまた死んだ祖母に向って話しているような気がして、罪のない仏様のような婆さんだとも思った。
けれども決してそうでない! 先日病院の石垣の下で