森の妖姫
小川未明
昔、昔、ずっと昔に或る忠義な
もはや春もくれて、雲白き南信濃路に夏の眺めを賞せんものと、青年画家の一人は画筆を
都を立出でて、既に六十日、今や盛夏を告げ顔なる、蝉や、
やおら青年は
次の日も青年は、写生に出掛けた。
白雲は折々、湖面を渡った。風は折々樹の葉を鳴らした。人も来ない、寂しい山中のこの辺の景色、永劫の自然を思い、人生の
うっとりと見れば、若者の恋しい。
昔ながらの、青く、動かぬ水に映つる。
絵筆とる、指の白くて、
その面形 の、何とのう、恋しの夫 に似たり。
紅き野薔薇の花を摘んで、唇にあてれば、胸の血潮が沸いて、耳朶 が熱する。
よそよそと吹く夕風、怨 みもとけて酔 い心地となった。若 やかな、恋をば又してみようか。
月の上る頃 い、水辺の森に来て、琴を鳴らし、ああ、頸 に掛けたる宝玉 を解いて、青年 に契 を結ぼう。
あれ、彼処 に我が兄子 の、狩の扮装 をして野原に馳 せて行きやる。あれ、馬から落ちられた。
ああ、血潮を浴びて、白羽の矢が額を射貫 したわいのう。
水に映る白雲の、いつしか消えてしまった。西の夕焼あかあかと、
木々の葉風の怪 しく光る。
昔ながらの、青く、動かぬ水に映つる。
絵筆とる、指の白くて、
その
紅き野薔薇の花を摘んで、唇にあてれば、胸の血潮が沸いて、
よそよそと吹く夕風、
月の上る
あれ、
ああ、血潮を浴びて、白羽の矢が額を
水に映る白雲の、いつしか消えてしまった。西の夕焼あかあかと、
木々の葉風の
許してたもれ! 許してたもれ!