それは当たり前のことだが、みんなが勤勉に働いてくれないと生産が不足して、人々が飢えてしまうからだ。
「アリとキリギリス」の童話でも、働き者のアリが賞賛され、怠け者のキリギリスのようにならないように、世界中の多くの子どもたちが教育をされてきた。ところが、消費不足社会になると、むしろ、働き者のアリが邪魔になってくる。勤勉に働き続けて、あまり消費をしてくれずに一生を終えていくアリが増えると、ただでさえ生産が過剰なのに、物が余計に余ってしまう。その一方で、物不足の時代には働いて食べ物を蓄えておかないと冬に飢え死にしてしまったキリギリスが、物余りの時代には、冬でも十分に食料が余っているから冬に飢え死にしないですむ。あまり働かないで消費をしてくれる怠け者のキリギリスのほうが、むしろ社会にとって有益な存在となりかねないのだ。個人にとっても、キリギリスのような生き方のほうが一生楽しく暮らせて幸せになれるかもしれない。
このようにパラダイムが代わると、「まじめに働いている人より、遊んでいる人のほうが価値がある」ということになってくる。そういわれても、我々はなかなかそんな価値観にはなれないのだが、そのくらい大きな発想の転換が必要なパラダイム・シフトが起こっているのだ。
そのような社会になると、「お金持ち」や「偉い人」に対する考え方も変えなければならない。今では、お金持ちになっても質素な生活をしている人ほど賞賛された。偉い人でも、たとえば、行政改革を進めようとした元経団連会長の土光敏夫さんのようにメザシを食べている人が人々の尊敬を集めた。しかし、これからは、消費に貢献してくれる人が世の中を支えることになる。したがって、お金を贅沢に使ってくれるお金持ちや、遊びのうまい経営者のほうが、社会にとってより必要な存在となってくる可能性が高いのだ。
教育のあり方も、もしかすると変えなければいけないのかもshしれない。私自身、これまで自分が主張してきた「反ゆとり教育」の考え方を一度疑ってみる必要があるのではないかとさえ思っている。
私はゆとり教育の時代になって、子どもたちが勉強しなくなると、学力低下が進み、日本の競争力が落ちるということを憂えていた。しかし、この私の発想は、あくまでも「生産性を高めて競争力を高めることが正しい」ということを前提にしているような気がする。もっとも、ゆとり教育推進派の人たちも、「ゆとり教育を進めたほうが子どもたちの創造性が増す」と主張しているのだから、同じく生産性を高めることを良しとしているのであるが。
パラダイムが一変してしまった物余り時代には、「こんな消費不足の時代だから、ゆとり教育でもして、生産性が低くて消費ばかりしてくれるような「遊び人間」をつくるべきだ」と主張する人がいたら、もしかすると、その人のほうが正しいのかもしれない。子育てや教育の中で、「お金を使わないとダメだ」と教えたり、浪費を奨励したりすることは、私自身非常に抵抗があるけれども、自分の考え方を疑ってみる必要があるほど、大きなパラダイム変化が起こっていることは事実であろう。需給ギャップがこれ以上広がらないような政策を実行したり、人々は需給ギャップを縮めるような発想に大きく転換しないと、今後の日本社会の繁栄はないのかもしれない。
(和田秀樹「「疑う力」の習慣術」による)
1、「働き者のアリが邪魔になってくる」のはなぜか。
①勤勉に働いているため、怠け者の仲間に嫌われるから。
②働いばかりで、あまり消費しないため、生産過剰になりかねないから。
③物が過剰の社会において生産することは社会の負担でしかないから。
④消費が過剰の社会において勤勉に働いても役立たないから。
2、「物不足の時代」の説明として正しいのはどれか。
①生産性が低いため、あまり働かない人を奨励してきた。
②お金持ちが少ないため、消費を貢献してくれる人が大事にされてきた。
③消費する人よりまじめに働く人のほうが社会の大事な存在であった。
④お金をたくさん使う人の存在が必要とされた。
3、「需給ギャップを縮めるような発想」とは何か。
①消費を奨励すること
②節約を奨励すること
③貯金を奨励すること
④浪費を奨励すること
4、この文章で筆者が最も言いたいことは何か。
①大量生産の時代において、それに見合う大量消費がないと、生産が過剰になり、莫大な損失を蒙ることになるだろう。
②今の時代においては、生産することより消費することのほうが経済の発展に貢献できるだろう。
③時代の変化に伴って、社会の価値観も変わり、これからの時代は消費がより重要になっていくだろう。
④物余りの時代には浪費を奨励し、生産性の低い遊び人間を作っていては、社会の繁栄は実現できないだろう。