例えば、ある資料から、織田信長という人を理解する方法は、現に見聞している隣人の行動や話から、その人を直知する方法と、根底的には少しも変わらない。一片の資料と現在の生活経験さえあれば、仮設も理論も介在させずに、過去の人間を生き返らせることができる。なぜであるか、なぜだか知らないが、過去は現在の中にあるから、人は事実だとか資料だとかいうものを指して、歴史と呼ぶ勘違いを起こすことになる。歴史とは( )という行為以外の何ものでもない。人は客観的に思い出すことなどできはしない。いかなることであれ、心で思うということは、自分を思うということ以外ではあり得ないのだ。このことが歴史家たちの間では、ほとんど自覚されていないように思われる。
(池田晶子「新・考えるヒント」より)
1、「ある資料から、織田信長という人を理解する方法は、…と、根底的には少しも変わらない」とあるが、それはどうしてか。
①信長という歴史上の人物であれ、現に存在する隣人であれ、自分の現在の生活経験に照らし合わせて、知ることができるから。
②信長でも隣人でも、それぞれの人物を取り巻く歴史的背景を詳しく理解する必要がある点では同じだから。
③信長という歴史上の人物を理解するにはその当時の資料、隣人を知るには直接見聞した人の資料があればいいから。
④信長も隣人も独自の個性の持ち主であるからこそ、関心を持たれ理解されるちぃう点では同じだから。
2、( )に入るものとして、最も適当なのはどれか。
①反省する
②考察する
③思い出す
④比較する