三十分で小田原《おだわら》、一時間で静岡、一時間半で浜松、それぞれの駅をおおむね規則正しく通り抜けて、二時間で名古屋へ着く。
今日は雲が厚く垂れこめていて、富士山は見えそうもない。中彦の脳裏に、朋子《ともこ》と初めて会った頃のことが浮かび、飛び去って行く。
中彦は大学二年生だった。夏休みの少し前、デパートへアルバイトに行き、雑貨売り場に配属された。ツチノコの縫いぐるみが売り出され、人気の商品になっていた。
朋子はその売り場にいて、
「このくらいの箱には、このくらいの包み紙がいいの」
「はい」
「右効きでしょ」
「そう」
大小さまざまな箱を包装紙で上手に包む包み方を教えてくれた。
肌の色が浅黒く、眼も黒く、大きい。視線がキュンと飛んで来る。南国風の面《おも》ざしだな、と思った。
外国人の客が来ると、たいてい朋子が応待する。英語で話す。
中彦はそばで聞くともなしに聞いていた。
ウインドウ・ケースと棚とに挟まれた細いすきまに並んで立って、客の様子に眼を配りながら、
「何科なの? 大学」
と、朋子が尋ねた。
「英文科」
「厭《いや》あね。だったら、今度、あなた話して。外人さんの前主のとき」
�前主�というのは、このデパートの隠し言葉である。お客のことを言う。前に立っている主人という意味だろうか。ほかに�遠方�がトイレット�喜左衛門�が食事のこと、たしかそうだった。
「話すのは駄目。読むだけ」
「嘘《うそ》」
「嘘じゃない」
「私なんかここに勤めてから習ったんですもん、英会話」
「でも、うまい」
朋子の発音はきれいだった。
「聞かないで、あんまり。意識しちゃうから」
「うん」
「どんな作家を読むの?」
「スタイン・ベックとか、サリンジャーとか、モームとか」
「まじめなのね」
「ぜんぜん」
ポーノグラフィをせっせと読んでいたりして……。
「シェクスピアなんか、やっぱり読むのかしら」
「読む。本格的に読むのは三年になってからだけど」
「むつかしい?」
「さあ。慣れれば、そうむつかしいこと、ないんじゃない」
「いいわね」
こんな会話がきっかけで親しくなった。
一度、タイプライターで打った英文を見せられて、
「これ、どういう意味ですか」
と、アンダーラインを引いた五、六行を訳させられた。
案外、朋子は中彦の実力を試そうとしたのかもしれない。きっとそうだろう。中彦のほうは、会話は不得手だったが、解釈だけなら多少の自信がある。
「エッセイかなあ」
「そうみたい」
知らない単語が一つ……。
だが、おおよその見当はつく。仮定法の使い方が鍵《かぎ》になっている。そこのところを注意しながら訳した。
「すごいのね」
朋子は正解を知っていたにちがいない。テストは合格だったらしい。
「一応英文科だから」
「ほんと」
アルバイトが終る頃になって、食事を一緒にしようという話になった。言いだしたのは中彦のほうだったが、朋子がそう仕向けたような、そんな気配がなくもなかった。
デパートには女性が大勢働いている。きれいな人もいる。
当初、朋子についての中彦の評価は、
——中の上か、上の下——
と、これはほとんど容姿だけを対象にしての判断である。たしか日記に書いたはず。よく覚えている。捜せば今でも押入れのすみに記録が残っているだろう。
だが、朋子はどこか周囲の女性とちがっている。少しずつそのことに気づいた。
——センスがいいのかな——
すぐ隣の売り場に�上の上�がいたけれど、頭がわるそうだった。もう一人�上の上�と認定した店員は、はすっぱな感じで、若い中彦がつきあえそうな相手ではなかった。
いつもは制服を着ているのでわかりにくかったけれど、朋子は着る物も垢《あか》ぬけているし、小柄《こがら》ながらスタイルもわるくない。
——ウェストのくびれなんか、かなりいいんじゃないのかな——
わるい人じゃなさそうだし、知的なところも感じられるし、いつのまにか�上の中�くらいに評価が変っていただろう。
「なにを食べる?」
「なんでもいいわ」
新宿《しんじゆく》のイタリア料理の店。ビールを一本飲み、あとは小さな皿にいろんな料理が載って現われるコースだった。
「これなんだろう?」
「蛸《たこ》をボイルしたんじゃないかしら」
「蛸なんか食べるのかな、イタリアじゃ」
「食べるんじゃない。烏賊《いか》を食べるくらいだから。スパゲティにもよく入っているし……烏賊墨のスパゲティもあるでしょ」
「うん」
料理の知識はとぼしかった。
「蛸って、足はおいしいけど、頭はずっと味が落ちるわね」
「そうかな」
「きらい、蛸?」
「いや、好きだよ」
「私、わりと好きよ」
「足がうまいのは、よく足を動かしているからだろ。だいたいよく使っているところがおいしいんだ」
「あ、ほんと」
「蛸は足をよく使っているだろうけど、頭はあんまり使ってないんだ。だから頭はまずい」
「言えそう」
朋子は、ナイフで切ったポテトを口に運びながら頷《うなず》き、それから首を傾《かし》げて、
「でも、頭のおいしい蛸もいるはずよ。人間に掴《つか》まったりする蛸は、頭がわるいからなの。だから、まずいの。海の中には、ものすごく頭のおいしい蛸がいるかもしれないわよ」
「ジレンマだなあ」
「どうして」
「頭のいい蛸は掴まらないから食べられないし、食べられる蛸は頭がわるくて、まずいわけだし。人間は永遠に頭のうまい蛸にめぐりあえない」
「そういうこと」
ゆっくり考えてみれば、蛸の頭と呼んでいる部分は本当は胴体なんだろうけど……。この会話はわけもなく楽しかった。なんだか朋子がひどく身近に感じられた。
「おいしかった」
「本当ね。私のほうが月給をいただいてますから」
と、朋子が財布《さいふ》を出して中彦に渡す。
「わるいなあ」
赤いバックスキンの財布だった。
「送っていく」
「ええ」
朋子の家は高円寺《こうえんじ》にあった。北口の商店街を抜け住宅街に入ったところで、
「これでおしまい?」
と、中彦は今後のことを尋ねたつもりだったが、
「もう少し……コーヒーでも飲みます?」
朋子は腕首の時計を街灯の光に当てながら道を引き返した。
�ひいらぎ�という名のコーヒー・ショップ。木目《もくめ》を生かした内装。ここは、その後もよく使った。
カテリーナ・ヴァレンテの�情熱の薔薇《ばら》�が鳴っていた。
「これ�エリーゼのために�のメロディなんだな」
「ええ……。なんだかべつな曲みたいに聞こえるけど」
店にはそう長くいなかったろう。コーヒー代もサッと朋子が払う。最前の街灯の下まで来て、
「すっかりご馳走《ちそう》になっちゃったなあ」
と中彦が言えば、
「いいのよ」
と朋子が首を振《ふ》る。
「今度は僕がおごる」
この台詞《せりふ》は……�おごる�の部分に力点が置かれているのではなく�今度�があるかどうか、そのほうが大切だ。
「ええ。楽しみにしてるわ」
「店に電話をかけていい?」
「いいけど。家のほうがいいかしら」
と、自宅の電話番号を言う。
「わかった」
中彦が手を伸ばし、握手を求めた。
「おやすみなさい」
「さようなら」
朋子のうしろ姿が路地の角でふり返り、一度手を振って消えた。
——あれはどういう謎々《なぞなぞ》だったかなあ——
道を戻りながら中彦は自分の掌《て》を見た。前に聞いた謎々のこと……。
そう、たしか「男は立って、女はすわったまま、犬は片足をあげてするもの、ナーニ」だった。たいていの人は、よからぬ姿を想像する。しかし、答は握手。
察するに、握手とは、男は立ちあがってやらなければいけないものなのだろう。女はすわったままでもよいのだろう。犬の場合は�お手�といっても、あれは足でもある。握手と認められるかどうか。
——馬鹿らしい——
笑いが浮かぶ。心が浮き立っているからだろう。知らない街がひどく近しいものに感じられた。
男と女の仲は、少しずつ手続きを踏んで深まっていく。女は受け身でいることが許される。と言うより、男が仕かけなければ、なにも始まらない。
中彦は、よく言えばシャイ。実は面倒くさがり屋で、慣れないことは第一歩を踏み出すところで、
——どうするかなあ。明日でいいか——
と、ためらってしまう。ぐずぐずと意味もなく日時を費してしまう。
朋子に対しても一か月あまり迷って、ようやくダイアルを廻した。
「もし、もし」
「もし、もし、岡島です」
「あら、めずらしい」
「元気ですか」
「ええ」
「忙しい?」
「えーと、普通ね」
と朋子は答え、電話のむこうで黙って待っている。中彦のほうがなにかを語りかけなければいけない。
当たりまえだ。電話をかけたほうが用件を告げるのが普通である。
「ご飯、食べませんか」
あんまり気のきいた台詞《せりふ》ではない。
——一か月あまり、俺《おれ》はなにを考えていたのか——
われながらもどかしい。
「はい」
「来週くらい」
「来週のいつでしょう」
「火曜か、水曜か、金曜でもいい」
月曜でも木曜でも土曜でも、もちろん日曜でも中彦のほうは都合がつかないこともなかった。
朋子が選んだのは何曜日だったか。
先日と同じレストランで食事を取り、送って行って�ひいらぎ�に立ち寄った。なにもかも、一回目のコピイ。
——朋子はどう思ったろう——
三度目には少し考えて映画に誘った。
ライザ・ミネリの�キャバレー�
「字幕を見なくてもわかるんでしょ」
「そんなことないよ」
映画はわるくなかったけれど、たまに会って映画を見るだけではもったいない。
——映画なんか一人で見ることができるんだし——
とはいえデートのときには、なにをすればいいのか。
「旅行に行きません?」
と朋子に言われたときには驚いた。
「どこへ」
「店の人たちと上高地《かみこうち》へ行くの。一緒にどうかしら。岡島さんの知ってる人もたくさんいるわ」
と、朋子は夏のアルバイトのとき、近くの売り場にいた店員の名前を二つ三つあげた。
「俺《おれ》なんかが行っていいのかな」
「平気。喜ぶと思うわ。デパートって閉鎖的でしょ。少しはほかの世界の人と接したほうがいいのよ」
「そうかなあ」
「日曜日が休めないってことだけでも、ほかの人とスケジュールがあいにくいでしょ」
「うん」
ものぐさな中彦だが、旅はきらいではない。誘われるままに上高地《かみこうち》へ行った。
二泊三日の旅。男が三人、女が五人。部外者は中彦だけである。ほとんどみんな同い年……。うちとけてはくれたけれど、やはり違和感はあった。いくら年齢が近くても社会人と学生では、生きている世界がちがう。
「将来は学者になるんですか」
ボストンバッグの中に原書が入っていたから、そんなふうに見えたのかもしれない。
「ぜんぜん」
「英文学なんて、お金持ちのお坊っちゃまがやるもんでしょう」
と、これはいつもひとこと気がかりな台詞《せりふ》を吐く男だった。
言われてみれば、そうかもしれない。みんなが汗水流して働いているのに、シェクスピアだかサリンジャーだか知らないけれど、実生活とはなんの関係もない横文字を読んで、ああでもない、こうでもない……と、ほざいている。
「そんなこと、ない」
中彦自身はもちろんのこと、教室の面々を思い浮かべてみても、お坊っちゃまと呼べるようなやつはいない。
せっかくの上高地だが、雨にたたられ、はかばかしい行動がとれない。二日目の午後、雨の小止みを狙《ねら》って明神池《みようじんいけ》まで歩いた。
朋子は人気者だった。
と言うより同行の男性は二人とも、朋子が好きだったのではあるまいか。男たちにしてみれば、中彦に対して、
——変なのを連れて来たな——
と、そんな思いを当然抱いていただろう。
朋子は、なぜ中彦を誘ったのか。深い意味はなかっただろうけれど、一種の牽制球……。つまり、
——私、いろんなお友だちがいるの——
と、職場の男たちにデモンストレーションを示していたのではあるまいか。
朋子のほうはほとんどなんの屈託もなくふるまっていたが、中彦は、
——やっぱりちがうな——
朋子との距離感を覚えずにはいられない。梓《あずさ》川にそって歩きながら、
——俺はこちら側じゃなく、むこう側に属している——
と思わないわけにいかない。
早い話、中彦以外はみんな結婚を意識していた。女たちは適齢期に入っていたし、男たちもそう遠くはない。学生とは決定的にちがう。無駄には男と女が仲よくなったりはしない。中彦は、結婚なんて、
——俺、するのかなあ——
自分に関する現実として本気で考えたことなど、一度もなかった。あとになって考えてみれば、あの頃、朋子は自分の一生について、
——どう生きようか——
いくつかの道を描いて思い悩んでいたらしい。穂高、焼岳、大正池、見ている風景は同じでも二人の意識はずいぶんかけ離れていただろう。
上高地から帰って、あい変らず二か月に一度ほど顔をあわせるような仲が続いた。くつろげるようにはなったけれど、なんの進展もない。
中彦のほうは、多少のもどかしさを覚えながらも、とにかく朋子と会って話していれば、それでいい。将来のことなどほとんどなにも考えていなかったし、考えようにも生活の基盤さえできていない。卒業までまだ二年もあったし、卒業してどうするか、それもはっきりとしたイメージを描いていなかった。
「翻訳でもやるかなあ」
「いいわね」
しかし、英文科を出たからといって、いきなり翻訳家になれるわけではない。
「三十くらいまでになんとか恰好《かつこう》がつけばいいんじゃないのか」
中彦は本当にそんな気分でいたのだから、朋子は……たとえ好意を抱いてみたところで当てにはできない。かなり早い時期から、
——この人は、そういう人——
と決めてかかっていただろう。朋子のほうから「ねえ、結婚を考えて」と強く言われれば、中彦も少しは真剣に考えたかもしれないが、朋子にはそんな気持が少しもなかっただろう……。
煮えきらない関係が二年ほど続いた。
そのうちに二人の心が、少しずつ、微妙に変った。
中彦はあい変らずものぐさで、自分の生き方を大きく変えようとは思わない。ただ好きな英語を読んでいるだけ……。
——就職ってのも面倒だなあ——
父が健在だったから、住むのと食べるのはなんとか保証されていた。父自身が三十近くまで仕事を持たなかったから、中彦に対してもあまり強くは干渉しなかった。
——怠け者の家系なのかなあ——
家庭教師のアルバイトでもやっていれば、現状維持はできる。朋子と一緒に暮らすことなんて、想像が飛躍しすぎている。
——このくらいの女性、この先いくらでも会えるだろう——
と、一方で朋子の魅力を認めながらも、中彦は気楽に考えていた。
一番最初に親しんだ異性がもっともよい相手だというケースは、けっして少なくはない。しかし、初めてであればこそ、その本当の価値がわからない。
——朋子はきっと職場のだれかと結婚するんだろうな——
そんな気配は充分に感じられたし、それが無理のない生き方だろう。朋子とは、今だけの親しさ。かたくなにそう思っていた。
——袋小路の散歩みたいなもの——
二人の関係をそう解釈した。
一緒に歩いて行っても、遠からず行き止まりになる。でも、しばらくは仲よく歩いて行ってみよう。
——男と女は、そんなのがいいな——
と、中彦は考えていただろう。呑気《のんき》と言えばすこぶる呑気だった。
「今度のお休み、水戸へ行かない?」
「へえー。なんで」
「公孫樹《いちよう》がものすごくきれいなんですって」
季節は秋。イエローは朋子の好きな色だった。
「梅じゃないのか、水戸は」
「梅はたいしたことないけど、公孫樹は本当にきれいなんですって。日帰りで行けるでしょ。いっぺん行ってみたいの」
「うん」
デパートの休日に出かけた。
鄙《ひな》びた町並みだった。町のところどころに公孫樹の老木があって、仁王の腕みたいに太い、節くれ立った枝を延ばしている。
ちょうどよい時期だったろう。眼の奥に染み込むほどの鮮明な色が空にも地にも溢《あふ》れていた。とりわけ美しかったのは、市の中央部にある城址《じようし》のあたり。石塀の下が深い壕《ほり》になっているのだが、水はなく、見渡すかぎり公孫樹の落葉で、凹地が埋め尽《つ》くされていた。
「これを見に来たの」
「すごいな」
「よかった」
偕楽園《かいらくえん》にも廻ってみたが、梅林は思いのほか小ぢんまりしている。これでは、盛りの頃に何万人もの人出となると、ずいぶんちっぽけな風景に映ってしまうだろう。公孫樹の黄の色に包まれて、人気のない町を歩くほうがきっとすばらしい。
水戸から帰って間もなく、
——もう袋小路の行き止まりもそう遠くはないな——
と感じている頃、朋子がいっぷう変った計画をうちあけた。
�ひいらぎ�の窓際の席。
「日本の都道府県の名前、全部言える?」
「都道府県? 言えるだろ。どうして」
朋子は大ぶりのノートを持っていて、それを開く。唇を尖《と》がらせながら、北海道から順に日本の地図の略図を描き始めた。
絵はうまい。
「これが青森でしょ。こっち岩手、宮城、こっちに秋田、山形。その下が福島ね」
正確な地図ではないけれど、図柄がデザインになっている。
「ちょっと胴体のあたりが太すぎるんじゃないか」
中部地方は県の数も盛りだくさんだから、どうしても本州が太めになってしまう。
「本当ね」
「一都二府一道四十……」
「三県」
「ちゃんとあるかな」
描きあげたところで、
「ぬり絵をするの」
とつぶやいた。
「ぬり絵?」
「そう。行ったことのあるところは、黒く塗るの」
鉛筆を持ちなおし、芯《しん》をななめに当てて北海道を薄黒くぬりつぶした。
「なるほど」
「通過しただけじゃ駄目よ。ちゃんと降りてなにか用をたしたところ。目的があって行ったところだけ消していいの」
そう言いながらどんどん黒くぬっていく。
「俺、山形へは行ったことないな」
「私、行ったわ。子どもの頃。父の転勤が多かったから。長野県は、上高地《かみこうち》へ一緒に行ったわね」
「ああ」
「水戸へ行ったのはネ、茨城って行ったことなかったの」
「作戦か」
「そうよ。公孫樹《いちよう》も見たかったけど」
「きれいだった」
「本当に」
あの日、水戸の町は日暮れが早かった。影の多い街並みだった。まばらな街灯が闇《やみ》をくりぬいて鮮かな黄の色を映し出していた。
「計画的にやってるのか?」
ぬり絵のところどころに白い部分を残して朋子は鉛筆を置く。
「子どもの頃、お父さんに言われたの。一生かかって全部ぬれるかな、って。お父さんも自分の頭の中でやってたんじゃない、同じぬり絵を」
「完成した?」
朋子の父親は病気がちらしい。
「駄目みたいよ。沖縄と、それからどこかしら。二つくらい残ってるみたい」
沖縄が返還されたばかりの頃だった。
「それで、あなたが替りに?」
「どうかしら。計画ってほどじゃないけど、ちょっとおもしろいでしょ。あなたは、どう?」
「結構白いとこがたくさんあるんじゃないか」
「全部行ったって人、めずらしいわよ」
「全部ぬりつぶすと……なんか、いいこと、起きるかなあ」
「起きる、起きる、きっと」
と、朋子は無邪気に笑う。
「秋田、福島……。えっ、千葉も行ってないの? 東京に住んでて千葉に行ったことないのって、いるかな」
「どう考えてみても行ってないのよ」
「総武線に乗って少し行けば、もう千葉県だろ」
「ええ」
「フェリーで木更津《きさらづ》に行くとか」
「行ってないんだもん。あなたは千葉のどこへ行った?」
「木更津にも行ったし、御宿《おんじゆく》の海水浴場とか、いろいろ行ってるよ」
「男の人とちがうのよ」
「関東地方にブランクがあったら、ちょっと恥だよね。栃木県は大丈夫?」
「日光って、そうでしょ」
「うん、うん。修学旅行で行くよな。群馬はどこへ行ったの?」
「通過はしたんだけど、行ったのはお店の旅行で渋川温泉」
「俺も茨城は、このあいだの水戸が初めてだったかもしれない」
「そうでしょ、案外行ってないところがたくさんあるのよ、いくら思い出してみても」
「四国はまるで行ってないのか。俺も高知だけかな。いや、香川もちょっと」
「西のほうはやっぱり。九州も白いとこ多いでしょ」
「うん」
朋子の地図には、ざっと二十近い県が空白のまま残っている。
「行きたいわね、旅行に」
「行こうよ」
「近いとこじゃないと……」
ほとんどが一泊しなければ行けないところばかりである。
「千葉なら行ける」
「そうねえ」
「いいじゃないか、一泊くらいしたって。休暇は取れるんだろ」
学生のほうはどうにでもやりくりがつく。
「そりゃ取れるけど」
男と女が泊りがけで旅に出るのは、そう簡単なことではない。
——俺は……野心なしでもいいけどな——
寝具を遠く離して、あいだに衝立《ついた》てを立てて……。ホテルに泊って、べつべつに部屋を取ることは、なぜか頭に浮かばなかった。そういう旅のやりかたに慣れていなかったからだろう。
頬杖《ほおづえ》をついていた朋子が、
「千葉に行く?」
と言う。
「行こう。千葉のどこ?」
「一番先っぽ。海が見たいの」
「計画を立ててみる。日帰りで?」
「ええ……」
中彦にしては、めずらしくすぐにスケジュールを作った。
朝早い外房《そとぼう》線で鴨川《かもがわ》まで行く。新しくレジャー・センターのような施設ができたらしい。
遊覧船も出ている。そして遅い列車で帰って来よう。
「出発は十時くらいで、どう?」
「少しきついけど……いいわ」
房総の荒い海くらいは充分に見られるだろう。それに……この旅は行き帰りの車中が楽しい。
あとで考えてみれば、少々配慮の足りない計画だった。子どもの遠足じゃあるまいし、もう少し気のきいた旅があっただろう。
朋子は東京駅の乗り場に、黒いスラックス、赤いスニーカー、ハーフ・コートのようなジャンパーを羽織って現われた。
快晴。しかし、風は少し冷たい。
鴨川まで急行で二時間半。どこかの駅のプラットホームに古い柱時計が立ててあって、文字盤にローマ数字が記してある。
「すごいアンチック」
「うん。アイ一、ヴイ五、エックス十、エル五十、シー百デ五百、エムが千なり、って言うんだろ」
「なーに?」
「知らない? ローマ数字。Iが一を表わし、Vが五、Xが十、Lが五十、Cが百で、Dが五百で、Mが千」
「ホント」
「だから一九七三年は、こうか」
と、中彦がキップの裏に、MCMLXXIII と記した。
「恰好《かつこ》いい」
「そうかな」
「なんでも知ってるのね」
「そんなことない。ブッキッシュなのかな」
「ブッキッシュ?」
「ブックの形容詞形。本好きとか……」
「すごいわ」
「いい意味ばかりじゃない。机上の空論なんかばっかり言ってる奴とか。この頃はスポーティングのほうがいいんじゃない」
「スポーティングって言うの? 岡島さんと話していると、いい勉強になるわ」
「なんか厭だなあ、そういう言いかた」
「あら、どうして。本当にそう思ってるんだから。もう一度教えて。さっきの合言葉」
「なに?」
「数字の覚えかた」
「ああ、あれか。アイ一、ヴイ五、エックス十、エル五十、シー百デ五百、エムが千なり」
「アイ一、ヴイ五、エックス十……」
朋子が首を上下に動かしながらくり返した。
「四と九は、左側に一つ下の数を書いて引き算になる」
「どういうこと」
「Vの左にIを書いて四。Xの左にIを書いて九。Lの左にXを書いて四十……」
中彦がローマ数字のシステムを書いて教えた。
「へーえ」
「初めは、指とか、木の枝とか、そういうので数を表わしてたんだろ、きっと」
「ええ」
「未開民族の中には、一と二と、その次が�いっぱい�になっちゃうのがあるらしい」
「三より上がないわけね」
「そう。それでべつに生活に不自由しないんだろ」
「おもしろいわ」
「前に俺《おれ》んちで雌犬を飼っててサ。子どもを生んだんだ」
「仔犬《こいぬ》?」
「そりゃそうだ。仔猫を生むわけないだろ」
「厭あね」
「三匹生んで、全部取りあげちゃうと、わかるんだ。でも、一匹、二匹隠してもわからない」
「本当に?」
「うん。少し�変だな�みたいな顔をしていたけど、必死になって捜したりはしない。ゼロと�いる�のとの区別はつくんだ。しかし、数はよくわからない」
「そういうことになるわね」
「いつ頃なのかな。人類がキチンと数を考えるようになったのは……」
「大昔ね」
「ローマ数字は、多分、初め、木の枝でも並べたんじゃないのか」
あの頃、中彦はタバコを喫《す》っていた。マッチ棒を抜いて、揺れる車両の窓辺に並べた。
「一が一本、二が二本、五が五本、十が十本……。しかし、これだと、やたらたくさん並べなくちゃいけない」
「そうね」
「それで五とか十とかを一まとめにするようになったんじゃないの。かける印にして十。それを半分に切って五」
「あら。VってXの半分ですものね」
「そう考えたかどうかはわからんよ。木の枝で簡単な記号を作るとなれば、VとかXとかLとか、だれが考えてもそのへんに落ち着くよ」
「じゃあ、それより上のCとかDとかMとかは?」
朋子は知的な好奇心が強い。
「わからん。ただ、フランス語じゃ千がミルだし、ドミが半分だし、百がサン。頭文字がそれぞれM、D、Cになる。関係あると思うな」
「フランス語もできるの?」
「ほんの第二外語だよ。できるなんてもんじゃない」
「うらやましいわ」
「そんなこと、ない。指を出してごらん」
「はい」
と、朋子が両手を膝《ひざ》の上に並べた。節高の細い指。
「一、二、三、四、五……十本ある」
「よかった。足りなくなくて」
「指輪しないの」
「あんまり好きじゃない。ろくなの持ってないし。指、細いの。十番くらい」
「数の小さいほうが細いのか?」
「そう」
「手の指が十本あるから十進法が始まったって言うけど」
「ええ?」
「そうかなあ。少し変だと思わない?」
「どうして」
「十本なら十一進法になるわけじゃないかな。算盤《そろばん》だって、一つ、二つ、三つ……五は上の玉で表わし、九まであって、それで桁《けた》が一つあがる。指だって九本のほうが、十進法に都合がいい」
中彦が子どもの頃にふと気がついて、ずっと抱き続けている疑問だった。
「でも十一進法なんて不便じゃない」
朋子がどこまで中彦の疑問の意味を理解したか、わからない。
鴨川に着き、新築のホテルに併設されている水族館や遊園地を見て歩いた。
「船に乗ろう」
「乗って、どこへ行くの」
「鯛《たい》を見る」
ガイドブックによれば、日蓮《にちれん》上人が殺生を禁止したために、このあたりで鯛の群棲《ぐんせい》が見られるようになったらしい。船頭が船べりを叩《たた》き餌を撒《ま》く。たちまち水の底から何匹もの鯛が浮かびあがって来る。とてつもなく大きな鯛。海が灰色にうごめく。
「すごいな。あいつ、一メートルくらいあるぞ」
「食べられるのかしら」
「漁《と》っちゃいけないんだろ」
朋子は少し船に酔ったようだ。
海岸に戻り、少しずつ暮れて行く海を眺めた。
「昔、初めて海を見た人、感動したでしょうね」
「このむこうになにがあるか、やっぱり確かめてみたくなるだろうな」
水平線に指をさしながら答えた。
やがて夜がとてつもなく大きな帳《とばり》を広げる。沖には船の灯一つ見えない。すぐに風が冷たくなった。
ホテルの食堂で海の幸の天ぷらを食べた。
「もう一本飲む?」
「そうね」
いつもより少し多く飲んだ。朋子の頬《ほお》が赤く染まっている。
「最終は何時?」
「もう急行には乗れない」
千葉まで行って、その先電車があるかどうか。
「星がきれいみたい」
「うん」
「もう一度、さっきのところへ行かない、星を見に」
「いいけど」
「最終で帰れば、いいでしょ。困る?」
「いや、俺は困らない。ただ、千葉から先が……」
「行きましょ」
朋子が先に立って海岸に出た。
みごとな星空だった。おびただしい数の星が空に散っている。
「こんなの、見たことない」
「いつも隠れているのね」
空が近くなったみたい……。
「数えたら」
「無理だね」
寒い。時間も気になる。しかし、朋子のほうは落ち着いている。
「どうする?」
「どうします?」
「泊ろうか」
朋子は黙って星空を見あげている。
「こんな夜は、もう二度と来ないな」
「そうかしら。まだ若いのに」
星の輝く夜はこの先もあるかもしれない。だが朋子とこんなふうに過ごす夜はもう来ないだろう。わけもなくそう確信した。
「寒いから戻ろう。ティルームからも海は見える」
「ええ」
結局二人は終電車には乗らなかった。さいわいホテルには空室があった。
「いいのか、明日の勤め?」
「始発で行こうかしら」
朋子は家族にどう言い訳をするのだろう。
部屋に入り中彦がシャワーを使っているとき、朋子が電話をかけていた。
海はあい変らず暗い。
「変ね」
と朋子が両掌で頬を包んでいる。
「いいんじゃない、こういうのも」
「慣れてる?」
「慣れてるわけないだろ」
むしろ朋子のほうが慣れてるのではあるまいか。
「これで千葉県が埋まったわけだ」
「そうね」
「動物園キャラメルってのが、あっただろ」
「知らない」
「うちの近所の駄菓子屋だけだったのかなあ。そんなわけないよな」
「おいしいの?」
「味はともかく、箱の中に動物の絵が一枚入っている。虎とか猿とか河馬《かば》とか。五種類集めると、一箱もらえるんだ」
「おまけ?」
「そう。猿や河馬がよくあるんだけど、ライオンが滅多にいない。そういうふうに作ってあるんだよな、あれは」
「でしょうね」
「県は、どこが最後になるかな」
「あなたはどうでした?」
「うん? 調べてみるか」
メモ用紙を持って来て都道府県の名を書いた。
「男の人はいろいろ行ってるでしょ」
「そうでもない。北海道まる。青森まる……」
「あら、新潟は行ってないの」
「うん」
「私は行ったわ」
「三重と滋賀。たしか君も行ってなかった」
言葉がぎこちない。初めて朋子のことを�君�と呼んだ。
「ええ。四国は全部行ってないわ」
「俺は高知へ行った。香川も一応行ってるな」
「九州は……たしか子どもの頃あっちにいらしたんでしょ」
「ずっと小さいときだよ」
「動物園キャラメルの頃?」
「そりゃもっとあとだ。ほとんど覚えてないけど、大分と熊本は行ってるはずだ。記憶がなくても確実に行っていれば、ぬり絵をぬっていいんだろ」
「ええ」
二人とも行ってない土地が十一ほど残った。
秋田、福島、滋賀、三重、和歌山、鳥取、島根、徳島、愛媛、佐賀、長崎。
「まだまだ埋め甲斐《がい》がある」
「本当に」
窓の右手に漁村の灯が見え、それが一つずつ消えて行く。
「お風呂《ふろ》へ入って来るわ」
「うん」
布団《ふとん》の位置はこのままでいいのだろうか。
部屋のあかりを絞り、中彦は入口に近い布団に寝転がってバスルームの水音を聞いた。
「いいお風呂。よく眠れそう」
バスルームを出た朋子はまっすぐに布団の位置に進む。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
十二時を少し過ぎていただろう。
——これでいいのだろうか——
朋子を抱きたい、と、その欲望はほとんどなかった。
いや、そうではない。強い願望はあったが、体の欲望ではなかった。体の欲望だけなら我慢ができる。我慢ができるのは、もともとその欲望がさほどのものではないからだろう。
——朋子を逃がしたくない——
二人の絆《きずな》をしっかりと結びつけたい。そのためには今抱きあうことがきっと役立つだろう。その願いが強かった。
だが、それとても朋子がなにを望んでいるか、そこにかかっている。
朋子は初めから、
——今夜は泊ってもいい——
と、そう考えて家を出て来たのではあるまいか。帰りの時刻をほとんど気にかけていなかった。明日の休暇もあらかじめ取ってあったりして……。抱かれることも予測しているのかもしれない。もしかしたらそれを望んでいる……。第一、こんな情況になって、それでなにもないとしたら、
——この人、意気地がなさすぎる——
朋子がそう思うのではあるまいか。抱きあって当然だろう。
——そうでもないか——
これまでの交際の中で、中彦は、はっきりと口に出したことこそなかったが、いつも心の中で考えていることが一つあった。
あえて言葉で表現すれば、
——男と女が一つ部屋に泊ったからって、それが即�体の関係�ということでもないさ。おたがいの意志を信じてもっと自由につきあったらいいんじゃないのか——
そんな気持ち。恰好《かつこ》よすぎるかもしれないけれど、半分までは本当の気持ちである。暗にそんな考えを朋子に、ほのめかしたこともあっただろう。
——朋子と一緒に旅に出るだけでいい——
行く先が遠方ならば宿泊をしなければなるまい。体を交えるような間柄ではないから宿泊もできず、だから遠方の旅にも出られない、というのは、不自由すぎる。一緒に旅をするだけの親しさがあってもいいはずだ。
中彦はこれまでずっとそんな考えを抱いて来たのだから、朋子にもその気分がきっと伝わっているだろう。
だとすると……ここで急に態度を変えていいものかどうか。朋子には裏切りに映るのではあるまいか。
——眠ったのかな——
きっと起きている。寝息は聞こえない。たしかに起きている。まっすぐ上を向いて。
中彦が左手を伸ばせば、きっと朋子の右手に触れることができるだろう。手を握ることくらい許されていい……。
ためらいの時間が闇《やみ》に流れた。
ためらったすえ、
——まあ、いいか。やめよう——
と、そうなってしまうのが中彦の癖である。いったんはその方向へ傾いたが、
——こんなこと、もう二度とないな——
降るような星空は、この前ぶれだったのかもしれない。
そっと腕を伸ばし、隣の布団の下を探った。
朋子の腕は思いのほか近くにあった。それが中彦を勇気づけた。二の腕から肘《ひじ》を経て掌を握った。反応はなかったが、眠っているわけではあるまい。
いくばくかの時間が流れた。
少しずつ体を寄せ、中彦はそっと畳の上に肩を滑らせた。掌の握りを解き、今度はゆっくりと肘から二の腕へと戻る。
小さな肩があった。
骨の小さい、柔かい肩だった。初めて朋子の体が少し動いた。朋子は素肌に浴衣《ゆかた》をまとっている……。
さらに腕を伸ばすと、すぐに胸のふくらみに届く。
朋子は浅黒い。細く、引きしまった体である。乳房もけっして大きくはないが、堅く脹りつめているだろう。
「起きてる?」
声をかけた。
首の動きだけが答えた。
またいくばくかの時間が流れ、乳首のありかを捜そうとすると、朋子が体を捻《ねじ》る。それを追って中彦は朋子の布団になかば体を入れた。
朋子は少し抗《あらが》う。
「あなたが好きだ」
言ってはみたが、この場にふさわしい言葉のようにも思えない。
肩を抱いた。
乳房が掌の中に包まれる。指と指のあいだに乳首があった。
朋子の体が熱い。
初めて口をきいた。
「長くはおつきあいできないわ」
声がかすれている。
——死ぬのだろうか——
中彦はわけもなくそんな突拍子もないことを考えた。重い病気を隠していたりして……。
もとよりそんなはずはない。
ただ……なんと説明したらいいのだろう、人はみんな死ぬものだ、長いの短いのと言ったって、百年もたてばみんないない。いっさいの記憶が消滅し、だれそれが生きていたという事実もあらかた消えてしまう。なかったに等しい。喜びも悲しみも罪悪も、なにもない。ほんの百年前、だれかが感じたであろう痛切な情熱も葛藤《かつとう》も、今はなんの痕跡も残さない。
——だったら、今、ここで抱きあうことも許されるだろう——
心が高ぶり、理性はどの道正しくは作動していなかったろう。論理に飛躍があっても不思議はない。死ぬことと愛しあうこととは、とても深い関係があるのかもしれない。鮭《さけ》の授精が死のすぐ隣にあるように……。
「結婚するのか?」
現実的な思案を口に出した。
ここ数か月、朋子の対応にはそんな気配が感じられた。
「もしかしたら」
「うん?」
「いけない?」
「そんなことは、ない」
とっさに答えたが「いけない」と言うべきだったろうか。
——それはあなたが決めることだ——
だれにも「いけない」と言う権利はないし、とりわけ中彦には、なんの準備もなかった。
心のうちを計るような沈黙が続いた。
朋子が指をからめる。
長くはつきあえないけれど「今夜はいいわ」と、そう伝えている……。そんなふうに感じられた。
中彦の愛撫《あいぶ》がさらに深い部分へと伸びて行く。朋子は抗いながらも少しずつ迎え入れる。
帯を抜き、肌をあわせた。
慣れてはいない。おたがいに……。
ぎこちない交りだった。
「初めてじゃない?」
質問のような、感想のような、もしかしたら配慮の足りない言葉を中彦は口走った。
「あなたも?」
と、朋子は笑うようにつぶやき、それから、
「初めてだと思ってた?」
と尋ね返す。
そうは思ってはいなかった。だが、答えない。答えないのは、どちらの意味にとられるだろう。
「星空がきれいだったわ」
朋子は体を上向きに直してつぶやく。この闇《やみ》の上には今もみごとな星空が広がっているだろう。
——あのときから始まったんだ——
今夜、こんなふうになることが……。
「本当に」
いつまでも体を寄せあっていた。
「もう眠りましょ」
「うん」
なかなか眠れない。
中彦が起きて窓の外を見ると、海も空も暗かったが、沖を目指す漁船の灯が二つ三つ動いていた。朋子の寝息が聞こえる。中彦が眠ったのは、もう朝も近い頃だったろう。
「おはようございます」
中彦が眼をさますと、朋子はもう化粧も終えていた。
「お風呂、入った?」
「ええ。海が見えて」
「俺も入って来るかな。朝風呂」
「いいわよ、とっても」
朝の光を受けて、海は明るく輝いている。水平線が視界をまっ二つに区切っていた。
「どうしよう」
「夕方までには帰りたいわ」
「うん」
バスの時間を確かめ、海岸を南へ下って、野島崎の燈台を訪ねた。房総半島の最先端を守る光である。海は岩礁に寄せ、白く這《は》い、不思議な生き物と化して荒れ狂っている。
「白い動物みたい」
「ススーッと走って来てな」
そこからまたバスに乗って館山《たてやま》へ。内房《うちぼう》線で木更津《きさらづ》に出て、フェリーに乗った。フェリーは川崎へ着く。港から川崎駅までが、やけに長い。二人とも居眠りをした。
もう旅の終りも近い。
「楽しかったわ」
「うん」
「あなたも?」
「もちろん。いろんなところへ行きたいね。ぬり絵を一つずつぬりつぶして」
「そうよねえー。もう行こうと思えば、どこにでも行けますものねえー」
と言ってから、
「そうもいかないか」
と、首をすくめる。
——一度抱きあってしまえば、どんな遠くの旅にでも行ける——
男女の仲とはそういうものらしい。朋子も同じことを考えていたのだろう。
「そうもいかない?」
「うん」
こっくりと頷《うなず》いた。
「福島なんか、わりと行きやすいんじゃないかな」
「見るとこ、あるかしら」
「わからん。あるんじゃない?」
「そうね」
「鳥取もいいけど、遠いな」
「寝台の特急かなんかで行くんでしょ」
「うん」
「砂丘があるんでしょ」
「そうらしい」
中彦としては、
——もう一度くらいどこかへ行くこともあるだろう——
と思い、そう思いながらも、
——本当にこれでおしまいかもしれない——
とも考えた。
中彦のほうがもっとはっきりとした決断を示すべきだったろう。そうでなければなにも始まらない。たとえば「結婚なんかやめちまえ」とか……。
——まあ、いいか——
ぐずぐずしているのは、いつもの癖である。
東京へ帰り、それでも間をおいて何度か旅の候補地をあげて朋子を誘ったが、
「いいわねえ」
と、朋子は口では言うけれど、本気で行こうと思っているわけではない。
会うことも次第に間遠くなり、中彦も四年生になって就職や論文の準備で忙しい。
朋子がデパートを退職した。
「いよいよ?」
「まあ、そんなとこ」
「どういう人だ?」
「普通の人よ。眼があって、鼻があって」
「口があって、耳があって」
「そう。就職、どうなりました?」
中彦のほうは、よい就職がない。もう少し学生生活を続けていたい。
「うーん。うまくない」
「どうするの」
「どうするって……どうしようもないから困っている」
「呑気《のんき》なのね」
「呑気じゃないけど、ないのは仕方ない」
「まるでないってこと、ないんでしょ」
「それに近いなあ」
英文科なんて就職先は限られている。
「英語を生かせば」
「俺くらいの奴、いくらでもいるよ。ま、大学院にでも行くか」
「すごい」
「すごかあない。どこにも行けずに行くんだから」
本当にその通りだった。
大学の卒業も間近い頃、いつもの通り�ひいらぎ�でコーヒーを飲み、店の前で別れ、
「さよなら」
「さようなら」
それが最後だった。
——俺はどうなるのかな——
とりあえず大学院へ行くことにはなったが、見通しがあるわけではない。朋子の面倒なんてみられるわけがない。だが心配ご無用。朋子は身のふりかたを決めている。
「いいんじゃない、これで」
中彦はそれからしばらくのあいだ、自分自身に対して同じ台詞《せりふ》をつぶやいた。まるで口癖のように。朋子を思い出すときは、いつもそうだった