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ぬり絵の旅06

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:1983・春 長崎・雲仙 原宿界隈《はらじゆくかいわい》は新しい繁華街として急速に開け始めていた。 もともとビルや店がなかっ
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 1983・春 長崎・雲仙
 
 
 原宿界隈《はらじゆくかいわい》は新しい繁華街として急速に開け始めていた。
 もともとビルや店がなかったわけではない。東京の中心部に位置する街として、そこそこににぎわってはいたのだが、なにぶんにも明治神宮の参道として発達したところだから銀座や新宿《しんじゆく》とは異っている。少なくとも盛り場ではなかった。それが、ここ数年、大手のファッション・メーカーがつぎつぎにこの付近に本社を持つようになり、竹下通り周辺がなぜか若者たちの人気を集めるようになった。街の様子が少し変った。
 若者はいつだって新しいものを追いかける。昨日はやっていたものが、今日はもう古い。必然的に新しいシンボルを作りださなければいけない。
 ——前にも似たようなことがあったな——
 そう、グループ・サウンズが流行したのは、中彦が中学生の頃だった。
「スパイダースなんか、古い、古い」
「タイガースだもんねえー」
「馬鹿あ。テンプターズだろうが」
 つぎつぎに新しいグループが誕生し、人の知らない名前を言うのが、自慢のたねだった。
「新宿なんか汚えよ」
「六本木《ろつぽんぎ》がいっちゃんいいね」
「お前、古いなあ。原宿、原宿よ、今は」
 街のほうはグループ・サウンズほど手軽に新しいものを作るわけにはいかないが、新しいものを捜して愛《め》でて得意がる心理は共通している。
 竹下通りはともかく、原宿駅から青山通りへと向かう道筋はグレードの高い繁華街として注目を集め始めていた。青山通り付近も、どんどん開発が進む。
 中彦にはなじみの薄い街だったが、朋子の店があるので関心を持つようになった。
「いいタイミングで店を開いたみたい」
 アクセサリーと身のまわりの小物類を扱う店。アクセサリーは宝石と呼べるほど高価なものではない。小物類はちょっと垢《あか》ぬけている。
「いつも混んでるもんなあ」
「ハイとミドルの、まん中くらいを狙《ねら》ったのがよかったんじゃない」
 ちょっと高い。ちょっといい。しかし、手が届かないほど高いわけではない。日用品よりはリッチな感じがする。
「そうらしい」
 朋子はいつもいそがしい。心が仕事に向いている。
「もう少し楽ができると思ったんだけど」
「月に二回くらいは会いたいな」
「会ってるんじゃない、それくらいは」
「先月は一回だった」
「あら、そうだった?」
 東京で会うのさえ、ままならない。
「ぬり絵がはかどらないなあ」
「大丈夫。一生のうちにはなんとかなるんじゃない」
「とにかく最低月に一回は会おう。そうでもないと、俺たち、なにをやってるのかわからん」
「ええ……」
 恋愛なんて、結婚を目ざしているのならばともかく、その目標がないとなると、なにをやっているのかわからないところがある。まして月に一度も会わないと……すこぶる心もとない。
「ぬり絵のほうは、ゆっくりやるとして」
「ごめんなさい」
 会う機会はそれほど繁くはなかったが、会うときはいつも睦《むつま》じかった。
「ニュースよ」
「へえー、なんだ」
「大ニュース……ってほどじゃないわね。仕事で盛岡へ行ったの。新しい感覚で木彫を作る人がいて」
「言ってくれれば一緒に行けたかもしれないのに」
 岩手県は朋子がまだ行っていない県だった。
「急に決まったの。日帰りだったし。木曜日、駄目だったでしょ」
「先週? 木曜なら無理だな」
「でしょう。そう思った。でも、一つ消えたわ。あなたのところのぬり絵をぬっておいてくださいな」
「わかった」
 コーヒー店で待ち合わせ、一緒に食事をする。いつも似たようなコース……。限られた時間の中では、大きな変化は望めない。
「青山はおいしいコーヒーが似あう街なんですって」
 と、朋子がいたずらっぽい顔で言う。
「へえー」
 なにか仕かけがありそうだ。
「だって、青山はブルー・マウンテンでしょ」
「なるほど。生徒に話してやる」
「喜ぶ?」
「うん。そういうこと、なぜか喜ぶんだよな、連中は。授業の中にちょっとでも笑いがあったほうがいい。アイ・スクリーム・フォア・アイスクリームなんてね」
「なーに、それ」
「スクリームっていう動詞、フォアとくっついて�なになにがほしいとせがむ�って意味になる。で、アイ・スクリーム・フォア・アイスクリーム。駄じゃれだね。しかし、これ一つで、英作文のたしになる」
「パチパチパチ」
 朋子は掌をあわせて音のない拍手をした。
「なにを食べる」
「東京には、ほとんどの国の名をつけた料理店があるんですって」
「そうかな」
「フランス料理、イタリア料理、ロシア料理、インド料理、中国料理、韓国料理、タイ料理……」
「本当だ。スイス料理とかスペイン料理とか、そんな看板も見たなあ」
「ほかにポリネシア料理とか北欧料理とか」
「ある、ある。台湾料理なんてのもある」
「アメリカ料理って、あんまり聞かないわね」
「うまくなさそう。わらじみたいなステーキが出て来て。イギリス料理もないな」
「ないことはないんでしょうけど……あんまり言わないわね」
「一つ一つまわってみるか」
「それもぬり絵をするの。厭。もうたくさん」
「まあな」
 アルコールの強さは、二人ともほとんど同じくらい。深刻なテーマは滅多に話題にのぼらない。おたがいに避けているふしがあった。
 それでもたまには話す。
「私たち、似ているみたい」
「そうかな、どんな点が?」
「あんまりまじめじゃないとこ」
「うーん」
「人生に対して一生懸命生きていないでしょう」
「俺はそうだけど、君はちがうだろ。今の仕事、結構一生懸命やってるじゃないか」
「見かけはね。でも……なんて言うのかしら。人生の目的があって、それに向かって一生懸命生きるって、そういうところないわ」
「そんな人、いるかな」
「いるわ」
「そりゃ主義主張を掲げて生きてる人もいるけど、たいていの人は漫然と生きている」
「子どもを育てようとか、サラリーマンとして出世しようとか、一生を賭《か》けた仕事を持っているとか……みんななにかしら目的みたいなもの、持っているわ。私、なんもないもん。仕方ないから、目先のことに夢中になって気を紛らせているだけ」
「それはわかる」
「いつか話してくれたでしょ。実存主義? そんな大層なものじゃないんでしょうけど、なにをやってもたいして意味がないみたい」
「わるい病気をうつしちゃったかな」
「そうみたいよ。あなたもちゃんと結婚して、人並の家庭でも持ったら」
「結婚なんてものは、なんかこう、腹の底から�したい�って、そういう気が湧《わ》いて来なきゃ、しないほうがいい」
「湧いて来ないの?」
「今までのところはね。わるいけど」
「わるいけどって……私に対して?」
「まあ……そうかな」
「いいのよ。気ままで。私、こんな関係もあっていいって、本当にそう思っているの。あなたにはご迷惑かもしれないけど」
「いや、べつに迷惑じゃない」
「それなら、よかった。男と女なんて……愛って言ってもいいのかもしれないけど、とっても不確かなものでしょ。結局、自分しか愛していないんだし、そんなにりっぱなもんじゃないわ。それが恥ずかしいもんだから、みんな愛がものすごくりっぱで、自分もりっぱなことやってるみたいに演技をするのね」
「わかる」
「それも一つのやり方でしょうけど、ありのままに、自分の感情のまんまに親しみあうってのも、わるくない。うまく言えないけど」
「ラブ・レターなんか書くと、自分の恋愛がものすごくりっぱなものになっちゃうだろ。こんなに愛していて、こんなに純粋で、こんなに真摯《しんし》で……しかし、フィクションなんだよな、あれは。自分で自分を酔わせている」
「酔える人はいいけど、私、少しヘンテコだから」
「ヘンテコ同士でいいんじゃないのか」
「だから似てるのよ」
 はたから見れば訳のわからない関係だったろう。
 そんな状態のまま数か月が過ぎて、中彦が朋子のマンションへ電話をかけると、
「もし、もし」
 と、声が笑っている。
「どうした?」
「なんでもないの。ちょうど私も電話をかけようかなって思っていたとこだったから」
「なにか用?」
「でも、あなたがかけてよこしたんだから、あなたのほうの御用から先に言って」
「そう言われても困る。このところしばらく会っていないから」
 一か月に一回、そのペースを守るのがようやくだった。
「そうね。じゃあ、私のほうの用件」
「うん?」
「ちょっと九州あたりにまで飛んでみませんか」
「いいねえ」
 朋子のほうから誘いがあるのはめずらしい。
「来週」
「来週のいつ?」
「木曜日から日曜日まで」
「ちょっと待って」
 スケジュールを記したノートを開く。
 電話口で下唇を突き出しながら、
「木曜日がまずい。どうしても」
 今は入試のシーズン。勤務先の予備校に詰めて、模範解答を作る仕事が入っている。ほかのだれかに頼むわけにもいかない。
「じゃあ、次の月曜日は?」
「それもむつかしい。わりとひまな時期のはずなんだけど……こんな誘いがあるとは思わなかった」
「金、土、日は、いいのね」
「うん。それは大丈夫」
 まるっきり予定がないわけではないけれど、なんとかやりくりはできるだろう。
「唐津《からつ》と、それから長崎と雲仙《うんぜん》に行きたいの」
「うん?」
「唐津には仕事があって、それは一人で行くわ。あなたは佐賀県にいらしたこと、あるんでしょ」
「ずっと昔ね」
「だから、いいじゃない。金曜日に長崎でお会いしませんか。その日の午後は市内を少し見て、翌日は雲仙。日曜日に帰って来るの」
「いいよ」
「じゃあ、ホテルの手配は私がします。飛行機は……帰りはANAの十五時二十分。行きは午前の、十時二十分くらいかしら。ご自分のぶんだけ用意してくださいな」
「わかった」
 航空券の予約には搭乗者の名前が必要だ。夫婦ではない二人の旅には都合がわるい。
 ——ホテルのほうは、どうするつもりかな——
 疑問を覚えたが、朋子にまかせることにした。
「無理を言って、すみません、迷惑じゃなかった?」
「ぜんぜん」
「もう一度、ご連絡します。ご自分の切符、ちゃんと取ってね」
「すぐに手続きをする」
「じゃあ」
「うん」
 電話を切り、口笛を吹きながら航空券予約センターの電話番号を捜した。
「もしもし、長崎への往復なんですが……」
「はい。何日の、どの便でしょうか」
 希望通りの便が予約できた。
 地図のぬり絵は……長崎はどちらにとっても白い未踏の地域である。佐賀は、朋子だけぬることになる。
 ——しかし、帰って来てから——
 まだ色をぬるわけにはいかない。
 
 約束の金曜日、午前十時二十分のANA機で中彦は長崎へ出発した。朋子は唐津で仕事をすませ佐賀市で一泊して長崎本線の急行に乗る。一時間半くらいの旅程らしい。午後一時を目安に長崎市内のGホテルで会うことにした。
 大村の空港から長崎市内までバスで一時間あまり。中彦は大幅に遅刻してしまった。
「ごめん、ごめん」
 朋子は紺のスーツ、襟もとの白いステッチがしゃれている。
「このくらいの時間になると思っていたわ。ここは空港から遠いって聞いてたから」
「で、どうする?」
「お食事は?」
「まだだ」
「じゃあ、このすぐ近くにおいしい皿うどんを食べさせるところがあるの」
「そこへ行こう」
 裏通りの小さな中華料理店。昼の時間を過ぎているのに客が一組入口のところで待っている。メニューはチャンポン、皿うどん、そして湯麺《タンメン》と限られている。
 テーブルのあくのを待って皿うどんを注文した。
「白菜がおいしい」
「うどんそのものもおいしいわ」
「調べて来たのか」
「ええ。お友だちに長崎のこと、くわしい人がいるの」
 もう三時に近い。散策の時間は限られている。タクシーを拾い、市内の名所をめぐり歩いた。
「細長い町だな」
「山が迫っているから」
 丘陵地に貼《は》りつくように家並が続いている。
 大浦天主堂、グラバー園、オランダ坂、出島の商館跡……。
「これが眼鏡橋?」
「ただの橋だなあ」
 浦上天主堂から平和公園へ着いたときにはもう日が暮れかかっていた。
「あと二十六聖人の記念像だけ見ましょうよ」
「いいよ」
 駅に近い公園。薄闇《うすやみ》の中に二十六人の殉教者たちが立って並んでいる。宙に浮いている。
「子どももいたのね」
「みんなが空を見つめている」
「天国があるのよ、あのへんに」
 と、朋子が振り返って天の一角を指さす。
「そうだろうなあ」
「殉教って、なんなのかしら」
 ホテルへ戻る車の中で朋子がつぶやく。
「信ずることだよ。信ずるから殉死することもできるんだろ」
「そりゃそうでしょうけど、どうしてそこまで信ずることができたのかしら」
「うーん。パスカルじゃなかったかなあ。哲学の授業で習ったよ」
「どんなこと」
「ゆっくり説明する。チェック・インをして……夕食はどこだ」
「このホテルのレストランがすてきなんですって。夜景を見ながら」
「わかった」
「チェック・インは……私たち夫婦よ。岡島中彦と岡島朋子」
 小声で囁《ささや》く。
「それもわかった」
 ツインベッドの部屋。荷物をほどき、屋上のダイニングルームへあがった。
 窓際の席にすわり、
「あれが海?」
 街の光を割って黒い入江が見える。
「そうらしい」
 お腹《なか》はあまりすいていない。注文はパンとビーフ・シチュウ。
「さっきの話だけど」
「ええ」
「たしかパスカルだと思うんだ。�人間は考える葦《あし》だ�って言った人」
「知ってるわ」
「科学者だったから、ものごとを論理的に考えたんだ」
「ええ……?」
 朋子はフォークの先で肉と骨とを器用に分ける。
「神様がいるかいないか、だれにもわからない。パスカルにもわからない。神様がいる可能性を一としたら、いない可能性はどれくらいか。わからないけど、とにかく有限の数で表わすことができる。〇・五とか、二・八とか……。つまりそれをMで表わすと、神様がいるかいないかは一対Mになる」
「厭だあ、数学みたい」
「数学なんだ。パスカルは数学者でもあったんだ」
 朋子との会話は、いつもこんな調子になってしまう。朋子は肉を頬張《ほおば》りながら、
「あ、そう」
 と頷《うなず》く。
「神様がいるならば、これほどしあわせなことはない。つまり、人間が偶然|塵《ごみ》みたいにこの世界に放り出されているわけじゃなく、神の国が約束されているわけだから。これは至上の幸福、無限大の喜びだってパスカルは考えたわけだ。わかる?」
「わかる……みたい」
「神様がいなければ、人はせいぜいこの世の快楽を味わうだけなんだから、たかが知れている。これは有限の幸福にしかすぎない。幸福の量を計ってみると、神様がいるときは無限大。いないときは有限だから、この量を今度はNで表わす。無限大の記号は知ってるだろ。8を横にしたみたいなやつ」
「ええ」
 中彦はポケットからボールペンを抜き、紙ナプキンに薄く、
  1 : M
  ∞: N
 と記した。破けそうな紙ナプキンを朋子の眼の前に移し、
「上のほうが神様がいるかいないか、その可能性を表わした式、下のほうは、そのことで得られる幸福の量を表わした式。で、これをかけ算すると、神様がいるほうに賭《か》けたほうがいいか、いないほうに賭けたほうがいいか、当てにできる幸福の総量がわかる。つまり、こうだよ」
  1 ×∞ : M × N
 こう書き加えてから、
「一かける無限大は、やっぱり無限大だし、MかけるNは、どっちも有限な数だから、かけ算をしても有限の数になる。つまり、神様がいるほうに賭けたほうがずっと幸福の量が大きいんだから、そっちに賭けよう、神様を信じたほうが得だ、と、そう結論をくだしたんだ」
「わからないわ、むつかしくて」
「言ってることは、そんなにむつかしくはない。はっきりわからないことについて、どっちを選ぶか、だれしもが毎日の生活で直観的にやってることだよ。たとえばサ、子どもがお小遣いをもらいに行くのに、おじいちゃんのほうへ行こうか、おばあちゃんのほうへ行こうか。おじいちゃんは、くれるときはたくさんくれるけど、いそがしいので忘れられることも多い。おばあちゃんは額は小さいけど、ほとんど忘れない」
「あるかもしれないわね」
「おじいちゃんが忘れずにくれる可能性を一とすれば、おばあちゃんのほうは二くらいになる。くれる金額はおじいちゃんだと三千円、おばあちゃんだと千円。幸福の可能性と総量を計算すると、おじいちゃんが一かける三千、おばあちゃんが二かける千、おじいちゃんのほうへ行こう、となる」
「数でうまく表わせないこともあるでしょ」
「もちろんそうなんだけど、頭のどこかで数量的な判断をしているわけだよ、俺たちは、いつも。魚を釣りに行く。あっちの岩場のほうが、よく釣れるけど大物は少ない。こっちの岩場は一日釣れないこともあるけど、釣れたときはすごい。どっちにしようか、女の人なら、デパートのほうが気に入ったものが見つかるけど、値段が高い。スーパーは安いけど、気に入ったものが見つからないかもしれない。可能性の大小と、そこから得られる満足の大小とを考えてどっちが得か、俺たちはいつも心の中でかけ算をやってるんだよ。無意識のうちにも」
「そうかもね」
「だから、神様の有無についても一対M、それによって得られる幸福は無限大対N。MとNとは有限の数だから、神様がいると信じるほうが得ってことになる」
「どっちが得か、よーく考えてみよう。CMがあったわね」
「うん。パスカルは十七世紀の人だろ、たしか。神様って言っても、ヨーロッパの場合はキリスト教なんだけど、その前までは、あんまり疑いも持たず、みんなが信じてたわけだろ、神様の存在とか、神の国とかを」
「ええ」
「十七世紀あたりから�ほんまかいな�って少しずつ疑いが現われ始めて、それでパスカルがこんな論理を思いついたんじゃないのか。神様を信ずる理屈として。ゆっくり考えてみると、パスカルの理屈も信じるか信じないか、そこにかかっているわけで、早い話、神様がいない可能性を無限大にしちゃうと、この数式、ぜんぜんちがって来るもんな」
「殉教者は信じてたわけね」
「あの彫像はよくできてたな。天国を信じてじっと見てるって顔だったもん。無限の喜びに比べれば、ひとときの地上の苦悩なんか、ちっぽけなマイナスでしかない」
「そういう境地に達するんでしょうね」
「しかし、二十世紀になって、そう単純には信じられなくなったんじゃないの。神様もいなければ究極の使命もない。人間はただこの世に放り投げられただけ。とるにも足りない目的を自分で捜し、自分で設定し、励むよりほかにない。ぬり絵をやるとか。これで佐賀と長崎が埋まったわけだ」
「そう。ものを知ってる男って、いいわよ、やっぱり。歩く百科事典みたいな人」
「それは無理だ」
「コーヒー飲みたい」
「うん」
 中彦がコーヒーを飲み、料理の残りを口に運ぶ。
「哲学の先生が、ガマ蛙みたいな顔をしててサ」
「ひどいわ」
「本当なんだ。パスカルの説明を始めたとたんに�人間は考える葦《あし》だって言われていますけど、本当は人間は考えるガマなんです�って、ガマ蛙みたいな顔で言うんだよな」
「冗談?」
「ちがう、ちがう。大|真面目《まじめ》で。今まで�葦だ�って訳されていたけど、それは誤訳で本当は�ガマ�なんだって……。葦とガマ蛙じゃ、ずいぶんちがうだろ」
「ちがうわねえ」
「いくらなんでもそんなひどい誤訳がずーっとまかり通って来たなんて、信じられないだろ。俺、このガマ蛙、なに言ってんだ、そう思って聞いてたら……」
「ええ?」
「ガマって、ほら、蒲《がま》の穂ってのがあるだろ。川岸なんかに生えてる……」
「ああ。因幡《いなば》の白うさぎ。その上に寝転がって」
「そんなのあったな。蒲田《かまた》とか蒲郡《がまごおり》とか、みんな蒲が生えてたんじゃないのか」
「そうかもね」
「葦と訳しているけど、本当は蒲だって……なにせ当人がガマ蛙の顔で言うもんだから、てっきりガマ蛙のことだと、俺、思ってしまって」
「馬鹿らしい」
 朋子は体を揺すって笑う。コーヒーが今にもこぼれそう。
「顔はガマ蛙だったけど、授業はよかった。わかりにくい哲学を自分なりに大胆に説明してくれるから学生にもよくわかるんだ。少し言いすぎのとこもあったのかもしれないけど、いつかも言っただろ、七のことを言うのに、はじめ十を言って三を引く、そのほうがわかりやすいんだ。そういう感じだったな、ガマ蛙の授業は」
「ゴチャゴチャ、ゴチャゴチャ、なにを言ってるか、よくわからない説明って、よくあるもんね」
「そう。�人間は考える葦だ�っていう言葉だって、人間なんて水辺にそよいでいる、かよわい一本の草だって、そういう意味に解釈されている場合が多いけれど……」
「ちがうの?」
「ガマ蛙の説明はちがったな。かよわい水辺の草にしかすぎないけれど、考えることができる。だから強い。しかし、強いと言っても、所詮水辺の草みたいなものだから、絶対の強さを持っているわけではなく、すぐに折れてしまう。やっぱり弱い。弱いけど、考えるから強い。強いけど、かぼそくて弱い。強いけど弱いし、弱いけど強い……。弁証法的って言うのかな、矛盾をくり返していく存在として人間をとらえたところが、この言葉の本当の意味なんだって……」
「結論がないわけね」
「そう。断定のできないこと、いっぱいあるもん」
「これが今回のお勉強?」
「いいんじゃない、このくらいで」
「ありがとうございました」
「お粗末様でした」
 ディナールームを出てエレベーターに乗ったところで朋子の手を握った。
「話したいことがあるの」
 と、朋子は上眼使いで見る。
「なんだ」
「でも明日。今晩は……ね、散歩に行かない?」
「いいよ」
 日中は暖かかったが、夜は風が冷たい。思案橋のあたりまで歩き、
「夜の早い街ね」
「どことなく暗いな」
 酒場のたぐいを除くと、商店はあらかたシャッターをおろしている。
「寒い」
「コートを着てくればよかった」
 タクシーを拾ってホテルへ戻った。部屋のぬくもりがここちよい。
「おみやげを買って来たの」
 朋子がボストンバッグのジッパーを引きながら言う。
「俺に?」
「そう。唐津《からつ》で見つけたの」
 二つの箱から二つの同じグラスを取り出した。
「ギヤマン風だな」
 絵柄は、薄い暗緑色の海に古地図が記してある。
「モーニング・カップなのね、きっと」
「うん」
「一つ持って帰って。牛乳くらい飲むんでしょ、朝」
「飲む、飲む」
「私もこれで飲みますから」
「なるほど。分身みたいなものかな」
「分身? ああ、そうね」
 手触りが滑らかでやさしい。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 朋子が丁寧に包んで箱に戻した。
「明日は早いんだよな」
「九時三十二分の列車で諌早《いさはや》へ行くの」
「そこからは、なに?」
「バス」
「九時出発くらいだな」
「ええ」
 中彦がドアに近いベッドを採った。
「さっき、話したいことがあるって言ってたけど……」
「だから、明日。明日の夜に」
「わかるような気がする」
「きっと当たっているわ」
 ベッドサイドのあかりを一つずつ消し、フットライトだけの薄暗い部屋。
 ——いつかもこんな夜があったな——
 と、中彦は思った。
 朋子と過ごす夜は、いつもみんなこんな感じだった。いや、そうではない。どの夜も少しずつちがっている。
「行ってもいい?」
 尋ねながら動作はすでに立ちあがり、朋子のベッドへ滑り込む。肩を抱きながら、
「平安朝スタイル」
 と笑った。
「なに?」
「うん。平安朝スタイルだと、男が女のところへ訪ねて行く」
 ツインベッドの場合は、どちらが作法に適っているのだろうか。
「反対はなんて言うの?」
「なんだろう。通い妻スタイルかな」
「そういうのも、あったの?」
「あったんじゃないか」
 乳房のふくらみも、恥毛の感触も、掌がしっかりと覚えている。
 抱きあうたびに体が少しずつなじむ。
 ——でも、少しちがうかな——
 一瞬、微妙な変化を感じた。
 たとえば、自分の部屋。留守中にだれかが入って、ほんの少し机の上のものを動かす。戻って来て、
 ——変だな——
 漠然とした気配。どこがちがっているのかわからない。気のせいだとも思う。
 女はきっと抱擁の最中にこんなよそごとなど考えたりはしないだろう。一途《いちず》に没頭しているのではあるまいか。
 堰《せき》を切って興奮が流れ出す。
 男は急速に萎《な》え、女はゆっくりと静まる。
 中彦は自分のベッドへ戻った。
 夢を見た。
 地図がつぎつぎに色をぬられていく。
 ——あともう一息——
 全部ぬり切ってしまうと、どうなるのか。それを楽しみにして来たのだが、
 ——いけない——
 なにかわるいことが起きるらしい。
 今までよいことばかりを想像していたが、それは大変なまちがいだった。
 もうどうしようもない。最後の県が半分ほどぬられている。怖い。とても怖い。
 眼をさました。
 カーテンのすきまが白い。時計を見ると、七時を過ぎている。
 ——おかしな夢だったな——
 夢の中身は、いかにもこんなときに見そうな内容だった。だけど、そこで感じた恐ろしさがただごとではなかった。真実怖かった。
 ——怖いことなんか、なにもないのに——
 ぬり絵が完成して……おそらくうれしいことも起こるまい。
 ——ほとんどなんの意味もない目標——
 人生そのものと同じように。ぬり絵を一つ一つぬって行く、その道筋にだけなにほどかの意味がある……。
 もう眠れそうもない。
 起きて、そっとバスルームへ入った。
 コックを押すと、お湯がバスタブの中にザザッと流れ込む。タオルをコックにかけて水音を消した。
 バスタブに全身を沈め、脚を伸ばす。
「たかがセックス、されどセックス」
 水の中に沈んだ自分の裸を見つめながら、つぶやいてみた。
 男の凸起を女の凹みの中にさし込む。そのことにどれほどの意味があるのか。
 ——生命を作る営みだから——
 それゆえに厳粛である。
「それはわかる」
 だが、現代ではかならずしもそういう営みだけとして機能しているわけではない。
 むしろ愛の証しとして。快楽として。
 体液を好きな女の中へ流し込むという行為には、たしかにえも言われない喜びがある。心の満足がある。征服欲も微妙にからんでいるだろう。
 一方、女のほうは、それを許し、それを受け入れる、そこに喜びがあるにちがいない。同化の喜び……ちがうだろうか。
 バスローブを着てバスルームを出た。
「起きたの?」
 と、朋子が白いシーツの中から眼だけを覗《のぞ》かせている。
「うん」
「天気はどうかしら?」
「まだよく見てない」
 カーテンをなかばほど開いた。
 転げるようにまばゆい光がさし込んで来る。
「開けてくださいな。私も起きますから」
「快晴だ」
 中彦は眼をしばたたきながらベッドの中の朋子をさぐった。乳房のふくらみが掌にここちよい。
「さ、朝ごはんを食べて」
「よかろう」
 朋子がバスルームへ駈《か》け込んで行く。
 シェバーで髭《ひげ》を剃《そ》った。
 朝食は和洋折衷のバイキング。朋子がパンを食べ、中彦は茶碗の飯、しかしコーヒーだけは飲む。
 タクシーで長崎駅へ。
 改札口を抜けると始発列車が車両を連ねて待っている。朋子はスラックス姿に変わっていた。
「諌早《いさはや》って、どこにあるんだ」
 中彦がガイドブックの地図を広げる。
「この県は形が複雑ね」
「長崎県の子どもは、ちゃんと自分の県を描けるのかな」
「描けるんじゃない」
「昨日もらったグラス……」
 と網棚の上を顎《あご》で指す。朋子の贈り物がバッグの中に入っている。
「ええ?」
「九州なんかずいぶんひどい形だったな」
「いつ頃の古地図なのかしら。でも、北海道なんか、もっとひどいわよ」
「なんとなく眺めてるけど、作るとなると大変だよな、地図は」
「でしょうね」
 長崎から諌早までは三十分足らず。そこで島原鉄道のバスに乗り込む。
「長崎って雨が多いんだろ」
 快晴の空を見ながらつぶやいた。
「どうして」
「そういう歌が多いだろう。長崎は今日も雨だった……とか」
「でも、ある晴れた日に、って、そういうのもあるじゃない。あれは長崎のわけでしょ」
 と、朋子が�蝶々《ちようちよう》夫人�のアリアを口ずさむ。
「じゃあ、晴れてる日もあるわけだ」
「そうよ」
 右手の窓に海が浮かんだ。
「どこの海だ」
 と中彦がまた地図を開く。
「あなたって知識欲が旺盛《おうせい》なのね、本当に」
「ここにはいろんな海があるんだよな。昨日ホテルのダイニングルームから見たのは、長崎湾だろ、当然。飛行機が降りたのは大村湾だし、あれは橘《たちばな》湾だよ。あと有明《ありあけ》海ってのもある」
「あっちゃこっちゃにいろんな海があるのね」
 水平線の上に浮かぶのは、島原半島なのか、それとも天草《あまくさ》の島なのか。
 途中で朋子が眠り、中彦もまどろんだ。眼を開けると雲仙の街に着いていた。
「きれいな街並だな」
「本当に」
 いわゆる温泉街のイメージとは少しちがっている。広い舗装道路を挟んで、ホテル、旅館、郵便局、ポリス・ボックスまでが整然と、一定の調和を保って並んでいる。
「作られた街だな」
「実存主義じゃないのね」
「そう。先に定義があって、そのあとで存在した街だよ、これは」
 それははっきりとわかる。
 Kホテルは木造のクラシック・ホテル。これも風格があって美しい。
「上高地《かみこうち》のTホテルでコーヒーを飲んだな、ずっと昔」
「高級すぎて泊まれなかったけど」
「ちょっと似てるな」
「そうね」
「今日は、これからどうする?」
「仁田《にた》峠へ行くの。今日はいいと思うわ、きっと」
 荷物を置いてタクシーを呼んだ。
 ゴルフ場の脇《わき》を走る。
「ここは日本で一番最初にできたパブリック・コースなんだね」
 と、運転手が言う。
「へぇー」
「上海航路の船が長崎港へ入ってたりしたから早くから外人さんが来てたんですよ。夏だって涼しいし、景色はいいし……」
「本当に」
「ここはほかの温泉場みたいに歓楽街がないから……いいんじゃないの、こういうとこも」
 仁田峠にはロープウェイが設置され、ゆらゆら揺れながら頂上駅まで昇った。さすがに風が冷たい。このあたりは霧氷でよく知られているところらしい。今年は暖冬で、春の訪れが少し早いようだ。
 山頂駅からさらに数十メートル登ると、そこが妙見岳の山頂。岩の上から展望ができるようになっている。
「すごい」
 本当にすごい。
「これは有明海だな」
 東の海が太い入江を作り、その対岸に遠い山、近い山、そして町が見える。
「熊本かしら」
「方角はそうなる」
「じゃあ、あれは阿蘇《あそ》山?」
「そうかな」
 ゆるやかなカーブを描いて突出する山並みがあった。
 それよりももっと雄大なのは、南の海の風景である。
 これも海をへだてて三角《みすみ》港、そして天草《あまくさ》の上島《かみじま》、下島《しもじま》、その薄黒い姿が水平線上に湾曲してどこまでも続いている。
「桜島が見えるときがあるんですって」
「まさか」
「でも、お友だちが……長崎のことをよく知ってるお友だちが、そう言ってたわ」
「見えるかなあ」
 天草の島のむこうに、さらに高い山の稜線がうっすらと映っている。しかし、噴煙らしいものは見えない。桜島にしては近すぎる。
 西には青い湖と遠く光る橘《たちばな》湾あたり……。そして北の方角には島原半島の山々が、視界をさえぎっていた。
 近くに国見岳《くにみだけ》、普賢岳《ふげんだけ》、同じくらいの高さの山頂があって、それぞれが見ごとな眺望を誇っているにちがいない。先に来ていた家族連れが立ち去り、絶景が二人だけのものとなった。
「これだけの眺めって、めったにないだろ」
「会津《あいづ》もよかったけれど」
「いや、こっちのほうが上じゃないか」
「海が見えるから」
 山登りで汗ばんだ体も、今はむしろ寒い。
 中彦が朋子の肩を抱いた。
「寒い」
 コートのボタンをはずして、朋子を胸の中にくるんだ。マフラーをほどいて朋子の首に巻く。
「行きましょうか」
「もう一回グルーッと見まわして」
 不思議な恰好《かつこう》のままでトコトコと体を回転させて歩いた。
「もっと暖かいかと思ったわ」
「同じ九州でも、まん中の山を挟んで西と東じゃ大分ちがうんじゃないのか。このへんと宮崎じゃまるでちがう」
 山を一気に降りて雲仙地獄へ。白い蒸気がいとおしい。硫黄の匂《にお》いが強く鼻を刺す。灰白色の岩場はあちこちに熱い湯溜《ゆだま》りを作り、細い流れとなって動いているところもある。散歩道が敷かれ、ゆで卵を売っている。摂氏百三十度以上。卵を籠に入れて湯溜りの中へ浸けておけば、すぐにおいしいゆで卵となる。
 昔はもっと凄絶《せいぜつ》な風景だったにちがいない。阿鼻叫喚も木々の梢を縫って聞こえただろう。キリシタン殉教の記念樹も建っている。
「たまらんなあ、こんなところに投げ込まれたら」
「どうしてそんなことしたのかしら」
 と朋子が眉《まゆ》をひそめる。
 キリシタンの弾圧は、巨視的に見れば、新しい文化に対する島国日本の直観的な恐怖に由来するものだったろう。裁く者と裁かれる者とのあいだには、狂気に近い憎悪と石のような抵抗とがあったにちがいない。人間は人間をどこまで憎むことができるのだろうか。
 ホテルに戻った。このホテルには大浴場があるらしい。
「私はお部屋のお風呂《ふろ》でいいわ」
「もったいない。俺は行く」
 汗を流したあと、ダイニングルームで遅い夕食を取り、部屋でくつろいだ。
 テレビがタンゴを奏でている。どっしりとした体躯の女性歌手が歌っている。
 その番組が終ると、朋子がテレビのスウィッチを切り、つぎつぎに部屋のあかりを消した。
「どうした?」
「抱いて」
 声で告げたのか、それとも動作で示したのか。中彦は朋子のそばによって唇を重ね、ベッドに二人の体を横たえた。
 やはり……ちがっていた。
 朋子はぎこちない。女体の反応が滑らかに感じられない。
 ——いつもなだらかなカーブを描いて高まっていたのに——
 仕草の中に、かすかに堅い緊張がある。
 だが……突然、腕をからめ、体をすり寄せ、女体は興奮をあらわにした。いつもとはちがった意志が潜んでいるように感じられた。
「話したいことがあるんだろ」
「そう」
「なんだ」
「終りにしてほしいの。ごめんなさい。一方的に……勝手なこと言って」
 薄闇《うすやみ》の中で、朋子の眼が中彦の表情をうかがう。
「どうして」
 予期せぬことではない。多分そんな話だろうと思っていた。それ以外に朋子がことさらに「話したい」などと前置きをして語るテーマは考えにくかった。それに……なによりも愛の仕草がそれを予告していた。
「怒らないで」
「怒りゃしない」
「あのね……。もとの鞘《さや》に収まることになったの」
「ご主人と?」
 意外ではあったが、言われてみれば、それが一番ありうることのようにも思えた。
「ええ。いろいろ事情があって……」
「うん」
 あまり上等な連想ではないけれど、中彦は、
 ——ああ、最近、彼と抱きあったんだね——
 と、そのことをまず思った。
 女体のぎこちなさは、短い期間のうちに二人の男に抱かれる、その戸惑いを表わしていたのだろう。
 朋子の夫について……会ったこともないし、あまり話も聞かなかった。ほとんどなんのイメージも湧《わ》かない。
 だが、二人は離婚をしていないはずだ。夫婦なのだから、会えば抱きあうことも充分にありうるだろう。
 その男は、朋子の父親に信頼され、朋子の父親が築いた会社をまかせられ、そして失敗した。面目を失い、姿をくらましていた時期もあったらしい。そうしたいざこざが夫婦のあいだに溝《みぞ》を作った……。
 ——朋子はどのくらい好きだったのかな——
 それなりに好きだった。好感くらいは充分に抱いていただろう。そうでなければ、どんな事情があったにせよ、朋子が結婚に踏み切るはずはない。むしろかなり好きだったのかもしれない。
 ところが会社がいけなくなり、そんなときには人間の弱さや醜さが実際以上に見苦しく露呈されるから、
 ——この人、なんなの——
 そんな感情を朋子は持ったのではあるまいか。女性関係のトラブルもあったらしい。好きだったのが嫌いになることも充分にありうる。第一、一番大切なときに当人が姿を隠してしまうなんて、あんまりほめられたことではないし、残された者はどうしていいかわかるまい。しばらく中途半端な情況が続き、朋子としては、
 ——離婚ね——
 と、考えていたのも本当だったろう。
 ところが、その男が力を盛り返した。
 会社の負債を返却するとか、会社の立て直しに成功するとか、なにかしら明るい展望が見えて来たのではあるまいか。
 朋子の母親の立場も見のがせない。
「別れたわけじゃないんだし、せっかく会社も軌道に乗り始めたんだし……」
 母親にしてみれば、自分の夫が築いた事業であり、一家の支えであった会社が存続してほしいと願わないはずがない。娘婿《むすめむこ》に委ねることができれば、それが一番うれしいことだろう。もともと朋子の結婚には、そうした思惑がからんでいたのであり、昔に戻れるものなら、そのほうがよい、と、そう考えてもさほど不思議はない。朋子も母親のことをとても気にしている。あまり長い命ではないらしい。
 そして、男は……きっと朋子が好きなのだろう。その朋子を妻に迎え、妻の父親の会社を引継ぎ、
 ——俺も男だ——
 薔薇《ばら》色の人生を描いたときもあったのではなかろうか。若い者が張り切りすぎると陥穽《かんせい》に気づかない。力量も不充分だったろう。とんでもない失敗をやらかし、蒸発まがいの雲隠れまでやってしまったのは、なぜだったのか。
 二通りの見方があるだろう。
 恰好《かつこう》ばかりつけたがるが、そのわりに意気地のない奴。ただオロオロと逃亡してしまった……。
 だが、けちがついたときには、ほとぼりのさめるまで現場を離れ、ゼロからの覚悟で捲土《けんど》重来を計ったほうがいいときもある。ここ数年、彼は無我夢中で頑張ったのかもしれない。
 どちらも半分ずつ当たっているのではあるまいか。
 朋子はそうくわしくは説明してくれない。ポツリポツリと事情の一端だけを語る。
「うまくやれるかな」
 その男の女性問題はなんの支障もないのだろうか。
 いったんは離婚しようかと思った男と、もう一度やり直してみようとそう考えた、朋子の中の本当の引き金はなんなのか。
「わからない」
 中彦が、いまここで「俺と一緒になろう」と、そう叫ぶべきなのだろうか。中彦がそれを言わないから、朋子はよりを戻すことにしたのではあるまいか。
 ——今ではもう遅い——
 言うならば、もっと前……。朋子は心を決めている。きっと……。堅く、堅く決心している。
「原宿《はらじゆく》の店はどうする? 続けるのか」
「それはまだ……。軌道に乗ったし、もう私がいなくても、どうってこと、ないんじゃないかしら」
「しかし、君の力で軌道に乗せたんだろ」
「たまたま原宿って街が、ぐあいよくなったからよ。私の力じゃないわ」
「そんなこと、ないよ」
「どうするか、まだ話してないし、決めてもいないの。ただ私がいなくても大丈夫。それはたしかなの」
 朋子はむしろそっけない調子で言う。
 ——なにかあったのかな——
 店のオーナーとのあいだに。朋子は雇われてる立場だからトラブルがあれば身を引くよりほかにない。
「まずいこと、あったのか、店で」
「ううん。なんもないよ」
 と、少年のような言葉遣いで告げてから、
「私って、飽きっぽいから」
 と、つけ加えた。
 ——飽きっぽいかなあ——
 そうかもしれない。普通の飽きっぽさとは少しちがう。朋子には�なにがなんでもこれをやろう�といったふうな意欲がない。目的意識が薄い。だから、いっときは一生懸命やるけれど、長く続ける理由がないから放り出すのもやさしい。そんなところがある。
 ——俺もそうなんだよな——
 前にもそんなことを感じた。
 シーツの下で朋子の掌をさぐり、
「俺が申し込むべきだったかな」
「駄目よ。その気もないくせに」
「そうとは限らない」
「うれしいけど、駄目よ。私たち、似ているから。近親結婚は駄目なの」
 朋子が手を握り返す。
「好きなんだけどなあ」
「ウフフ。ありがとう。でも、いいの。あなたは無理をしちゃいけない人なの。思った通り、感じた通り、はっきりしないことははっきりさせないで気ままに生きてるほうがいいの。私、そんなあなたが好きよ。もっとちゃんとした仕事につけるのに、ごめんなさい、今のお仕事がわるいってわけじゃないけど、無理をしたくないから、自分の気持ちにすなおでいたいから、やってるわけでしょ、やくざな先生を。それがいいのよ」
 朋子はよく知っている。
「うーん。でも、なんだか変だな」
「なにが?」
 これから一人の男と……夫にはちがいないけれど、しばらく別れていた男と一緒に暮らす女……。それを目前にして、もう一人の男と旅に出る。朋子の気持ちはどこにあるのだろうか。
 ——短い日時のうちに二人の男に抱かれるのは、どんな感じかな——
 しかし、なまなましすぎて尋ねられない。
「罪ほろぼしかな」
 と中彦がつぶやいた。
「なーぜ」
 わからなければ、説明するのも気が進まない。
「いや、いい」
「ああ。旅行に誘ったことね。私、目茶苦茶ばっかりやってるから。ごめんなさい。迷惑だった?」
 こう問い返されると、中彦としてはますます答えにくい。迷惑ではない。旅は最高に楽しい。いつも楽しかった。失うのが惜しいほどだ。ただ……どう説明したらいいのだろうか。男女関係も一つの契約であるならば、一方的に朋子が破棄をした。罪ほろぼしの気分が朋子の側に少しあるのかな、と、そう思ってみただけのことだ。
 とはいえ、中彦と朋子のあいだには、なんの契約もあるではなし、中彦がプロポーズをしない以上、朋子がどう動こうと、なにをしようと、それは朋子の勝手であり、罪ほろぼしなどという言葉を考えつくこと自体、中彦の思いあがりかもしれない。
「そんなことはない。とても、いい」
「こうしたかったの、最後は」
「わかる、わかる。しかし」
「なーに」
「ぬり絵はどうする? まだ少し残っている」
「そうね。島根、鳥取、秋田、愛媛、富山、和歌山……。私はあと六つね」
「もう一息なのに」
「こういうことって、最後の一つを残したところで、たいてい駄目になるんじゃない」
「そうかな」
「ほら。弁慶も九百九十九本、刀を集めて」
「うん」
「小野小町のところへ通った人、だれだった?」
「忘れた。九十九夜で駄目になるんだ」
「そう」
「まだ先は長い。一生のうちには完成するよ」
「私、わりと早く死にそうだから」
「そう言いながら百まで生きたりして」
「それはないわ。どこが最後になるかしら」
「君が結婚しているあいだに、わりと俺いろんなとこ行ったからな。行ってないのは、あと山形と和歌山だけだ」
「和歌山が残りそう」
「わりと用がなさそうだもんな、和歌山県は」
「温泉があるんじゃないかしら、有名な」
「南紀白浜《なんきしらはま》?」
「そう」
「でも、東京に住んでいる者がわざわざ行くところじゃないだろ」
「そうね」
「残念だな。二人で最後までぬり絵を完成するつもりだったのに」
 なんの意味もない、無償の行為。目的とするほどのことではない。ただ……そんな些細《ささい》なものに賭《か》けている心理が中彦の中にないでもなかった。
「この先、自分でやります」
「うん、成果を報告してくれ。俺のところに君の地図があるんだから」
「そうね」
 朋子の乳房に手を伸ばした。
 ——たかがセックス、されどセックス——
 こんな瞬間に中彦はいつもこの言葉を思ってしまう。
 それほど重大なことではない。重大でないと思うならば……。
 とても大切なこと。そう思うならば……。
 恥毛を割って指を進めた。つい最近もう一人の男が触れたところ……。
 ——それがどうした——
 女は思いのほか繁く、大胆にこんなことをやっているかもしれない。
 もう一度体を重ねて中彦は自分のベッドへ戻った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 翌日は島原を訪ね、帰路に着いた。大村の空港から羽田《はねだ》へ。
「さよなら」
「さようなら」
 こうしてこの旅も終った。
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