むかし、ある国で王様の華麗なパレードが町をねり歩くことになった。王様の姿などめったに拝めるものではない。
町の人はこぞってこれを見ようとしたが、見物人が多過ぎてなかなか眺めることができない。
「どうしよう?」
「なんとかならないものか」
とりわけ背の低い人は、背の高い人をうらやんだ。
そんな様子を察知して、頭のいい家具屋が踏み台を売り出した。踏み台は飛ぶように売れた。だが……。
みんな同じ高さの踏み台にのれば、踏み台がなかったときと少しも変わりがない。背の低い人は相変わらず眺められない。儲《もう》けたのは、家具屋ばかりだった。
これは私自身が作った寓話《ぐうわ》である。
自分が作ったものについてあれこれ解説するのは、いささか面映ゆいが、だれもほかの人が言ってくれないので、まず�隗《かい》より始めよ�自分で少し説明を加えさせていただく。
今述べた話はただの一口話だが、世間には存外似たようなケースが転がっているのではあるまいか。
たとえば、私の家の窓から外を眺めると、たくさんのネオン・サインがきらめいている。どれもこれも広告宣伝のために夜を徹して輝いているわけだが、果たしてあれは期待通りの効果があるものだろうか。
たしかに一番初めにネオン・サインをつけたときは、おおいに注目を集めただろう。一番初めに踏み台にのった人がよく見えたのと同様である。
だが、われもわれもとネオン・サインの広告を出したら、もうさほど効果もあるまい。さりとて自分の会社だけやらなかったら取り残されてしまう。ネオンを掲げてようやく人並みのレベル、掲げなければ落ちこぼれ。儲かるのはネオン・サイン業者ばかりである。
この例がお気に召さないようなら、近頃の塾ブームはどうだろうか。これこそ、わが�踏み台理論�にピッタリだ。
地方の実情はよくわからないけれど、東京あたりの小、中学生は、まずたいてい塾に通っている。
ある都心部の小学校で調査したところ、四年生で六八%、五年生で七三%、六年生でじつに八八%、の学童が塾に通っているそうな。
そこで考えてみよう。
自分の家の子どもだけが塾に通っているのならば、いくらか他の人より成績がよろしくなるかもしれないが、みんながみんな塾へ行くようになったら、どうなるか。
できる子どもはやはりますますできるようになるし、中くらいは中くらいなりに、かんばしくない子はかんばしくないように、いぜんとして同じような分布図を構成するばかりだ。
「塾にもいろいろあるから」とか「塾へ行って伸びる子もいるし、伸びない子もいるし」という主張も当然ありうるだろうけれど、巨視的に見れば、上は上へ、中は中へ、下は下へと移行するにちがいない。
そこで、塾で習う勉強が子どもの能力開発にとっておおいに役立つものであるならば、なにはともあれ、日本の子どもたちの学力水準が全体的に高まることになり、まことにおめでたいのだが、果たしてそうなのか。
教育には、知育、徳育、体育の三つの柱があるはずだ。その中の知育だけに重点を置いて、無闇《むやみ》やたらに引き伸ばす。受験のためにのみ必要で、ほとんどほかの目的には役立たず、時には害にさえなりかねないものを詰め込んで、たとえペーパー・テストだけの力があがったところで、学童たちの学力が向上したことにはならないだろう。
さりとてみんなが塾にせっせと通っているとき、わが子だけ行かせないでいると、大幅に遅れをとってしまう。よほど優秀な子どもでもない限り落ちこぼれてしまう。
かくて、その結果、受験産業にたずさわる人たちだけが——私は特別にこの職業に敵愾心《てきがいしん》を燃やしているわけではないけれど——なんとなく儲かるような仕掛けになっている。
これこそ、わが親愛なる�踏み台理論�のもっともふさわしい例のような気がしてならない。
あるお母さんがしみじみと嘆いていた。
「そりゃ塾なんかやりたくないわ。自由に遊ばせてやりたいし、スポーツなんかもさせたいわ。でも、クラスの中のたいていの人が行っているんだから、うちの子だけやらないわけにいかないのよ。学力にグーンと差がついちゃうから。それで塾にやればいいのかっていうと、みなさん行っているものだから、ヤッパリうちの子はドン尻《じり》のほうにしかなれないのね。ほんと、困っちゃう」
こういう悩みを抱いている親はずいぶんと多いはずです。ちがいますか。