ここ四、五年|麻雀《マージヤン》をやって勝ったためしがない。一夜の合計をしてゼロで終われば、すこぶる好成績のほうだ。
負けるのは下手クソだからだ。それは自分でも認めるのだが、多少の屁理屈《へりくつ》がないでもない。昔は常勝将軍の季節もあったのだ。
まず第一に、この頃《ごろ》はめったに麻雀をやらない。せいぜい二、三か月に一度雀卓を囲むかどうか……。だからゲームを始めてもしばらくのあいだ、勘が戻って来ない。
——麻雀って、どうやるんだったかな——
そんなことを考えているうちに、たちまち振り込んでしまう。その損失をなかなか回復できない。
サラリーマンの頃には、
——よし、今晩は勝つぞ——
と、初めから意気込みがちがっていた。
昨今は、古い仲間に誘われ、自分のほうも時間のやりくりがつくと、それだけで、もううれしくなってしまい、
——まあ、一晩楽しめれば負けたっていいじゃないか——
といった気分が先に立つ。
実際問題として麻雀の負けなんかたかがしれている。旧友たちといっしょにあれだけ長い時間楽しむことができれば、当方としては多少の遊興費を支払っても損はない、と思う。酒場にでも行けば、もっと支出がかさむだろう。
それに……これからが本題なのだが、私は�運命の女神�というものについて、独特な考えを持っている。
運命の女神という人[#「人」に傍点]は、なにしろ地球上の何十億という人間の運命をつかさどっているわけだから、とてつもなくいそがしいことだろう。好運や不運の配分について、それほど厳密な配慮をするゆとりがない。
そこで彼女はどうするか。
私が感じているところでは、彼女は運・不運の配分について、あまり質的な吟味をすることはなく、もっぱら点数主義を採用しているような気がしてならない。
つまり、だれそれさんにどんな好運を配ったか。また、だれそれさんにどんな不運を配ったか、その内容までいちいち記憶しているひまがないのだ。ただ彼女が記憶しているのは、だれそれさんについこのあいだ�一つ�好運を配ったという事実であり、だれそれさんに�一つ�不運を配ったという事実だけである。
たとえばここにAさんという人がいて、宝くじの一千万円を当てたとする。女神としては、
——たしかAさんには、最近いいことを一つしてやったはずだ——
と、そのことだけは記憶しているから、次には、
——少し損をさせてやってもいいな——
と、思う。
そこで一千万円の損失を与えるならば、運・不運のバランスがとれていることになるのだが、なにしろ彼女は運・不運の内容まで記憶していないから、むしろ行き当たりばったりに、
——じゃあ、今日のゴルフは悪い成績にしてやろうか——
となって、Aさんはチョコレートの十枚くらい損をすることになる。プラスは一千万円、マイナスはチョコレート十枚。Aさんとしてはずいぶん得をしたことになるが、女神のほうは、運・不運の内容に関係なくプラスが一点、マイナスが一点、それでバランスがとれたのだと思ってしまう。
もちろん逆のケースもある。
Bさんはパチンコで打ち止めをやった。
「今晩はついてるぞ」
と、つぶやいたかもしれない。
とたんに運命の女神は、なにかしらあの男に損をさせなくては、と思う。
そこでパチンコ屋から出たとたんに、自動車にはねられて大ケガをする。パチンコの打ち止めと自動車事故とでトントンにされたんじゃBさんとしてはたまったものじゃないけれど、運命の女神はこの場合もプラスが一点、マイナスが一点。
「うまくバランスがとれたわ」
と、涼しい顔をしている。
どうも私の見たところ、運命の女神にはこういう性癖があるようだ。
だから、われわれ人類としては、同じプラスの一点をいただくなら、できるだけ中身の濃いもののほうがいい。同じマイナスの一点を課せられるなら被害の小さいもののほうがよろしい。これが生活の知恵というものだろう。
こう考えてみれば、麻雀なんかで多少いい思いをしても、次にどんなことでマイナスを与えられるかわからない。人生には、麻雀なんかよりはるかに大切なことが山ほどある。ぜひとも運命の女神の加護を願いたいことが無数にある。むしろ麻雀のときなどにこそ、おおいに負けたほうがよろしいのである。
「ああ、また今夜も負けてしまった」
と、私が麻雀屋を出たとき、女神は、
——あの男になにかしら埋めあわせをしてやらなくては——
と、すてきな運命を用意しておいてくれるだろう。ちなみに言えば、私が直木賞を頂戴した前夜は、麻雀で惨敗した夜であった。