先日、S君が久しぶりに拙宅に遊びに来た。S君は、私が長岡市の中学校にいた頃の同級生である。酒を酌《く》みかわし、近況報告やらプロ野球の話題やら、四十男のめぐりあいにふさわしい、当たりさわりのない会話を交わしてS君は帰った。
だから、つぎに話す話は、この時に話題に上ったものではない。遠い昔の出来事だし、中年男どもが今さら語り合うようなテーマでもない。だが、私はS君に会うたびにいつも心に思い浮かぶことが一つある。
おたがいに二十五歳を少し越えた頃だったろう。S君は長岡市から上京して、出版関係の会社の営業部にいた。その少し前、まだ長岡市にいたときに、彼はある旧家の娘のK嬢と親しい関係にあった。K嬢は彼より一つ年長。ガール・フレンドよりもう少し近しい間がらだった。
S君は彼女にのぼせあがっていたが、K嬢の本心はどうだったのか。二人の交際は遅々として進まず、S君は悶々《もんもん》たる日々を送っていた。K嬢にはほかに結婚の話があるのだと、そんなふうに聞いた記憶もある。
「もう駄目だよ」
と、S君は自嘲《じちよう》気味に言っていたが、ある日のこと、彼が会社から帰って来ると、自宅に近い駅の改札口にK嬢が立っている。
「どうしたんだ」
「あなたに会いたくて」
K嬢はほとんど東京を知らない。
不案内の東京へたった一人でやって来て、手紙の住所だけを頼りに駅頭に立っていたのだと知れば、彼女がどういう心境なのか、多くを聞かなくたってピンと理解できる。
S君の喜びはどれほどだったろう。聞けば、親に結婚を勧められ、その相手が気に入らず、S君がなつかしくなって逃げて来たのだ、と言う。
S君は民営アパートの四畳半に住んでいたのだが、彼女をそこへ連れ帰ったのは言うまでもあるまい。独り暮らしだから布団は一つしかない。いろいろと話し合ったあとで、二人は一枚の布団の中に体を並べて入った。
そして、これから先が話のポイントなのだが……彼女は結局五日間S君の部屋にいた。甘い、甘い、同棲《どうせい》生活の日々だったろう。
K嬢の親は娘の失踪《しつそう》に狼狽《ろうばい》し、捜し廻《まわ》ったあげく、娘がS君のところにいるのをつきとめた。
「娘を返してほしい」
「返せません」
「とにかくいったんは返してください。そのあとで交際を続けるのはかまわないから」
そこまで言われれば、引き止めておく理由も薄い。着のみ着のままで逃げて来た彼女をいつまでもアパートに置いておくわけにもいかない。ことさらに彼女の親と仲たがいする必要もなかった。K嬢はかならず戻って来ると約束して故郷へ帰った。
だが、この約束は守られなかった。手紙を送ったがなしのつぶて。S君はいたたまれず長岡市へ赴いたが、K嬢はどこか親類の家にでも預けられたらしく姿がない。親は、
「あの娘は気が変わったから。本当に申し訳ないですけど、話はいっさい水に流して」
と、願うばかり。S君は怒った。相手の不実をなじりもした。
もう一度K嬢が自分のところへ逃げて来るのではないかと期待もしたが、K嬢の心変わりはかならずしも親の口実だけではなかったらしく、間もなく風の便りで彼女が新しい結婚をしたことを知って、暗然たる気持ちを抱くばかりだった。
そこで話を少し前に戻すのだが、問題はアパートで同棲した五日間、S君はK嬢と体の関係をただの一度も持たなかったということだ。これは嘘《うそ》ではないらしい。私は彼の性格をよく知っているので素直に合点がいく。
S君はうれしくてたまらなかったのだ。感激のあまり体に触れることができなかったのだ。一通りの女遊びもしていた男だから、単純な意味で�できなかった�わけではない。彼女を大切に思うあまり必死になって我慢したのだろう。苦しいことは苦しかっただろうが自分を頼って来てくれたそのことのうれしさを思えば、それだけで彼は我慢できた。
美談と言えば美談である。だが、馬鹿らしいと言えば、馬鹿らしい話でもある。
どうせ駄目になるのなら�行きがけの駄賃くらい�などとさもしいことを言うのではない。
私はその後、何度か女性にこの話を語って意見を求めた。女性たちの意見はおおむね似通っていた。
「抱いたからって結果は同じだったかもしれないわ。でも、女ごころとしては、ヤッパリ頼りない男と思ったんじゃないかしら。親まで捨てて逃げて来たんだから、なにがなんでもまるごと引き受ける気概を見せてほしかったと思うわ。抱けなかったのは、彼に自信がなかったからよ。世間と戦う……」
女ごころを考えるうえでおおいに参考になることなので、私はS君を見るたびにこの古い出来事を思い出すのである。