「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の顔は変わっていただろう」と、これはあまりにも有名なパスカルの言葉である。そしてその意味も明瞭《めいりよう》であろう。
シーザーやアントニウスがもしクレオパトラの色香に迷わされなかったら、古代ローマの歴史は大きく変わっていただろうし、その結果、世界の地図——パスカルの言うところの世界の顔も、すっかり変わっていただろう。
ところで、クレオパトラは本当に絶世の美女だったのか?
今さら知るよしもないことだが、諸説を総合して考えると、どうやらクレオパトラは美人というより大変センスのいい女だったようだ。
センスのよさを髣髴《ほうふつ》させるエピソードはたくさん残っている。
シーザーに初めて会ったときは、たしか彼女は絨緞《じゆうたん》にくるまって、さながら贈り物のごとく届けられたはずだった。
「なんだろう?」と思ってシーザーが開いてみれば、中からピョンと異国の女王が現われる。演出効果満点の出会いであった。また、アントニウスと魚釣りをして、
「こんなものより世界をお釣りあそばせ」
などと名文句を吐いたのもよく知られている故事である。
さぞかし自分をチャーミングに見せる演出法をたくさん知っていたにちがいない。
女性の中には、目鼻立ちはとびぬけて美しくはないけれど、センスのよさで自分をチャーミングに見せるのがうまい人がいる。あの手の�いい女�の代表がクレオパトラだったと思えばよろしい。
だから、クレオパトラは自分の鼻が多少低くたって、なんとかごまかして美しく見せることができただろうし、したがってたとえ彼女の鼻が低かったとしても世界の歴史はさして変わらなかった——これは芥川龍之介を初め昔からよく言われている解釈。美術品などに見る限り、彼女はそれほどの美女ではない。
それはともかく、クレオパトラがすばらしい香料の使い手だったことをご存知だろうか。古代エジプトは香料の利用がいちじるしく発達していた国で、紀元前二、三千年頃からすでに各種の香料が用いられていたことが、さまざまな遺跡や文献から明らかになっている。
ミイラの製造も香料を抜きにしては考えられないし、食料の保存のためにも欠かせない実用品であった。
クレオパトラの頃には、肉桂《につけい》、白檀《びやくだん》、乳香《にゆうこう》、没薬《もつやく》、沈香《じんこう》、麝香《じやこう》、龍涎香《りゆうぜんこう》などがおおいに愛用されていた。彼女は一回肌を匂《にお》わすために壺《つぼ》の金貨一ぱいに匹敵する香料を使っていたということだから、全身から立ち昇る香気は大変なもの。特に麝香がお好みで、これは男性の性欲刺激剤として効果が高い。シーザーもアントニウスも、クレオパトラの顔よりもむしろこの馥郁《ふくいく》たる香りに迷わされた、と言ってもあながち間違いではあるまい。
だから、もしシーザーの鼻が曲がって、潰《つぶ》れて、悩ましい匂いを嗅《か》ぐことができなかったら、彼はクレオパトラに迷わなかったかもしれない。かくて「シーザーの鼻が曲がっていたら世界の顔が変わっていた」と言えないこともない。
ジョークはさておき、クレオパトラの鼻はどんな鼻だったか。これも美術品で見る限りそれほどみごとな鼻ではない。だが、クレオパトラは血統をたどればギリシャ人である。だからギリシャ鼻であったと想像することは許されるだろう。
ギリシャ鼻とは、横から見て額から鼻の先まで稜線《りようせん》が一本のまっすぐな直線を描いているのを言う。
われとわが身を鏡に映してみるとよくわかるのだが、日本人にはまずこのギリシャ鼻は皆無と言ってよい。たいていは目と目の間のところでガクンと凹んで、そこから鼻の盛りあがりが始まる。額の盛りあがりからいっきに鼻の盛りあがりに続くという顔立ちは、大和民族のものではない。
人相学のほうから言えば、鼻の稜線がまっすぐなのは大変上品で、高貴な印象を与えるものらしい。ギリシャ彫刻の表情が冷たく、高貴に映るのは、一つにはこのユニークな鼻のせいでもある。あれがクレオパトラの鼻だったのではあるまいか。
クレオパトラの鼻で思い出すのだが、フランスのことわざにこんな名文句がある。
「女の歴史は、女の地理によって決まる」
おわかりだろうか?
�女の地理�というのは、たとえば鼻がどこにどんな形で隆起しているか、目がどこにどんな形でポッカリ凹んでいるか、唇はどの位置に開いているか、つまり顔の造作のことである。
こういう地理によって、女の歴史が、生涯が決まる、というわけだ。
ある人生相談の回答者が、
「女の相談者の場合、どんな顔の人か、それを見ないことには、どうもうまく忠告を与えられないケースが多いですね」
と、述懐していたが、なるほど、女の地理がわからなくては、人生航路の指針もうまく示唆することができないのかもしれない。