ひところ外国人相手に日本語を教えていた時期があった。
こういう話をすると、すぐに、
「それじゃあ、英会話はお上手でしょうね」と言われるのだが、それは認識不足というものである。
率直に言って、私の英会話能力は、まことにたどたどしい。大学でフランス文学を専攻しているので、
「ああ、わかった。それじゃあフランス語で教えたんですね」
と言われるのだが、これまた見当はずれ。
フランス語のほうも、なんとか読めることは読めるけれど、流暢《りゆうちよう》に話すにはほど遠い。まあ、日常会話ができる程度。これを使って外国人に日本語を教えるなど到底おぼつかない。
ここまで話すと、たいていの人は、「へえー、それでよく日本語教師が務まりましたね」と、首を傾《かし》げる。
そうあからさまに言わないまでも�こいつはよほどいい加減な教師であったにちがいない�といった判断を持つものらしく、表情のそこかしこにそんな様子が現われる。
だが、お立ちあい。私がかなりいい加減な日本語教師であったことは八割がた本当だけれども、外国人に日本語を教えるときに、まず第一に必要なのは外国語の会話能力ではない。このことだけは、どうか知っておいてください。
では、なにが必要かと言えば、まず第一に日本語についての知識が大切だ。
「なーんだ。日本語くらいオレだってらくに話せる。漢字だって書けるし、日本語の知識も外国人に教えられるくらい持っている」
と、おっしゃるかもしれないが、これがその実それほど簡単ではない。
たとえば、日本語文法。その中でも動詞の活用。私たちは四段活用とか、上一段活用とか、下一段活用とか、一通り学校で習って知っているけれども、この知識は外国人に日本語を教えるときにはまるで役に立たない。
なんとなれば�書く�という動詞を提出され、さあ、これがなに活用かと尋ねられたとき、学校の勉強では�書く�という動詞に�ない�という助動詞をつけ�書か[#「書か」に傍点]ない�と、ア段になるから、これは四段活用だ、と習ったはずだ。
ところが日本語を知らない外国人には�書く�という言葉と�ない�という言葉を接続させたとき、それがア段になるかどうかわかるはずがない。それがわからないからこそ、文法の助けを借りたいのである。
言い換えれば、私たちが学校で習った日本語文法は、日本語がすでに話せる人に対して日本語の構造を明確化するように、そういう目的で作られたものであった。
外国人にとっては、�書く�は四段活用であり、したがって�ない�とつながるときには�書か[#「書か」に傍点]ない�となる、という知識のほうが必要なのであり、�書く�に�ない�を接続させて�書か[#「書か」に傍点]ない�となるから四段活用だ、というのは本末転倒の文法なのである。
だから、もっとべつな方法で�書く�が四段活用であることをわからせねばならない。
以上はほんの一例で、そのほかにもこれに類似した例は山ほどある。
だから、日本語教師になるためには、こうした�外国人に消化しやすい日本語の見方�を身につけることが第一義であり、一般的に言えば、英文科の卒業生より国文科の卒業生、それも国語学を学んだ人のほうが、よりよい日本語教師になりうる素地を持っているようだ。
もとより外国語が堪能に話せるにこしたことはないけれど、これはカタコトでもなんとか間に合うし、実際の教室作業では�日本語で日本語を教える�方法を取っている学校がほとんどなので、外国語会話力は必須の条件とはならない。
私がなんとか日本語教師が務まったのは、文章を書くことを通して日本語そのものについて厭《いや》でも関心を持たないわけにはいかず、そうした知識が�外国人に消化しやすい日本語の見方�を身につけやすくしていてくれたからだろう。
それでも一度だけとぼしいフランス語が役に立ったことがあった。
ある時、私が講師を務める日本語学校にサウジアラビアのお姫様が勉強に来て、この人はさながらアラビアン・ナイトの中から飛び出して来たような、ものすごい美人。まあ、美人であることは、この際なんの関係もないのだが、彼女はフランスに留学して教育を受けたので、英語がまるで話せない。やむなくカタコトでもフランス語が話せる私のほうがなにかと便利だろうということで、私が担当の教師となった。
さすがにアラビアン・ナイトのお姫様だけあって、まことに優雅なもの。私の下手クソなフランス語に対しても、おおらかにお笑いくださるだけ。はしたなくとがめたりはしない。
ただ、ただその美しさにおそれいっているうちに授業の終わりを告げるベルが鳴る、といったアンバイだった。あの時、寵愛《ちようあい》を受けておけば、私も日本の石油問題にいささか貢献できたのではなかったか。なにやらうらめしい。