旅行下手である。
けっして旅は嫌いではないのだが——むしろ好きなほうなのだが、なんとなく自信がない。ポケット版の時刻表を見ていると�ああ、全国でこんなに多くの列車が時間通りに毎日動いているのか�と思い、なにやらそら恐ろしくなる。信じられない気持になる。
旅行に自信の持てない理由は、はっきりしている。
昔の小学校では五年生になると、初めて日本歴史と日本地理を習った。ところが、私が五年になったのは昭和二十年、敗戦の年。前半は敵機に追いかけられて、ろくな勉強ができなかった。敗戦後はマッカーサーの命により日本歴史と日本地理は�教えてはならない�課目とされた。この指令は私が中学を卒業する頃まで生きていた、と思う。歴史のほうはその後、高等学校でも習ったし、他の学科との関連である程度までおぎなうことができたが、日本地理はただの一度も系統的に習ったことがない。とりわけ�どこそこは米の集散地である�とか�なんとか本線は、どこを起点としてどこまで走る�とか、本来なら小学校で修めておくべきレベルの知識が私の場合みごとに脱落している。
かてて加えて大学時代、周囲の友人たちは旅へ出たりスキーに行ったりしていたが、私は肺結核にかかり、しかもすこぶる貧乏をしていたので、旅行どころではない。卒業してから勤めた国立国会図書館もとんと出張などのない職場で、相変わらず旅をする機会には恵まれなかった。
ある時、全国都道府県のうち私が足を踏み入れたことのない場所がなんと多いことか、その数をかぞえて慄然《りつぜん》としたのを覚えている。
物書き専業になってからは、旅行の機会はいくらか多くなったが、そこはそれ、若い時代にスポーツをやったことのない体が急にテニスなどを始めてもいっこうにうまくならないのと同様に、いまだに旅上手にはなれない。
ふらりと旅に出たくなったときには、旅行好きの友だちに電話をかけ、
「どこかいいとこないか」
と、尋ねる。
わが親愛なる友輩は、私の予算や目的や日数を勘案して適当なスケジュールを立ててくれる。
彼らはたいてい、
「オレはここで一泊して、次の日○×山のほうへ行ったけど、それじゃなくて×○温泉のほうへ行くコースもある」
などと、二者択一、三者択一のコースを示唆してくれるのだが、私はたちまち首を振り、
「いろいろ教えてくれなくてもいい。乗った列車の時刻から泊った旅館まで、みんなあんたの時と同じでかまわない。そっくりそのままのやつを一つだけ頼む」
と、注文する。
どう考えてみても旅慣れた人間のすることではない。われながら少し情けない。今回の旅も、従来の例にたがわず、こまかい部分まで出版社の編集部が決定してくれたものだった。
十一月中旬の某日。上野発九・〇〇の東北本線。ひばり5号。みごとな晴天。私は欣喜雀躍《きんきじやくやく》として出発した。先にも述べたように、旅そのものはけっして嫌いではないのである。
車中にあること三時間あまり。いささか退屈を覚え始めた頃に白石駅に着く。シライシではなくシロイシと読む。特急で行けば仙台のひとつ手前の駅だ。
そもそも——と気張るほどのことでもないのだが、私の両親は仙台出身である。母方のほうは伊達《だて》藩にゆかりの深い家柄で曾祖父《そうそふ》は現実に殿様の小姓役までつとめたことがあったらしい。だが、私自身は仙台に住んだことがない。訪ねたことも一、二度しかない。知識と言えば、笹かまぼこと青葉城恋歌。ほかに�もぞっこがすぺしゃやー�などという仙台方言について、充分な聞き取り能力を持っている程度である。
白石駅の改札口を出てタクシー乗り場へ直行。
「青根温泉の不忘閣高原ホテル」
と、教えられた通りに告げると、車は背の低い家並みを縫って走り出した。相互銀行、公民館、公民館の隣りには図書館があり、まずは地方の小都市の標準的なたたずまい。児捨橋という物騒な名前の橋梁を過ぎるあたりから山塊の風景が近づき、やがて蔵王連峰が爪《つめ》あとのような雪渓をあらわにした。
たどりついた青根温泉は、古風な湯治場。町角でライトバンの八百屋と魚屋が店を開いている。聞けば、ここには生鮮食品を扱う店は一軒もないよし。昔風に米、味噌を持って遊びに来た湯治客たちが今晩のおかずの吟味をしている風景だった。
山と山との間の窪地《くぼち》にひっそりと息づいている温泉郷だが、かつては伊達家代々のお殿様の保養地として利用されたところ。また山本周五郎の名作�樅《もみ》の木は残った�で一躍全国に名の知れた、あの樅の木があるのもこの地である。つまり原田|甲斐《かい》がさまざまな策略を思案したのが、この温泉郷である。
「NHKドラマをやったあとの、一、二年は大勢お客さんが見えましたがねえ。また、昔に戻ってしまって、まあ、夏のシーズンを除けば、静かなものですよ」
ということであった。
不忘閣高原ホテルは、ここでは一番由緒のある旅館。なにしろ伊達のお殿様の御宿だったのだから、その名も青根御殿と呼ばれる一種の博物館風の建物が敷地の中にある。それを見学するのが、今回の旅の目的であった。
シーズン・オフとあって、宿泊客の数も少ない。旅館の中は森閑としている。
「すみません。もっと遅いお着きかと思ったものですから……部屋を温めてなかったので」
室内が冷え冷えとしているので、勧められるままにひとまず温泉のほうへ。
説明書によれば、享禄元年(一五二八)に当館の祖、佐藤|掃部《かもん》により発見され、浴槽は天文十五年(一五四六)蔵王山の転石を組合わせて作ったもの。伊達正宗公もこの湯を好まれ、頭のよくなる湯泉として知られている、とあった。リュウマチによい、婦人病によい、という話はよく聞くけれど、脳味噌のためによい、というのはめずらしい。
大浴場は、男女べつべつの入り口になっているが、中に入ればしきりを一つ置いただけの共同浴場。しかし、女客はもとより男客もない。湯温が低いのでかるく平泳ぎなどをやって楽しむ。
風呂からあがってもなにひとつやることがない。仕方なしにテレビのスウィッチをひねると、この山間の湯泉宿でも、画面は�三浦友和、山口百恵の結婚式�で持ちきり。百恵さんとは、婚約発表の直後に雑誌のインタビューでお会いしているので、関心なきにしもあらず。あの時はいかにも幸福そうな笑顔が印象的だった。
本日の百恵嬢はいささか緊張気味で、それはまたそれで美しい。ヤキモチで言うわけではないけれど、三浦さんという方は特徴の少ない役者さんですね。この手のマスクは、年を取るにつれ、どこにでもいるような、ただの�いい男�になってしまうはずだし……。俳優として売れなくなったら、どうするのだろうと、百恵夫人の将来を憂慮していると、
「あの、御殿のほうをご案内します」
と、番頭さんが現われた。
あわてて旅本来の目的に頭を切り換え、見学に立つ。
資料によれば、伊達家ご愛泊の休息所は明治三十九年に焼失し、現在の建物は昭和七年に、かつての様式を取り入れて再現したもの。天井の高い二階建ての桃山風|総檜造《そうひのきづく》り。しかし、四面にガラス窓が張ってあるところを見ると、完全な再現ではあるまい。昔は雨戸と障子だったろう。
特筆すべきは展望のすばらしさ。とりわけお殿様の休息室と推察される部屋からは、居ながらにして仙台平野を一望におさめることができる。天気がよい日には太平洋から金華山まで望めるとか。ここらあたりで美酒でも汲《く》めば、まことに気宇壮大。お殿さまとしては、わが領地いかばかりかと眺めることもできて、さぞや快適であったにちがいない。
これまでにも城下町の史跡を訪ねて大名たちの休息所と称される宿に何度か足を運んでいるのだが、たいていは「こんなものかな」と、軽い失望を覚えることが多かった。
室内の造りや庭園などには贅《ぜい》を凝らした跡が見えるのだが、全体としてはちっぽけな印象で、度肝を抜かれるほどのことはない。ヨーロッパの貴族たちの離宮のほうがよほどものすごい。
「大名と言えども、思いのほか質素だったんだな」
と思ったが、そうした例の中では、青根御殿はまあ、眺めのよさを加えて�上�の部類に属するのではあるまいか。
座敷には、金屏風《きんびようぶ》、書画、甲冑《かつちゆう》、書状などが陳列してある。鎧《よろい》は当家の家宝で伊達輝宗公のものであったとか。
「修理する人がいないんで、ボロボロなんです」
と、番頭さんははにかみながら言う。
この人はいかにも東北人らしく口数も少なく、しかも調度品を説明したあとで、
「たいしたものは、ないんです」
と、口ぐせのようにつけ加える。
通路の壁には、宮尾しげをの絵日記風のものが張ってあった。
これは、古文書の中に伊達家二十三世重村公が青根に湯治した折の記録があり、それを宮尾画伯が絵日記として書き表わしたものである。
�安永七年九月十九日|丑刻《うしのこく》より雨降。今暁七時|供揃《ともぞろえ》にて青根温泉へ入湯のため出馬……�
とあるが、伊達家は代々モダンな殿様が多かったから、時刻の表記についても時計を用いていたのだろうか。供揃えの名が記してあるので、数えてみると二十人余り。お殿様は温泉につかり、野鳥狩り、鹿狩り、角力《すもう》・馬追いなどを見物している。現代人の目から見れは、さほど楽しそうには思えない。
話を御殿に戻し——この建物は高台に立っていて、風をまともに受けるから相当に寒い。なにしろ当地は涼々たる蔵王連峰の山麓《さんろく》、冷気にはこと欠かない。雨戸と障子戸だけの頃はよほど寒かったにちがいない。全面ガラス窓になってはいるが、これも昭和初期の造りだから、風でも吹けばガタガタとうるさいこと、うるさいこと。
「台風のときなんか中にいると、ものすごい音ですよ」
という説明であった。
古くからの旅館なので訪ねる人も多いらしく、與謝野寛、晶子の歌、高浜虚子の句が残っている。寛と晶子の歌は、
石風呂の石も泉も青き夜に人と湯あみぬ初秋の月 寛
碧瑠璃《へきるり》の川の姿すいにしへの奥の太守の青根のゆふね 晶子
まあ、可も不可もなし。歌人は行く先々で歌を残さなければならないから楽ではないだろう。いつもいつも名作とはいくまい、といささか同情した次第。
そう言えば、古賀政男の名曲�影を慕いて�もこの湯治場で想を得たものだ、と聞いた。
失恋の悲しみを胸に抱いて、自殺をするつもりでここ青根までやって来たが、自然の美しさに接して心を打たれ�死ぬことはない�と、気持ちを取り直したのだ、と言う。旅館の近所に歌碑が建立され、つい先日除幕式を終えたところだったらしい。不忘閣ホテルには例の�樅の木は残った�の樅の木も立っていて、これも一応見物してみた。
樹齢の古さはひとめでわかったが、とりたてて感想はない。
夕食前に大浴場とはべつの殿様の湯のほうにも浸ってみたが、こちらのほうもとくに強い感慨はない。原田甲斐があの樅の木を眺めたのは本当だったろうし、伊達のなにがし公がこの湯船のあたりで湯につかったのも本当なのだろうが、今となっては、
「ああ、そうですか」
といった印象しか湧《わ》いて来ない。名所旧蹟を訪ね、一しお激しい懐旧の念に誘われるのは、むしろこちら側の思い入れに由来する部分がほとんどなのではあるまいか。
夜は音もなくひたすらに更け、ただ無聊《ぶりよう》の思いが募るばかり。一ぱい、一ぱい、また一ぱい、盃《さかずき》だけを重ねてぐっすり寝込んだ。
翌朝はさらにまた快晴。見渡すかぎり一群れの雲もない。蔵王連峰はすでに冬姿を装い、前夜の情報では、
「山頂まで車で行けるかな」
と、危ぶまれたのだが、晴天とあってこころよくタクシーを出してもらった。
夏の行楽地、冬のスキー場としてはよく知られている蔵王だが、この季節には訪ねる人も少ない。山域に入ってからそこを出るまでに出会ったのは、道路工事関係者を除けば、たったの三人。荒涼たる風景はさらにもの寂しいものとして映った。
途中|峨々《がが》温泉の、たった一軒しかない宿泊所の脇を走り抜けた。文字通り峨々たる岩壁の下に煉瓦色《れんがいろ》の屋根、ベージュ色の壁の建物が寒そうにうずくまっている。つづら折りの道を昇るにつれ視界はぐんぐん広がり、周囲の風景は一層きびしいものへと変わった。
賽《さい》の磧《かわら》を過ぎると低いブッシュさえなくなり、火山岩地独特の荒い山肌だけの風景となる。
「このちょっと先に不帰の滝がありますが、見ますか。靴が汚れるけど」
と、運転手が言う。
このさい靴の汚れくらいは我慢しよう。ウオーターフォール・オブ・ノー・リターン。名前がわるくない。
ゆっくり考えてみれば、どんな滝だって�不帰�のはずだが、この滝は山の中腹からいっきに落ちて、そのまま水跡を隠すように流れ去ってしまうから、この名があるのだろう。滝の観覧台の周辺は駒草平《こまくさだいら》といい、七、八月には高山植物の駒草が薄桃色の花をいっぱいに広げるという話だったが、今は土塊ばかりで草の茎さえ見当たらない。雪があちこちに積もっている。
やがて車は頂上に近い地点に到着。
「ここから先には行けません。お釜《かま》の見えるところまで歩いてみますか」
お釜というのは蔵王山頂にある火山湖でこの山のシンボル的存在である。これを眺めなければ、五千円あまりのタクシー代を費やしてここまで来た甲斐がない。
「どのくらいかかりますか」
「往復で三十分かな」
「じゃあ待っててください」
傾斜は十パーセント。雪もある。ただ一人よろめきながら登る道に寒風が吹きつけ、耳がちぎれそうだ。トックリのセーターの襟《えり》をさながら銀行強盗のごとく高く伸ばして顔を包んだ。
短い枯草が歯ブラシのようになって揺れている。察するに、水滴が草の茎に付着し、これが風に飛ばされ、飛ばされながら凍りついてしまったのだろう。
快晴の空の下で遠くの山脈がみごとに輪状の褶曲《しゆうきよく》をつらねている。
山頂のレスト・ハウスは厳重にドアと窓を鎖して季節はずれの来訪者をかたくなに拒否している。
まっ青な火口湖が見えた。
左に外輪山の馬の背が伸び、右の五色岳をえぐるようにして濁緑色の水面があった。山頂からの距離は三、四百メートルだろう。
水辺まで行ってみたい衝動を覚えたが、とてもこの装備では無理だろう。靴一足駄目にするくらいなら我慢するが、帰り道が楽ではあるまい。さっきから凍えるほどの寒さにさらされ歯の根があわない。
とたんに奇妙な連想が心に昇って来た。
——もし、あの車の運転手が私を置きざりにして行ったら、どうなるかな——
この寒さの中をトボトボと、とにかく人の姿の見えるところまで歩いて戻らなければなるまい。この快晴の空の下なら命にかかわることはあるまいが、下手をすればひどいことになるぞ。
——推理小説の材料になるかもしれないな——
思案はすぐに職業のほうへ移った。仕事熱心なのです。
カメラは持って来たのだが、風景が大き過ぎて、とてもレンズに捕える自信がない。ちまちました写真に撮るよりも、私は自分の眼底によりきびしく、より鮮やかにこの風化した奇っ怪な自然を焼きつける道を進んだ。
しかし、と思う。なにかここまでたどりついた印を残したいのだが……。
はなはだ頼りない、いささか尾籠《びろう》な話だが、私は急に放尿を思いついた。白い雪の原に近づき、水を放った。
私の脳裏には黄色い穴が雪の中へ染み込む光景があったのだが、それは平原ののどかな雪の風景にこそふさわしいものだろう。
風は一瞬にして水を散らし、黄ばんだ色さえ雪の上に認めることができなかった。
放尿のあとで語るのはおそれ多いが、蔵王は霊山である。仰ぎ見ると、さらに小高いところへ続く道があり、その行く手に刈田嶺神社《かつたみねじんじや》の社が望み見えた。しかし、そこまで登る時間もあるまい。
私は道を引き返した。タクシーは最前の位置で私の帰りを待っていた。
「どうでした」
「すごい眺めですね」
「これだけ天気のいいときはめずらしいですよね」
おそらくそうなのだろう。タクシーの中にすわり込み外気を避けたところでふと思った。
——伊達《だて》のお殿様もここまでは来なかったのかな——
青根御殿の展望もすばらしかったが、ただ一人晩秋の蔵王に立ってみた風景は、他の比較を絶するほどみごとなものであった。この絶景は——いささか大袈裟かもしれないが——私の生涯にもう一度めぐりあえるものかどうか。
帰路、三階滝と不動滝を見る。
どちらも山頂にかなり近いところにある滝なのに、水はどこから出て来るのだろう。手品を見物するような、違和感を覚えた。山は冬枯れで水を置く葉の気配さえないのだから……。
山頂から二時間足らず、白石の町に着けば蔵王のきびしさは消え失せ、一転してのどかな田舎の町となる。
いや、そうでもないのかな。私はあらためて�児捨橋�という名を眺めてみた。
蔵王の麓《ふもと》の町がのどかに見えるのは旅人の勝手な感想かもしれない。少なくとも何百年かの昔には、きびしい自然が人間たちにきびしい運命を与えていたのではなかったか。
そんなことをぼんやりと考えながらはるか山の端を振り返ったが、蔵王は山かげに隠れ、もう姿さえ見せなかった。