ことの始まりはオレの懐《ふところ》におあしがなかったから……。
懐に銭がないくらいだから貯金なんかあるはずもない。たった一冊の預金通帳の残高は限りなくゼロに近い二十八円也。おろしてみたところでなにかの役に立つという金額ではないね、これは。金と名のつくものは借金だけ。これだけはあっちにもこっちにもわんさとあった。
どうしてそんなに貧乏なのかって?
はい、はい、それを説明するにはなんの苦労もいらないね。
世の中、金を儲ける方法を見つけるのは楽じゃないけれど、なくす方法ならいくらでもある。
まず勤めていた会社が傾いた。社長は人件費を節約しなければなるまいと考えた。考課表を調べて、だれか勤務成績のわるいやつはおるまいか。いの一番にオレの名前があがって、たちまちこのハンサムな首が飛んだね。労働組合なんて、そんなしゃれたものとは縁のない会社だから話は早いよ。オレだってあんな安月給の会社、なんの未練もなかったぜ。「バイ、バイ」てなもんよ。
失業保険とアルバイトでなんとか食いつないでいたけれど、スキーに行きたい、新型のステレオがほしい、ディスコで踊りたい、女の子におごれば結構銭コがかかるしさあ、洋服だっていつも同じ物着てたんじゃカッコウがつかないぜ。サラ金でちょいと借りたりしたもんだから、あとはもう貧乏に加速度がついちまったね。時速二百五十キロ、飛んでるように走る、ビュアーン、ビュアーン……。これ新幹線の歌。ちょっと古いか。
貧乏になったところで考えた。
——なにか簡単におあしを手に入れる方法はないものか——
宝くじを買う。せこい考えだよ。宝くじに当たるより自動車に当たる率のほうがよっぽどでかいそうじゃないか。オレ、ああいう当てにならない話って好きじゃないんだ。
銀行強盗。そりゃ世間を見まわして一番銭コのあるところといえば銀行だけど、むこうも用心しているからねえ。ピストルでも持ってりゃやりようがあるけど、出刃包丁なんかじゃ冴えないぜ。オレ、自信がないよ。暴力は好きじゃないんだ。
結婚詐欺。手間ひまがかかるんだよなあ。そのうえ女の子に「おそれながら」と警察に訴えられたら、すぐにつかまっちまうもんなあ。相手に顔を覚えられるの、ヤバイぜ。
顔を見られずにうまうまと大金をせしめる方法となれば……うん、うん、前から頭の隅にあったんだけどね、やっぱり営利誘拐だよなあ。
どこか大金持ちの家の子どもをさらって来て、公衆電話からジィージャー、ジィージャー……
これはダイヤルをまわす音。
「子どもの命が惜しかったら、一千万円用意しろ。警察になんか言ったら子どもは絶対命がないぞ」
逆探知なんかされたらたまらないからな。長っ話をしてはいけないよ。こっちはいろいろ映画やテレビで見ているから知っているんだぜ。
しかし、このごろ、誘拐されるほうも映画やテレビを見ているからな。結構いろいろ知っているんだよなあ。
たいていは警察に相談するね。
警察も人質の安全を考えて極秘裡に捜査本部を設ける。新聞記者も協力して知らんぷり。
「しめ、しめ。オレの脅しがきいて警察には言わなかったな」
なんて思っていると、えらいめにあってしまう。刑事がいたるところに網を張っていて、油断大敵、手錠がガチャリ。
一番むつかしいのは、現金を受け取るところなんだな、あの犯罪は。オレ、ひまなときにはゴロンと寝転がって、いろいろ考えているんだ。たとえば、川の上に模型のボートを浮かべておいて、そこに身代金を積ませて、あとはリモコンで引き寄せる。
待てよ、一千万円となると模型のボートじゃ無理かなあ。一万円札でどのくらいの大きさがあるんだろう。オレ、見たことないからわからないんだ。ま、一千万円じゃなく五百万円でもいいし……場合によっては百万円でもいいな。昔からどうも考えることのスケールが小さいんだよなあ、オレは。
縄をつけた袋に身代金を入れさせ、その縄を川のむこうから引っぱるって方法もあるな。たしかフランスかどこかで誘拐犯がやった手口だけど……。これは使えるかもしれない。しかし、警察はやっぱり川のむこう岸にも張り込みを置いておくだろうな。無理、無理。
うん、そうか。小学生くらいの子どもを使って取りにやらせる方法もあるな。警官がその子を呼びとめたら、こっちはずらかればいいんだし。
そう、そう、五反田の公園にいつも日なたボッコをしている浮浪者がいたっけ。ちょっと薄馬鹿らしいけど、あんパンをやれば、走り使いをする……。あれを使うか。
一番いいのは、とにかく警察に相談させないよう、うまく脅せばいいんだ。
このごろの誘拐犯は、人質をあっさり殺したりするけれど、あれはよくないね。いくら犯罪者だって良心のかけらくらい持たなくちゃあ。
それに……この世に完全犯罪なんてものはないと思ったほうがいいね。小説でも映画でもたいてい犯人は捕まる。どんなに綿密に計画を立ててみたところで、なにかの手違いで見つかることもあるしな。誘拐殺人は大罪だからね。軽くて終身刑、下手をすればこっちが絞首台でブランコをする羽目になるんだよな。オレ、いやだよ。たったひとつしかない命だもんなあ。
それに……オレ、お化けも少し信じているとこあるからなあ。人殺しなんかすると、それからずっと夜道をひとりで歩けないよ。将来、結婚して自分の子どもを持って、ある日ヒョイと見ると、わが子がいつか殺した子どもの顔。
「ヒェーッ。こいつ、血迷ったな」
殴り殺すと、これが眼の錯覚。わが子が死んでいる……。お化け映画じゃたいていそういう仕組みになっているだろ。あれ、作り話だとは思うけれど、現実感あるよな。もしもってこともあるからなあ。
——あ、いけねえ——
オレ、自動車の運転ができねえんだったっけ。誘拐ってのは、いくら相手が子どもだって車がないとむつかしいのと違うか。さらったとたんにバタバタあばれられたら始末におえないし……。
やっぱり誘拐もむつかしいか……。
薄汚いアパートで寝転がってあれこれ妄想を描いていてもつまらない。頭をかくと、ふけばかりがボロボロ落ちる。
——ああ、かゆい——
頭を使うと、脳味噌が汗を出すのかな。あんまり科学的じゃないけど、やたら頭がかゆいので、手拭いをヒョイと肩にかけ銭湯に出かけた。
子どもたちがスケート・ボードで遊んでいる。邪魔だ、どけ、どけ。魚屋の脇には木箱が置いてあって、そこが陽だまりになっている。灰色の猫が気持ちよさそうに眠っていた。こいつは魚屋の飼い猫ではない。なんとなくこのへんに住みついて、魚屋のあまり物をもらって生きている。気楽なもんだね。
しかし、いつも天気のいい日ばかりとは限らないぞ。寒い日はどうするのか。
——同じ猫に生まれるなら、いい家に飼われるほうがいいなあ——
そう思ったとたん、突然すばらしいアイデアがひらめいた。
家庭用電気製品のメーカーでアルバイトをしていたとき、目黒区のりっぱな家にテレビを届けに行ったことがあったっけ。
七十近いばあさんがたったひとりで住んでいて、やけに用心のいい家だった。テレビを運び入れながら、そこらへんの家具やら置き物やらを眺めると、みんな値段の高そうなものばっかり。
「だいぶ金持ちらしいな」
と相棒に言ったら、
「知らんのか。ああ見えても、ここんちのばあさん、目黒区でも何番目かの金持ちなんだ。週刊誌に出てたよ。お金はあるけど、子どもはいない。死んだら財産は全部福祉施設に寄付するんだってサ」
「どのくらいあるんだ?」
「なにが?」
「財産」
「わからん。週刊誌には書いてあったんだろうけど忘れちまった。屋敷だけでも何億だろ。二十億くらいはあるんじゃないのか」
「親戚はだれもいないのか」
「遠い親戚くらいあるかもしれんけど、そういうのに譲る気はないんだろ。だれも近しい者がいないから猫を子どもみたいにかわいがっているんだ。猫より自分が先に死んだらどうしようって、それだけが心配なんだってよォ」
「へーえ」
あのときはつくづくもったいない話だと思ったね。
言っちゃあわるいが棺桶に片脚つっ込みかけたばあさんがいくら金を持ってたって、そうたくさん使い道があるはずがない。かわいがっている猫に毎日|鯛《たい》の刺し身を食べさせたってたかがしれている。
二十億円ていうのは、どのくらいの金なんだ?
一年に利子六分の定期預金に預けると、利子だけで一億二千万円か。ひと月に一千万円ずつ使ったって元金は減らない計算になるよなあ。
一ヵ月分でもいいからオレのほうにまわって来ないかなあ。ばあさんと違って、こっちはいくらでも金の使い道はあるんだよな。
あのときは、ただうらやましいと思っただけだったが、今、木箱の上で眠っている猫を見ていたら、急にすばらしい考えが浮かんで来た。
——待てよ、待てよ——
ここが思案のしどころだ。あわてる乞食はもらいが少ない。
銭湯へ行き、湯船につかって、さらにこのアイデアを練り直した。
風呂の中ってのは、血のめぐりがよくなるからものを考えるのにはいいんだね。ほら、ギリシアの……アルミニウムじゃない、そう、アルキメデスが、
「発見した!」
風呂から裸で飛び出した話があっただろ。あれ、どういう話だったかな。ま、この際、関係ないか。
オレは銭湯を出ると、いったんアパートに帰り、
——ちょっと下見に出かけるか——
散歩にでも行くような恰好で目黒まで足を伸ばしたってわけ。
屋敷の周囲をひとめぐりして、それからさりげなく近所の噂を聞いてみると、おばあさんの猫好きは大変なものらしい。�チャコ�って名の茶色い雄猫がいて、御齢《おんとし》五歳くらい。ただの薄汚い猫だが、ばあさんにはよっぽどかわいく見えるらしい。かわいがって、かわいがって、文字どおりの猫っかわいがり。チャコが病気にかかったときなんか犬猫病院の待合室で、
「どうぞチャコのかわりに私の命を取ってください」
しくしく、わあわあ泣いていたそうな。こいつはうまいぜ。
下見を続けていたら、うまいぐあいに、ばあさんがチャコを抱いて、近所の雑貨屋に行くのを目撃した。
「奥様、いつもお元気ですねえ」
雑貨屋のかみさんも相手が大金持ちだからやけに愛想がいい。
「はい、はい、おかげさまで」
「チャコちゃんもいいご機嫌ね」
畜生にまでお世辞を使っている。猫のやつは、薄目をあけてジロリと雑貨屋を睨んでいたぜ。
「でも、このごろ、チャコは寝不足なのよ。ね、そうでしょう」
へえー、猫の寝不足なんてあるのかな、年中眠っているくせに。
「あら、そうなんですか」
「裏で工事をやっているでしょ。ガス工事かしら。�うるさくて眠れない�って、こぼしていますのよ」
オレは首を傾げたね。だれがいったい「うるさくて眠れない」ってこぼしているんだろう?
雑貨屋のかみさんは、さして不思議そうな顔もしないで、
「あら、あら。それはかわいそうね。でも、あの工事は今月でおしまいよ。あと四日の辛抱ですから許してやってくださいね」
と猫に話しかける。
屋敷のばあさんも、胸に抱いた猫にむかって、
「あと四日ですってサ。我慢しなさいね」
とたんに猫のやつ、
「ニャーン」
と鳴きやがった。
「�仕方ない�って言ってますわ」
「本当に奥様は猫の言葉がよくおわかりになるから」
ガムを買いに来た子どもが、
「おばちゃん、本当に猫の言葉がわかるの?」
目をくりくりさせてたじゃないか。教育上よくないよ。
「ええ。自分の子どもと同じようにかわいがっているから、自然と猫語がわかるようになるのよ」
「そうでしょうとも。本当に奥様はチャコちゃんをかわいがっていらっしゃるから」
屋敷のばあさんは、猫とそっくりの顔をして目を細くしていたね。どうでもいいことだけど、動物を飼っている奴って、どうしてその動物と同じ顔つきになるのかな。
まあ、いいさ。こっちとしては、ばあさんが猫をかわいがっていればかわいがっているほど好都合なんだから。
ここまで話せば、オレの計画もだいたい見当がつくだろうな。
そうよ、その通り。
人間の子どもを誘拐するとなると、話が大袈裟でいけないよ。自動車でも持っていないと、なかなかむつかしいしな。
さっきも言ったろ。人質を殺してしまうのは、オレの趣味じゃないんだ。アパートに子どもを軟禁しておいて「助けて」なんて叫ばれたらことだからなあ。その点、猫ならどうとでもなる。たとえ人質を……いや猫質って言うのかな、これは。そいつを殺したところで殺人犯にはならないですむ。警察だって猫の誘拐事件じゃ本気で取りあってくれないぜ。こりゃ間違いないね。いくら大金持ちの家の猫だって……。
しかし、ばあさんにとってはわが子と同じくらい大切なペットなんだからな。こいつがさらわれたとなれば、ただじゃあすまないね。
な、なかなかうまい計画だろ。これ、オレの発案だからね。無断転用を禁ず。このアイデアをほかで利用するときには、ちゃんとアイデア料を支払ってほしいね。
ばあさんの家の電話番号は、もちろんあらかじめ調べておいた。
あとは猫を誘拐するだけ。
バスケットをばあさんの家の近くの木陰に隠し、ジョギングをするようなふりをして様子をうかがっていたら、早くもチャンス到来。神様がオレの味方についているねえ。日ごろの心がけよ。もう最初の日からチャコ様がお屋敷の門柱の上で日射しを受けて眠っている。
付近に人目のないのを確かめて、
「こら、チャコ、チャコ」
と、猫なで声をかければ、チラリと胡散《うさん》くさそうな顔でこっちを見たけれど、なにせつね日ごろからかわいがられているから人見知りをしないね。育ちのよさだ。その点、野良猫なんてやつは猜疑心《さいぎしん》が強いからいけないよ。
手を伸ばすと、敵もさすがに不穏な気配を感じて逃げようとしたが、こっちは逃がしてなるものか、うまいぐあいに片足つかんで引きおろした。
とたんに猫はさかさに吊りさがり、
「シャーッ」
歯をむいて爪を立てるのを、グイと胴体をつかんで抱きしめ、うん、軍手をはめておいてよかったぜ。猫のやつ、爪が手袋の糸にからんで反抗もできない。そのすきに横抱きにしたまま小走りに木陰に行き、かねて用意のバスケットに押し込んだ。あとはさりげなく現場を立ち去るだけ。
猫のやつ、中であばれていたけど、都合のいいことに鳴き声をあげたりはしなかったぜ。
めでたく猫質をとらえたのが午後五時二十分。はや日も沈みかけ、今日の日程はこれにて終了。猫をアパートの押入れに隠し、翌日の朝まで待った。さぞかしあのばあさんは気を揉んでいるだろう。
——待てよ、猫はさかりがつけば夜通し帰らないこともあるか——
それほど心配していないかな。いずれにせよ電話をかけ「誘拐したぞ」と告げれば、びっくり仰天。あとはこっちの意のままだ。
翌朝はみごとに晴れあがり、まことに幸先《さいさき》がいい感じ。午前九時、銀行の開く時間を待って、第一回目の電話をかけた。
ジィージャー、ジィージャー、公衆電話のダイヤルをまわし、ばあさんの声が、
「もし、もし」
と聞こえたところで、
「猫が帰らないだろ。オレが誘拐したんだ。身代金は……」
一千万円と言うつもりだったが、とっさに猫の身代金としてはチョイト高過ぎると思った。五百万……。いや、三百万……二百万くらいかな。なんだか弱気になってしまって、
「百万円だぞ。すぐに用意しろ。警察になんか言ったら承知しないぞ。猫くらい殺すの、わけないからな、第一、警察になんか言ったところで猫の誘拐事件なんかまじめに取り扱ってくれないぞ。やめておくんだな。さ、百万円用意しろ。いやなら猫はお陀仏だ」
と、すごんでやった。
なさけないことに、すごんでいるはずなのに膝がガクガク震えちまった。オレ、なれていないからなあ、こういう仕事。
「チャコを殺さないで。お願い……」
よし、よし、むこうはたちまち泣き声になったぞ。ばあさんはすぐに事情を察したらしい。ものわかりのいい人だ。
「金を用意さえすれば、殺しやしねえさ。警察になんか言うなよ。どの道相手にされないぜ。そんなことしたら猫はあの世行きだからな」
「チャコの声を聞かせて」
「今はここにいねえよ。大丈夫、まだ生きてるってば。さ、銀行に行って金を用意しな」
「百万円なら銀行に行かなくてもここにあります」
くそっ! やっぱり五百万円くらい要求するべきだったかなあ。われながら考えることがせこくてなさけない。しかし、今さら金額をつりあげるわけにもいかないし……。
「じゃあ、百万円を封筒に入れ風呂敷で包め。今すぐ目黒駅前の�富士�という喫茶店へ行け。そこで待ってろ。いいか、見張りはチャンとつけてあるんだからな。警察に言うなよ、ほかのだれかに話したら猫はキュッだぞ。あんたひとりで駅前の�富士�へ行け」
「だれにも言いません。チャコは殺さないで」
「わかったよ。命令通りにすれば殺しやしない。いいか、百万円を包んで、すぐ駅前の�富士�へ行け」
「目黒駅前の�富士�ですね。すぐにわかりますか」
「改札の駅員にでも聞け」
「はい、はい」
「だれにも言うなよ」
「絶対言いません」
オレはすぐにアパートを出て五反田の公園に向かった。ここには頭の少し弱い浮浪者がいつもボンヤリとすわっている。これも充分下調べをしておいたことだ。
この男はあんパンが大好きで、
「あんパンを買ってやるぞ」
と言えば、どんな仕事でもする。
こいつに身代金を取りに行かせる計画……。
喫茶店に電話をかけ、ばあさんを呼び出し、目黒駅前のポストのところに来るように命じた。
浮浪者のおっさんには、
「いいか。あんパンを買ってやるから、目黒駅前のポストのところへ行って、おばあさんから風呂敷包みをもらって、ここへ戻って来い」
と命じた。
頭の弱い男だが、このくらいの用はなんとかたせる。
「うん。わかった」
ふらふらと歩いて行くのを見え隠れに尾行して……そう、そう、そこのポスト、そこに立っているばあさんだ。うん、風呂敷包みをもらって早く戻って来い。道草なんかするなよ。なにをよそ見しているんだ、山手線の電話なんか今さらめずらしくもないだろ。見物してることなんかないぜ。急げ。そう、そう、あんパンが待っているんだから。
まさか警察が尾行しているんじゃあるまいな。うまいぐあいに公園には子づれのじいさんがいるだけ……。あいつは刑事じゃないね。あやしい人影は見当たらない。
——もう五分だけ待ってみようか——
あのばあさん、オレの命令を忠実に守ったらしいぜ。警察には言わなかったな。それが賢明ってもんだぜ。あの世まで金を持って行けるわけじゃなし。施設に寄付する金が百万円やそこら減ったって、どうってことないもんな。それで、かわいい猫ちゃんの命が助かるなら�御の字�じゃないか。
——しかし、百万円は安過ぎたかなあ——
五百万円だってスンナリ出してくれたかもしれないなあ。ほとぼりのさめるのを待ってもう一回やるか。しかし、ばあさんも今度は用心して猫を外に出したりしないだろうな。
——さて、警官も現れないようだし——
まずは目先の百万円をしっかり手に入れることが先決だね。
「やあ、どうもご苦労さん、お礼のあんパン買っておいたぜ」
あんパンを渡し風呂敷包みを受け取り、そのまま足早に公園を出て、あとは一目散に走ったね。
三十メートルほど走ってうしろを振り返ったがだれも追いかけて来ない。狭い路地を抜け大通りに出てタクシーを拾った。
風呂敷をあけ、中の封筒を確かめれば、あるぞ、あるぞ。わが親愛なる一万円札が百枚。
——こんなに簡単に成功するんだったら、もっとふっかければよかったなあ——
またしても同じ後悔が胸に脹んで来る。
——まあ、仕方ないさ——
欲張るとろくなことがないからな。
アパートへ帰ったところで、もちろん押入れの中の猫をバスケットに移し、目黒駅の近くまで連れてって逃がしてやった。
約束はチャンと守らなきゃ。オレ、小学生時代、道徳はいつも5だったんだ。犬と違って猫はチャンと家まで帰れるのかな。はぐれちまったらかわいそうだが、まさか家の前まで連れて行くわけにはいかないからな。
猫のやつ、オレの手を離れた瞬間、横断歩道を走り抜け、ちょいとこっちを睨んでいたが、それからは自信ありげな足取りで逃げて行った。
あのぶんならなんとか帰り着くだろう。やれやれ、これにて一件落着。
思いがけず手に入れた百万円。金額に多少不足はあるけれど、初仕事としては上出来だろう。いい手触りだねえ。いい匂いだねえ。
ばあさんはやっぱり警察になんの報告もしなかったね。新聞のどこを捜しても猫が人質に取られた誘拐事件の記事は載っていない。
われながらすばらしいアイデアだったぜ。犯罪ってものは、このくらいみごとにやらなくっちゃあ。アルセーヌ・ルパン、怪人二十面相。要は頭の使いようさ。考えれば考えるほど、みごとだもんね。胸がスーッとするよ。
ばあさんは今ごろ猫が帰って来て大喜びしているだろう。たまには刺激があったほうがいいんだ。猫が一層かわいくなるからな。金のことだって何億円も持っているんだから百万円くらい目じゃないよなあ。こっちもだれかを殺したり傷つけたりしたってわけじゃない。犯罪としては、理想的な犯罪。文部省推薦。道徳教育のたしになるような犯罪だね。まったく。
——さて、使い道だが——
二十万円ほどを借金の返済に使い、あとは少しずつ大事に使おう。無駄使いはいけないよ。
「今夜は新宿のキャバレーにでも行くかな」
三日たって、今日はどこへ遊びに行こうかと思って玄関を出ると、急に変な男がオレのそばに寄って来た。
——なんだ——
と思う間もなく腕を取られ、黒い手帳を見せられた。
——や、や、警察手帳——
逃げようとしたがもう遅い。
パトカーに乗せられ、そのまま警察へ連行。どう考えてみてもわからない。
——どうしてオレのアパートがわかったんだ——
どこにも手ぬかりがなかったはずなのに……。オレは留置場であれこれと、思案をめぐらしたが、どうしてもわからない。
——なんで見つかったのか——
なにもかも白状させられたあとで刑事に尋ねてみた。
「どうしてアパートがわかったんですか」
刑事がニヤニヤ笑いながら答えたんだ。
「簡単なことだよ」
驚いたなあ。本当かなあ。とても信じられないんだよなあ。
「猫が話したんだ。あそこの奥さんは猫語がすっかりわかるらしいぜ」