私の仕事場の片隅にドイツ製のミニ・キッチンが置いてある。
蛇口にシンク、ホット・プレートに冷蔵庫……。ある日、気がつくと、この冷蔵庫の製氷室に氷が一センチくらいの厚さで張りつめていた。
——どうも冷えないと思ったら——
電源を切って霜取りにかかった。
ポタン、ポタン、ポターン。
なにしろカチカチに凍っているから簡単には溶けない。私は眺めているうちに苛《いら》立《だ》ちを覚え、ドライバーと金づちを持って来た。
全部が溶けるまでには、まだまだたっぷりと時間がかかりそうだ。べつに急がなければいけない事情はなにもなかったけれど、私にはせっかちのところがある。手がけた仕事は少しでも早くすませたい。ポタポタ溶けるのを待つなんて趣味にあわない。氷を砕いて塊のまま取り除けば、すぐに製氷室はきれいになるだろう。
氷の層にドライバーの先を当て、金づちで叩《たた》いた。
トン、トン……パリン。
氷が割れて、細長い塊が剥《は》げた。
これだけの氷がすっかり溶けるまでには三十分はかかるだろう。もう一度叩くと、
パリン。
さらに三十分の節約となる。
明日の朝まで放っておけば自然に溶けてしまうものを、どうにも待ちきれない。へばりついている氷がサクリと剥げるときは生理的にもちょっと心地よい。
シューッ。
急にガスの漏れる音が聞こえた。
——いかん——
そう思ったが、もう遅い。
私は冷蔵庫がなぜ冷えるか、理屈をうまく説明できないけれど、とにかく冷却にガスが関係していることだけは知っている。
その大切なガスを……ガス管をドライバーで突ついてガスを漏らしてしまったらしい。電源を入れてみたが、もう冷蔵庫は冷えてくれない。遅ればせながら中を調べてみると〓“冷却プレートを錐《きり》やナイフで突つかないでください〓”と、ちゃんと書いてある。やってはいけないことをやってしまい、その通りの失敗をやらかしてしまった。
ミニ・キッチンの販売代理店を捜して電話をかけると、
「どうにもなりませんね。冷蔵庫を取り換えないと」
という返事である。
多分そうだろうと覚悟していた。冷蔵庫というものは、冷えてくれなければ不細工な箱でしかない。せいぜい子どもを殺すのに役立つくらいのものである。転用はむつかしい。
「結構です。すぐに入れ換えてください」
と頼んだ。
おのれの失敗の痕《こん》跡《せき》を長く見詰めているのは、つらい。
代理店の店員はすぐに駈《か》けつけて来てくれた。
「おいくら?」
作業がすんだところでおそるおそる尋ねた。安いはずはあるまい。冷蔵庫を一つ買ったのと変らない。
「古いのを下取りさせていただきますが……八万円です」
「えっ、八万円」
しみじみ惜しいと思った。
八万円あったらなにができるだろう——
とびきり豪華な食事。温泉旅行。スーツも買えるだろうし……。
——ドライバーなんかで突つかなければよかった——
なにも一刻を争って氷を削り取る必要なんかなかったのである。
大学を出て間もない頃、親しい友人のS君が風呂場のガス事故で死んだ。一酸化炭素中毒であった。
浴室の窓は細く開いていたし、バーナーの火も全部は消えていなかった。つまり一酸化炭素の密度はそれほど濃くはなかっただろう。
S君はゆっくりと、長い時間をかけて有毒のガスを吸ったらしい。
——湯船で居眠りをしたな——
これが私の推測である。
普段から居眠り癖のある男だった。徹夜麻《マー》雀《ジヤン》なんかをやると、ゲームの最中にいちいち起こさなくてはいけない。こっちのほうが疲れてしまう。湯船でもよく眠っていたし……。そんな癖が命取りになったのではあるまいか。
私はさほど神経質なほうではないけれど、眠りに関しては、いつでも、どこでもというわけにはいかない。湯船の中で眠るなんて、とんでもない。同じ情況に置かれたとしても、私は死ななかったろう。いつまでもそんな思いが私の中に残った。
事故が起きるときには、いろいろな偶然が重なるものだが、それにたずさわった人の性格や癖も微妙に関係する。私でなかったならば、冷蔵庫の製氷室をドライバーで突ついたりはしなかっただろう。S君でなかったならば、風呂場で死ななくてすんだかもしれない。
私には、もう一つ、かなり顕著な癖がある。つまり、その、断るのが下手なこと。熱心に誘われると、
——せっかくあんなに誘ってくれるんだから——
と、多少気の進まないことでも従ってしまう。他人の好意や申し出をむげには断りきれない。相手の気持ちをおもんぱかり、邪《じや》慳《けん》になれない気の弱さがある。
それほどわるい癖ではあるまいけれど、致命的な結果を招くこともあるだろう。
たとえば川むこうに美しいお花畑がある。きれいな女の人がしきりに私を呼んでいる。手招きをしている。
美しい人に誘われると、つい、つい行ってみたくなるのも私の癖の一つである。
——あんなに一生懸命呼んでくれているんだから——
私はふらふらと川を渡って、むこう岸へ行ってしまうにちがいない。
聞くところによれば、人は死のまぎわにそんな夢を見るらしい。むこう岸に渡ったら、それでおしまい。
そうと知りながらも、私は、
——せっかくだからなあ——
と、渡ってしまいそうな気がしてならない。
癖というものは自分で知っていてもなかなか直せない。それが微妙に運命とかかわることがあるようだ。