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三角のあたま18

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:待ちつ焦がれつ 初めて小倉百人一首を知ったのは、小学六年生、敗戦後のなにもない時代だった。 今の子どもたちは、あんな刺激
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待ちつ焦がれつ
 
 
 
 初めて小倉百人一首を知ったのは、小学六年生、敗戦後のなにもない時代だった。
 
 今の子どもたちは、あんな刺激の薄い、とろいゲームなんて、
 
「どこがおもしろいの」
 
 と首を傾《かし》げるだろうけれど、防空壕の中でうずくまっているより、ずっとましだった。雅《みや》びなところもあって、私には興味深かった。
 
 最初に覚えた札は、小《こ》式《しき》部《ぶの》内《ない》侍《し》の、
 
 
 大江山いく野の道の遠ければ
 
 まだふみも見ず天の橋立
 
 
 だったろう。初心者むきの歌である。この作者のお母さんが歌の名人で(つまり和泉《いずみ》式《しき》部《ぶ》である)そのお母さんが旅に出た留守中に小式部内侍は、歌をよまなければいけなくなった。「歌は大丈夫ですか。お母さんから助け舟の手紙はつきましたか」と先輩にからかわれ、それではとさし出したのが、この歌だったとか。そんなエピソードも一緒に聞かされた。
 
 次が阿《あ》倍《べ》仲麻呂。
 
 
 あまの原ふりさけ見れば春《かす》日《が》なる
 
 三《み》笠《かさ》の山にいでし月かも
 と、遣唐使の勉強をすれば、たいていこの歌は引きあいに出される。
 
 これとほとんどあい前後して記憶したのが、
 
 
 ちはやぶる神代もきかず龍田川
 
 からくれなゐに水くくるとは
 
 
 その頃の私は落語全集を愛読しており、この歌はもう、そのほうでは大変有名な歌。本当の歌の意味を知ったのはずっとあとのことで、先に覚えたのは落語のご隠居さんが垂れた珍解釈のほう。相撲とりの竜田川が千早おいらんにふられ、妹分の神代もきかず、田舎へ帰って豆腐屋を開くというお話。くわしくは落語のほうを聞いていただきたい。こじつけの解釈ながら、これはかなりよくできている。落語のほうでは、このほか、
 つくばねの峰より落つるみなの川
 
 こひぞつもりて淵となりぬる
 
 憂かりける人をはつせの山おろしよ
 
 はげしかれとは祈らぬものを
 
 
 なども珍解釈があって、これもいち早く覚えた。
 
 六年生で十首くらい、中学一年生で三十首くらい、二年生の頃にはほとんどすべてをそらんじて一応のかるた取りになっていた。
 
 百首を知ったところで、得意札にもなり好きな歌でもあったのが藤原定家の一首。
 
 
 こぬ人をまつほの浦の夕なぎに
 
 焼くや藻塩の身もこがれつつ
 
 
 であった。調子もよいし、待つ身のジリジリとしたせつなさがよく伝わって来る。私自身はむしろ奥手の少年で、初恋などにはとんと縁がなかったけれど〓“待つ〓”ということには、なぜか強い関心があったような気がしてならない。
 
 芥川龍之介の〓“尾《び》生《せい》の信《しん》〓”を読んだのも同じ頃だったろう。
 
 尾生という名の男が、橋の下で女を待って待って待ち続けて、そのうちに川の水かさが増して来て、溺《おぼ》れ死んでしまう故事である。
 
 芥川はその故事を流麗な文章で綴《つづ》ったあとで、こう結んでいる。
 
〓“それから幾千年かを隔てた後、この魂(尾生の魂)は無数の流転を閲《けみ》して、又生を人《じん》間《かん》に託さなければならなくなつた。それがかう云ふ私に宿つてゐる魂なのである。だから私は現代に生れはしたが、何一つ意味のある仕事が出来ない。昼も夜も漫然と夢みがちな生活を送りながら、唯《ただ》、何か来るべき不可思議なものばかりを待つてゐる。丁度あの尾生が薄暮の橋の下で、永久に来ない恋人を何《い》時《つ》までも待ち暮したやうに〓”
 
 子ども心にもなんとなく理解できた。けっして来ないはずのものをずっと待ち続けている、人生にはそんな部分がきっとあるにちがいないと……。そして私もまた尾生の生まれかわりではないかと思った。
 
 まったくの話、私は人を待つことがそれほど厭《いや》ではない。待っているときのイマジネーションを楽しむようなところがなくもない。
 
 
 
 大学に入り、ベケットの戯曲〓“ゴドーを待ちながら〓”を読んだ。二人の浮浪者がゴドーを待っている。ゴドーがどういう男で、ゴドーが来るとどうなるのか、なにもわからない。なのに二人は待ち続けている。結局ゴドーはやって来ない。前衛劇の代表的な作品、かな。私にはそれなりに理解のできるドラマだった。
 
 
 
 話は変るが、フランス語の鷲《わし》尾《お》猛教授は一家言の持ち主で、この先生の授業では〓“ esp屍er〓”という語をかならず〓“期待する〓”と訳さなければいけない。まちがっても〓“希望する〓”と訳してはいけない。この語の名詞形〓“エスポワール〓”は時折日本語でも使われているが、これは〓“希望〓”と訳されるのではあるまいか。
 
 鷲尾教授によれば、
 
「いいですか。〓“期待する〓”というのは、文字通り期して待つこと、です。待つだけの根拠があって、それで待っていることなんですね。その点〓“希望する〓”は、ぼんやりと待ち望んでいる。そうなるかどうかわからないのに、根拠もないのに勝手に望んでいるわけなんですね。フランス語の〓“ esp屍er〓”は、根拠があって望み待つこと。だから〓“期待する〓”と訳さなくてはいけないのです」
 
 ということであった。
 
 なにしろフランス語学の大家の言だから、きっと〓“ esp屍er〓”は、そういう意味内容なのだろう。日本語の〓“期待する〓”と〓“希望する〓”のあいだに、それほど厳密な差異があるかどうか、多少の疑念はあるけれど、字づらを見ればそんな気もする。
 
 なにはともあれ、私はこのとき、〓“待ち望む〓”ということにも、二つの種類があることを知った。ちゃんと勉強をして大学受験にパスする日を待ち望むのは、〓“ esp屍er〓”のほうである。宝くじで借金を返そうなどと考えるのは〓“ esp屍er〓”ではあるまい。定家は、尾生は、ベケットの主人公たちは、どちらだったのか。
 
 
 
 久しぶりに小倉百人一首を取り出して一つ一つ読んでみた。ほとんど意味を知っているつもりでいたが、わからない歌もいくつかある。本箱から解釈の本を取り出して、あらためて不明な部分を勉強しなおしてみた。
 
 定家の歌にも目が止まった。
 
 定家その人の体験ではなく〓“こがれる思いで男を待つ女の立場をうたった歌である〓”と書いてある。
 
 ——へえー、主人公は女だったのか——
 
 この歌は漁村の少女の恋に託して歌ったものらしい。昇華されたイメージの歌であったらしい。
 
 そのあたりに定家の歌人としての特徴があったと……四十年ぶりに少し利口になった。
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