このところ毎年、大《おお》晦《みそ》日《か》の朝早く墓参りに出かけている。墓は東京の郊外、小平市にあって、私の両親が眠っている。
父の死が昭和二十六年、母の死が昭和三十三年、どちらもすっかり遠い昔の出来事になってしまった。私の子どもたちはもちろんのこと妻も私の両親を知らない。知らない人の墓について関心が薄いのも当然だろう。私自身でさえ、いそがしさのせいもあって昨今はなかなか墓参りには行けなくなってしまった。
——今年は行かなかったなあ、お彼岸のときも——
そこでぎりぎり押し迫った大晦日に出かけて行くわけである。
私はどちらかと言えば〓“人間死んだらゴミになる〓”のほう、霊魂の存在を根元的には信じていないけれど、自分の心の中の肉親を消すことはできない。むしろ自分のために墓参りに行くと言ってよいだろう。
だから一人で行く。
だれか家族の者が「一緒に行く」と言えばもちろん喜んで連れて行くけれど、たいていは朝五時頃に目をさまし、
——よし、行くぞ——
ガバリと起きて、このときばかりは滅多に着ない股《もも》引《ひ》きをはいて出かける。日の出前。とにかく寒い。そして家族の朝食の頃までには帰って来るスケジュール。乗客がまばらの電車の中で飲むカン・コーヒーが温かい。
冬の朝の墓地は凍りついていて、水道の水も出ない。墓の掃除をしようにも、花も草も落ち葉もみんな大地にこびりついて、なま半可の手段では、はがれるものではない。
ほとんどだれもいない。無気味と言えばかなり無気味である。
——まあ、なんとか元気でやってます——
墓の前で手をあわせ、そのくらいの報告を心の中で呟《つぶや》く。
霊魂の存在をほとんど信じていないくせに、私は心のどこかに極楽と地獄の思想を持っている。子どもの頃にさんざんその手の話を聞かされたせいだろうか。このごろの若い人は、ああいう思想から完全に解き放たれているのだろうか。
この世でよいことをやった人はあの世でよいめにあう。わるいことをした人は当然その報いがある……ちょっとちがうな。私の場合はキリスト教の最後の審判や、なんでも採点をして位置づけを決める趣味もまじっているようだ。
つまり、百点から零点までこの世の所業により死者はあの世で審判を受ける。なにを善とし、なにを悪とするか。キリスト教の最後の審判では、当然キリスト教の倫理によって裁かれるのだろうけれど、私の場合はそれではない。なにがよくて、なにがわるいか、それはキリスト教でも仏教でも回教でも神道でもなく、あらゆる宗教、あらゆる哲学を超えた絶対者が判断すること……。それができるからこそ絶対者なのであり、その絶対者の心のうちなど、私たちが知るよしもない。
しかし、よいことはよい、わるいことはわるい……屁《へ》理《り》屈《くつ》を言わず、素朴に考えればわかる程度のもの、絶対者の考えもそのあたりだろう、と私は思っている。余人はいざ知らず自分で自分の位置づけくらいはできるような気がする。
私は七十点くらいのところには入るのではあるまいか。七十五点かもしれない。
あははは、少し甘いかな。案外四十点くらいだったりして……。
織田信長はどのくらいの位置にいるのだろうか。田中角栄さんなんてかたは、このままだとどのへんが予定されているのか。いろいろ思いめぐらして、あの人はあのへん、この人はこのへん、私の頭の中に大勢の人が上から下へと繋《つなが》っている情景が浮かぶ。
「死んだら、とにかく上を見ろ。俺がいるから」
と私はいつも妻に言っている。
「なーに?」
「俺が先に死んでいて、あとからあんたが来たら〓“あれは私の妻です。もう少し上に引きあげてやってください〓”神様にお願いして上から手を伸ばしググイと引きあげてやるから」
「馬鹿なこと言わないでよ。私のほうがずっと上にきまっているじゃない。あなたなんかはるか下だから、私、見えないんじゃないかしら」
まことにたあいのない話を交わしている。極楽と地獄の思想と言っても、私の場合はこの程度のものだ。
幽霊の存在についても、私はまるっきり否定をしているわけではないけれど、確実に言えることは、幽霊になるのはとてもむつかしい。幽霊が存在するとしても凡夫が簡単にそれになれるものではない、ということである。考えてもみよう。この世に恨みを残して死んだ人なんていくらでもいる。みんながなにかしら断腸の思いをこの世に残して死んでいる。
そのわりには幽霊の数が少ないではないか。察するに、死者は、
「私は幽霊になりたいんですが」
と申請を起こさなければいけない。
「どういう恨みがあるんですか」
「えーと、無実の罪で死刑になりました」
「なるほど」
審査がおこなわれ、なにかしら試験のようなものが課せられるのかもしれない。東大受験よりも、司法試験よりも、芥川賞直木賞を取るよりも、オリンピックで金メダルをもらうよりも、ノーベル賞よりもむつかしい。恨みを抱いて死んだであろう人の数と、幽霊を見たという件数とを比べると、どうしてもそうなってしまう。文字通りこの世のものとも思えぬむつかしさ。
——私なんかとても幽霊にはなれないなあ——
と、この世にいるうちからあきらめている由縁である。
大晦日の二十四時間が過ぎれば元旦。ここ数年、私はどこにも行かない。東京で、家で、ゴロゴロしている。普段は日中から酒を飲んだりしないのだが、正月の三ガ日は朝から飲む。
またたくまに松が取れ、いつもと変らない一年が始まる。
成人式の頃には、
「今年もはや残すところ、十一カ月と少し」
と言うのだが、このジョークは通じにくい。
本当に年のたつのは早い。新しい年も、はや残すところ十カ月、九カ月、八カ月……三カ月、二カ月、一カ月……となって、一年がすぐ終るだろう。皆さんの一年がなべて幸福でありますように。