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三角のあたま27

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:小泉八雲など 新聞を読んでいたら、一九九〇年はラフカディオ・ハーンが松江に来てちょうど百年。それを記念して松江市が小泉八
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 小泉八雲など
 
 
 
 新聞を読んでいたら、一九九〇年はラフカディオ・ハーンが松江に来てちょうど百年。それを記念して松江市が小泉八雲文学賞を創設すると書いてあった。
 
 私は松江に二度行ったことがある。しっとりとした様子の、家並みの美しい町であった。
 
 関東から訪ねると、松江は黒松が多いので、それだけで落ち着きがある。陰気と言えば少し陰気だが、けばけばしさを殺して、私はむしろ好きである。そんな家並みの中に小泉八雲記念館がこぢんまりと建っているのも、つきづきしい。
 
 ——また行ってみようかな——
 
 思い出してはそんな気を起こす町の一つである。
 
 
 
 そして、また、小泉八雲も私が愛読した作家の一人である。
 
 と言っても、八雲の日本研究のたぐいはほとんど読んでいない。読んだのは、もっぱらお化けの話。〓“怪談〓”や〓“奇談〓”に収められている作品が圧倒的に多い。
 
 翻訳文で読み、英文で読み、二、三度くり返して読んだ作品も少なくない。おかげですっかり影響を受けてしまった。
 
 怪奇幻想の説話に関心があるのは、かならずしも八雲のせいではあるまいけれど、
 
 ——怖い話は淡々と語ったほうが、かえって効果的なんだな——
 
 と、これは明らかに八雲の作品を読んで知ったことだったろう。
 
 それ以前は……たとえば夏の夕涼みのときなどに大人が聞かせてくれる怪談は、どれもみんなおどろおどろしく、思わせぶりで、大げさで、突然、
 
「出たーッ」
 
 などと大声が入ったりして、怖いことは怖かったが、しみじみとした味わいを伝えるものではなかった。
 
 八雲は静かに語り読者の想像力に訴え、けっして故意に怖がらせようとはしない。しかも描写は簡素で的確で、美しい。怪談を文学にまで高めたのは、八雲だけとは言わないが、八雲の功績として高く評価されてよいだろう。
 
 二度、三度と同じ作品を読んでいるうちに、
 
 ——読者の息遣いを計るのがうまいんだなあ——
 
 と気がついた。
 
 小説を読むとき、読者は、登場人物の心理や筋の運びについて、いろいろ想像をめぐらしている。
 
 ——この女は、もしかしたらわるい人かもしれないぞ——
 
 とか、あるいは、
 
 ——この話は、きっとこうなるな——
 
 などと。予測が的中しすぎては、意外性がとぼしくて、おもしろくない。さりとて、あまり当たらないと、
 
 ——ちょっと辻《つじ》褄《つま》があわないのとちがうか——
 
 と納得できない。
 
 それが読者の息遣いである。
 
 言ってみれば、作者と読者は勝負をするように作品をあいだに挟んで対《たい》峙《じ》している。作者は読者の呼吸を計り、ほどよいペースで話を進めなくてはいけない。くどすぎてはいけない。さりとて説明不足もいけない。小泉八雲は、そのあたりの判断がすこぶる巧みな書き手であった。私はそう信じている。
 
 
 
 一例をあげれば〓“雪おんな〓”の中の一節……。
 
 有名な物語だからほとんどの人が粗筋を知っているだろう。吹雪《ふぶき》のため村に帰れなくなった木こりの茂作と巳之吉は、渡し守の小屋で一夜を過ごす。夜中に白い女が現われ、茂作に息を吹きかけて殺す。女は巳之吉の上にも覆いかぶさって来るが、巳之吉の顔を見て、
 
「お前もあの人と同じような目にあわせてやろうと思ったんだが、なんだかかわいそうになってきてね。お前はまだ若いし美しいもの。でも、このことをだれかに話しちゃあいけないよ。もし話したりしたら、そのときは、お前を殺すから」
 
 そう告げて立ち去る。
 
 それから一年ほどたって、巳之吉は、仕事から帰る道すがら旅の娘と知りあう。お雪という名前……。お雪は江戸に行くと言ったが、巳之吉に誘われて彼の家に立ち寄り、巳之吉の母にも気に入られ、一日、二日と出発を延ばす。
 
 そこで小泉八雲は書いているのである。
 
〓“当然の成行きとして、お雪は江戸へは行かなかった〓”と……。英文も、まあ、そんな意味ですね。
 
 些《さ》細《さい》なことだが、私はこの一行に感服した。
 
 読者はもうお雪が何者か知っている。下手な思わせぶりが通用するはずもない。吹雪の夜、雪女は美少年に一《ひと》目《め》惚《ぼ》れをし、姿を変え、お雪と名のって巳之吉のところへ会いに来たのだ。言っちゃあわるいが、みえみえである。そうである以上、お雪が江戸へ行くはずもない。
 
 小泉八雲は淡々と物語を進めながら鋭く読者の呼吸を計り、さりげなくその呼吸にあわせる。ここでは〓“当然の成行きとして〓”という表現を使って。そのこころは、
 
「そうですよ。あなたもお気づきでしょうけれど」
 
 であろう。読者はこのひとことで安心する。
 
 
 
 小泉八雲は英文で書いたのであり、その文章を語るのに翻訳文であれこれ言うのは正当なことではあるまい。
 
 それは私も充分承知しているのだが、八雲の文章のよさは、翻訳されても長所がちゃんと残るような、そういう部分がすぐれているようにも思われる。文章を綴《つづ》っていく論理の運びが的確で美しいのではあるまいか。
 
 そして私が読んだいくつかの翻訳もそれぞれわるくなかった。よい文章であった。
 
〓“翻訳のような文章〓”というのは、おそらく、ぎくしゃくとした、わかりにくい、わるい文章のことだろう。
 
 だが、よい翻訳文はけっしてそうではない。
 
 原文のほうに多少わかりにくいところがあったり、あるいはほかの言語に置き替えにくい部分があったりしても、翻訳者が咀《そ》嚼《しやく》し自分の論理でもう一度組み立てなおしたもの、それがよい翻訳というものだろう。
 
 だから、それがよい訳文であるならば、著者の論理を翻訳者が噛《か》みくだき、もう一度組み立てなおしているぶんだけ、かえってわかりやすい。〓“翻訳文のような文章〓”は、よい翻訳文を対象として言えば、むしろわかりやすい、親切な文章のはずである。
 
 私は、わかりやすい文章の手本を、八雲と八雲の翻訳者から得たように思う。
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