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霧のレクイエム01

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:病《わくら》 葉《ば》 洋子は夜半すぎに目をさまし、カーテンを細く開けて窓の外を見た。東京にはめずらしく濃い霧が白くたち
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 病《わくら》 葉《ば》
 
 
 洋子は夜半すぎに目をさまし、カーテンを細く開けて窓の外を見た。東京にはめずらしく濃い霧が白くたちこめている。街灯がぼんやりと光の輪を広げていた。まるで絵本の挿《さ》し絵みたいな風景……。
「霧が好き」
 パジャマの襟をあわせながらつぶやいた。
 塀のかげにだれかが立っている……。
 はっきりとは姿が見えない。見まちがいかしら。人間ではないのかもしれない。たとえば木の影。霧の夜にはそんな不確かなイメージがあって好ましい。
 それがそのまま夢の中に移った。
 仁科《にしな》洋子。三十一歳。井《い》の頭《かしら》公園に近いマンションに一人で暮らしている。新築の2LDK。リビングルームが広めに作られている。中間色を使った内装が美しい。
 このマンションを入手したのは、ほんの二週間前。ひとめ見たときから気に入ったが、住んでみてますます好きになった。間取りも、外の景色も、押入れの造りまでもが洋子の趣味に適《かな》っている。住居と住む人のあいだにも相性がある。なんによらず洋子は、相性のようなものを信ずるほうだった。好きなものは初めから好き。厭《いや》なものは初めから厭。嫌いなものが少しずつ好きになったりはしない。好きなものがだんだん嫌いになることも少ない。
 ——一生ここに住もう——
 両親はすでにないし、あまり親しくもない兄が仙台にいるだけだ。マンションに何日か住んでみて、そのことを堅く心に決めた。
 新しく購入したセミダブルのベッドも、ほどよい堅さでここちよい。夢の中にも霧がたちこめていた。まっ白い、ねばりつくような濃い霧……。そのむこうに黒い人影が立っている。
 ——だれかしら——
 右腕を伸ばし、指をピストルの形にしてその人影を撃《う》った。
 轟音《ごうおん》が響き、音が霧に吸いこまれていくのがわかった。肩に激しい衝撃を感じた。黒い影がゆっくりと倒れた。
 黒いコートの男だと思ったが、その実、大きな鼠《ねずみ》らしい。いや、やっぱり人間なのかもしれない。
 目を開けると、右腕のあちこちに奇妙な現実感が感じられる。毛布から手を出してピストルの形を作ってみた。天井の片すみを狙った。
「バーン」
 子どもみたいに声をあげて叫んでみた。
 ピストルなんて撃ったことはもちろん、実物を見たこともない。ゆっくりと記憶をたどってみた。
 ——でも本当にそうなのかしら——
 仁科洋子はベッドの中で指をピストルの形に保ったまま首を傾げた。不思議なほどちかしい感触が、体の中に潜んでいる。それがかすかに感じられる。
 たとえば、生まれて来る前の、過去の世界で……。脳味噌は、そんな記憶を心のどこかに隠しているのかもしれない。これも洋子が好んで描く想像の一つである。
 ——昔、だれかを撃ったのかしら——
 指のあたりに意識が残っている。そんな気がする。
「ミャー」
 と、ベッドの下でアミイが鳴いた。洋子が目ざめているのに気づいたのだろう。声の調子がいつもとちがっている。なにかを訴えている。尻尾《しつぽ》を立て、鳴きながらキッチンのほうへ歩いて行く。そして、また戻って来て洋子を見あげる。
「どうしたの?」
 アミイは、ごく平凡な日本猫。顔と背中にぶちがある。模様四割、白毛六割。背中のぶちは、下半身を包むように広がっているので、腰布団と名づけて呼んでいる。器量もスタイルもわるくない。
 時計を見ると八時をまわっている。勤めに出ていたころの習慣がまだ残っているらしく、そう遅くまでは眠っていられない。
 洋子は二ヵ月前まで製薬会社の研究所に勤めていた。厭《いや》な上司がいて、やめてしまった。男性ならこうはいかない。今の世の中では女性のほうがかえって自由に生きられるんじゃないかしら。
 もちろん薬剤師の免状を持っている。この資格は、川崎の薬屋さんに貸してあって毎月なにほどかの収入になる。ほかに獣医の資格……。
 ——私って勉強が嫌いじゃないから——
 大学の雰囲気が好きだった。どうせ一人で生きることになるだろうと、少女のころから漠然とした予測があって、生きるための技術を身につけた。父はそれだけを洋子に残して死んでしまった。あ、それからもう一つ、小さな貸しアパート。これは三鷹にある。贅沢《ぜいたく》をしなければ、なんとか暮らしていけるだろう。今は週に二度だけ知人の経営する犬猫病院へ行っている。月曜日と木曜日。
 今日は土曜日。つまり休日。洗濯物が少し溜《たま》っている。
「どうしたのよォ」
 ベッドを降りるとアミイがまとわりつく。
 キッチンへ向かいながらカーテンをつぎつぎに開けた。朝の日射しが転げるようにさしこむ。みごとな晴天。どの季節の太陽もすばらしいが、秋の光はとくに美しい。
 ——昨夜が霧だったから——
 霧のあとはどうしてよく晴れるのかな。昔、理科の授業で習ったような気がするけれど、忘れてしまった。ただ霧と靄《もや》とのちがいだけはしっかりと覚えている。一キロより遠くまで風景が見えるのが靄、見えないのが霧……。理科は洋子の得意な学科だった。
「なによ、あんた。朝から騒いで」
 アミイはご主人に知らせたいことがあるらしい。洋子の様子をうかがいながら「ミャー、ミャー」と鳴く。そして行きつ戻りつしている。
「あら、大成功じゃないの」
 キッチンに入ったとたんにアミイの騒ぐ理由がわかった。
 壁ぞいのすみに黒いものが転がっている。尻尾を長く伸ばして死んでいる。アミイは首の毛を逆立て、近づこうともしない。
「これが鼠よ。あんた駄目ねえ。猫のくせに」
 死骸《しがい》のそばに押してやると、アミイはうしろに跳んで逃げる。体を低くして身がまえる。
 新築のマンションは、その前までなにが建っていたのだろうか。引越して来て鼠がいるらしいと気がついた。油断をしていると、文字通り鼠算の適用となる。近ごろの猫はまるっきり頼りにならない。鼠捕りの能力は本能ではなく学習に属するものらしい。
 洋子は製薬会社の研究所で、ずっと殺鼠《さつそ》剤や殺虫剤の研究を担当していた。動物たちは嗅覚《きゆうかく》や味覚が鋭い。あやしいものには近づかない。そのあたりに苦心がある。まだ開発中の薬をドーナツの中に入れておいたら、みごと古鼠がひっかかった。尻尾の長いのは年をくっている証拠である。
「チャコなんかものすごく上手だったわよ、鼠捕りが」
 チャコは洋子が子どものころに家で飼っていた黒猫である。モットーは自給自足の経済。わが家のみならず向こう三軒両隣の鼠まで捕って食べていた。
 そんな猫のことなどアミイは知るはずもない。比較されるのはさぞかし迷惑なことだろう。だが洋子はことごとにそれを言う。
「鼠がネ、電線を伝ってたことがあったの。チャコは下からそれを見つけてキッとにらんだら、それだけで鼠がポトンと落ちて来たのよ。すごいんだから」
 あれはまったく鍛錬を積んだ武芸者のような技だった。
「まあ、いいわよね。鼠なんか食べられたら不潔でかなわないもの」
 昔の人はよく許していたものだ。
 洋子はビニール袋を二枚重ね、キッチンのすみに転がっている鼠の死骸を中に入れた。目を開けたまま死んでいる。まなざしはあどけない。
 ——かわいそう——
 とは思わない。鼠は有害動物だから……。
 こうした判断の背後に矛盾が含まれていることは、洋子自身よく知っている。獣医学を勉強すれば、厭でもその疑問に直面してしまう。なぜ犬や猫はペットとして人間にかわいがられるのか。なぜ鼠や蛇は迫害されなければいけないのか。キリスト教の教えによれば……たしか牛や豚は人間に食べられるためにこの世に生を受けたのだとか。
 ——みんな人間の身勝手——
 動物のほうに理由のあることではない。
 ——でも、それでいいのよ——
 洋子は自分でも不思議に思うほど達観している。アミイをかわいがるのは、アミイが自分にとって好ましい存在だから。つまり感覚的に好きだから。かわいいから。鼠を憎むのは、感覚的に好きになれないから。厭だから……。動物だけじゃない。人間についても、同じような区分がある。好きな人と嫌いな人と。
 ——私って冷たいのかしら——
 嫌いな人を見て、
 ——この人、死んでくれないかな——
 と、そう思う瞬間がなくもない。むしろ、しばしばあると言ったほうがいいくらい……。
 案外、世間の人はみんなそう思っているのかもしれない。ただ、そのことをあからさまにしては抵抗が大きすぎる。人間性を疑われる。自分が生きにくくなる。みんな口を鎖《とざ》して善意の仮面をかぶっているのだろう。
 鼠の死骸は、さらに頑丈な袋に入れ、ビニール・テープでしっかりと閉じて、ごみバケツに捨てた。
 ステレオのスウィッチを入れる。ビートルズの曲。
 ——やっぱり天才ね。ほかにこんな人たち、いないもの——
 つくづくそう思う。
 窓を開けた。風と光と、それから少し黄ばんだ公園の風景が飛びこんで来る。本当にこのマンションはすばらしい。トーストとコーヒーの朝食を用意していると、電話のベルが鳴った。
「はい」
 洋子は受話器を取って答えた。
「もし、もし。仁科さん? 二宮です」
 声で春美とわかった。
 洋子には友だちが少ない。人と親しくつきあうのは、楽しいときもあるが、わずらわしいことも多い。その中では二宮春美が一番親しい友人だろう。
「早いわね」
「早いほうが家にいるだろうと思って。起きてたんでしょう」
「もちろん。でも今、朝御飯」
「いいわね。相変らず優雅で。どう、新居のぐあいは?」
 春美は結婚して、今は二児の母親。昔は結構�とんでいる女�だったけれど、このごろはすっかり月並になってしまった。
「最高。こんなに気分にピッタリする家って、ないんじゃないかしら」
「へーえ、いいわね。じゃあ、軽井沢なんかいいのかしら」
 春美は軽井沢に小さな別荘を持っている。敷地も狭く、山小屋程度の造りだが、場所はわるくない。旧軽井沢から碓氷峠の見晴台へ行く途中。洋子は紅葉の季節にいつもそこを借りて二、三日滞在していた。
「ええ。でも、やっぱり行きたいわね」
 目の中に赤と黄と緑の三色が映る。木の匂《にお》いまでもが薫って来る。
「じゃあね、来週の前半。急でわるいけど」
「本当にいいの?」
「ええ、どうぞ。毎度のことじゃない。遠慮しないで。どうせウィークデイは私たち行けないもの。でも、来週の終りから再来週にかけては、ほかの人に頼まれちゃって……」
「じゃあ、そうするわ。ありがとう」
 頭の中ですばやく計画を立てた。アミイを連れて二泊三日の旅。アミイは旅慣れている。二、三時間くらいならバスケットの中でおとなしくしている。
 秋たけなわの軽井沢を散策している自分の姿が脳裏に映った。
 ——なにかよいことが起きるわ——
 突然そんな予感に襲われ、それがわけもなく確かなことのように感じられる。
 ——軽井沢へは絶対に行かなければならない——
 と思った。
「もう本当にいたずらで困るの」
 電話の声がしかめっつらを作っている。春美の話題はもっぱら子どものことだ。洋子はどう相槌《あいづち》を打っていいかわからない。はっきり言って子どもはあまり好きじゃない。ましてほとんど知らない子どものことなんか……。
「ええ」
「幼稚園のうちはまだいいけど、なんだかおつむのほうはたいしたことなさそうだし」
「そんなことないんじゃない」
 アミイが長電話に不服があるみたいに「ニャー」と鳴く。やきもちをやいているのだ。
「あら、猫ちゃん、元気?」
「うん。新しい家に移って、もう慣れたみたい」
「猫は家につき、犬は人につくって言うけれどね」
「アミイは人間ぽいから、わりと適応性があるみたいね。でも、わがままに育ててるから、態度がわるいの」
「ペットは飼い主より先に死ぬからいいわよ。どんなに甘やかして育ててもサ。うちの主人が言うのよ。人間の子は親が死んだあとも自力で生きていかなきゃいけないから、ペットとちがう。きつく育てなきゃ駄目だって」
 話はまた子育てに戻る。
「じゃあ、夕方にでも鍵《かぎ》を借りに行きますから」
 と洋子が電話を切りかけると、
「ええ、そうして。あ、そう、突然だけど、あなた、結婚しない? いいかたがいるんだけど」
 と、鉾先《ほこさき》が変った。案外これが目的で春美は電話をかけてよこしたのかもしれない。
「いらないわ」
 声がとげとげしくなる。結婚を否定しているわけではないが、少なくとも春美の世話になって相手を見つけようとは思わない。
「なぜ」
 と聞かれても困ってしまう。
「方角がわるい」などと言ったら、笑われてしまうだろうし……。
 方角はともかく、大きな決断をする前には、あらかじめ前兆のようなものが心の中にふくらんで来る。ほかの人のことはわからない。洋子はいつもそうだった。それを信じている。信じていれば、よいことが起きる。ちがうかしら。
 ガタン。
 頭の上で床に腰をおろすような音が響いた。すぐ上の部屋から……。三日前に入居者があった。時折、あらあらしい音が落ちて来る。わるい兆候ではないのかしら。
「じゃあ、またあとで。鍵を取りに行くわ」
 話題を変えた。
「何時ごろ?」
「五時くらいかしら」
「家にいなかったら牛乳箱の中を見て。紙に包んでびんの中へ入れとく」
「わかった。お願いするわ」
「さよなら」
 受話器を置いた。
 トーストを片手に持ったまま本棚から列車時刻表を抜いた。時刻表の隣には文庫本が四、五冊。その隣にはこのところ愛読している星占いの本がさしこんである。洋子は、さそり座の女。星占いによれば�転居はとてもよいことです�だった。これは当たったらしい。旅行もたしかわるくないはずである。恋愛は……�今年から来年にかけて。忍耐が必要でしょう�と記してあった。
 ——馬鹿《ばか》らしい——
 とも思う。たかが五百円か千円の本で、複雑な運勢がわかるはずもない。
 だが、ここにも相性がある。一生続くことかどうかわからない。体験的に言って、ある一時期、ある星占いの示唆《しさ》と、自分の運勢とが、とてもよく一致するときがある。狂いだしたら、もうまったく当てにならない。
「あなた、科学者のはしくれのくせして、占いなんか信じてるのね」
 と春美は笑うけれど、科学で説明できないことはたくさんある。それに……この種の神秘性は洋子の好みにとてもよく適っている。
 ——どこかに強大な宇宙の意志のようなものがあって、それが一人一人の人間を動かしている。ちょうどゲームの駒《こま》を動かすみたいに——
 それが、サッと垣間見えるときがある……。星占いが好きなのはロマンチックだから。
 ——きれいな星空が見られるかしら——
 東京に空がないかどうかはともかく、星空がないのは本当だ。何年も美しい星空を見たことがない。
 時刻表を開いて軽井沢行きの最終列車を調べた。二十一時一分上野発。その前が二十時ちょうどの出発。月曜日の夜に出かけて水曜日、遅く帰って来よう。問題は猫のアミイだが、勤務が終ってから連れに帰っても間にあうだろう。
「なーに?」
 アミイが上を見あげると、またドーンと音が上から響いて来る。棚の上のこけしが倒れた。
「どういう人なのかしら」
 洋子も眉《まゆ》をしかめて天井をにらんだ。真上の部屋は六〇七号室。表札には、たしか�鈴木�と記してあった。このマンションは上下にもろい構造になっているのかもしれない。それにしてもやけに荒々しい足音が落ちて来る。
 ——わざとやっているんじゃないのかしら——
 そんな気配さえある。そう言えば、昨日の夕方、どこかの奥さんが管理人室の前で「ちょっと変った人みたい」とつぶやいていた。あれは六〇七号室のことらしかった。
 ——よりによって、そんな人がすぐ上の部屋に来るなんて——
 洋子としては、ここが百パーセント満足のいく住居だと思っていたのに……。アミイもひんぱんに視線を上に送っている。
「あ、いけない」
 今日はごみの日。一階の屋外にマンションのごみ置き場がある。火木土の九時までに出すように言われている。洋子はビニール袋に家中のごみを詰めこみ、
「よいしょ」
 と運び出した。「よいしょ」と言うのは老化現象の始めなんだとか。厭だわ。
「アミイ、遊びに行ってらっしゃい。ガール・フレンドできたの?」
 このマンションは、小さなペットなら飼ってよいことになっている。ベランダに面した壁にはペットが出入りできるように、ばねつきの狭いドアまで作りつけてある。こんなマンションはめずらしい。アミイはすぐにこの出入口の利用法を覚えた。賢い猫なのよ。
 そこからベランダに出て、どこへ遊びに行くのかしら。外に遊びに出て行っても、洋子が帰る時間を計って戻って来る。ペット・フードで満足しているし……ほとんど手間はかからない。かわいがりたいときにかわいがってやればそれでいい。
 ——こんな夫ならいいわね——
 四六時中ベタベタしているのは、わずらわしい。自由がなくなってしまう。
 一階までごみ袋を運び、エレベーターに乗り込むと、
「待った」
 低い声が聞こえ、男が走り込んできた。
「おはようございます」
 洋子が声をかけたが、男は目の端でチラッと見ただけ。髭《ひげ》がのびている。頬骨《ほおぼね》が張り出し、鼻が鉤《かぎ》を作っている。黄ばんだ目の色が、あまりよい感じではない。キクンと洋子の胸が鳴った。
 エレベーターはすぐに動き出し、まず五階で止まった。洋子が外に出る。
「ふっ」
 男は背後で笑ったのではあるまいか。
 ドアが閉じるのを待って洋子は振り返り、表示盤を見た。エレベーターはすぐ上の階で止まった。
 洋子が部屋のドアを開けたとき、すぐ頭の上でガタンとドアが閉じたように聞こえた。
 ——あの人なのかしら、六〇七号室——
 どうもそうらしい。天井を見つめながらリビングルームのソファに腰をおろした。動悸《どうき》が弾んでいる。深呼吸をしてから、たったいま見た顔を思い出してみた。
 はっきりと見たわけではない。だからイメージは鮮明とは言えない。とにかく厭な感じだった。ねっとりとねばりつくような視線だった。ぶしつけな目つきだった。二人だけでエレベーターの中にいるのが、ひどく息苦しかった。衣服を脱がされ、裸を見られているような感じさえした。
 ——変ね——
 ちょっと猫背で、背が高い。目鼻のあたりの特徴だけがよく残っている。
「そんなはずないでしょ」
 独りつぶやきながら立ち上がってバスルームに入った。シャワーの温度をたしかめ、お湯を流したまま衣服を脱いだ。
 顔を上に向け、土砂降りの雨を受けるように全身にお湯を注いだ。髪を洗い、愛用の香水と同じ匂いの石けんで体を洗った。バスタオルで髪を拭《ぬぐ》いながら鏡の前に立つ。
 わるいプロポーションではない。細身の体にまるく豊満な乳房が突き出している。ウエストはくっきりとくびれている。両の掌で乳房を持ちあげた。柔かい質量感が好ましい。
「ナルシストちゃんね」
 と鏡の中の自分につぶやいてみた。
 でも、ナルシストでない人なんているのかしら。洋子は自分の容姿が嫌いではない。欲を言えばきりがないけれど、まあまあの器量。五段階評価で四くらいはもらえるだろう。五に近い四ではないかしら。
 バスタオルの端で濡《ぬ》れた恥毛を拭った。
 ——あの男——
 エレベーターで見た顔がちらつく。目鼻立ちを覚えているのがいまわしい。
 ——前に一度見た顔だから——
 それを否定するように首を振った。
 仁科洋子はドライヤーを使いながら記憶をたぐった。
 ——もう六年たつんだわ——
 もっと古い出来事のような気がする。自分に起きたことでありながら、現実感のとぼしいところがある。恐ろしすぎて、本当のこととは思いたくなかった。忘れようと努力もした。
 まだ薬学科の学生だったころ……。油壺に近いホテル。ホテルと言ってもモルタル造りの二階屋。ベランダのすぐ脇《わき》に夾竹桃《きようちくとう》の喬木《きようぼく》が立っていた。
 海には秋の気配が漂い始めていた。海水浴場から少し離れているので宿泊客の数も少ない。砂利道が白く延び、その道にもめったに人影を見ない。時折、褐色の土ぼこりが立っている。車が通り去ったあとなのだろう。そんな風景だけが、はっきりと目の奥に残っている。
 クラスメートの映子と一緒に行ったのだが、彼女は一日だけ金沢文庫に住む親戚《しんせき》の家へ行かなければいけない。
「ごめんなさいね。顔だけ出せばいいのよ」
「うん。ごゆっくり」
 残された洋子は昼近くまで人気ない海辺を歩いた。サンダルを脱ぎ、波打ち際に足先を浸して貝を捜した。さくら貝は人魚の爪《つめ》……。拾った貝を海に戻し、菓子パンとインスタント・コーヒーで昼食をすませた。
 一人で泳ぎに行ってもつまらない。午後の日射しは散歩には強すぎる。部屋にはカタカタと音をたてる旧式のクーラーがあって、音さえ気にしなければ快適である。ベッドに寝転がり、そのまま眠った。
 目をさましたのは、物音のせいだったろうか。
 ——ちがう——
 なにかがちがっていた。
 すぐに情況をさとった。恐怖が全身を走り抜ける。声を出すこともできない。
 男がベッドの脇に立っている。浅黒い下半身がむき出しになっていた。
 男はくぐもった声でなにかを言い、洋子の上におおいかぶさって来た。
 ——殺されるかもしれない——
 なにも考えることができない。考えたのは、ただ、ただ、
 ——こんなところで死んだらつまらない——
 それだけだったんじゃないかしら。
 ホテルの中はひっそりとして、声をあげても人が来てくれるかどうか。その前に殺されてしまうかもしれない。
「乱暴しないで」
 震える声で願った。夏の衣裳《いしよう》は簡単に破かれた。
 ずっと目を閉じていた。クーラーだけが、いつもの午後と同じようにカタカタと鳴っていた。
 男の体が重くなった。だが、それも短い時間だったろう。
 男は身を起こし、小走りに部屋を横切り、ベランダから夾竹桃の幹に移った。あとはバタンと裏木戸を閉じる音が聞こえた。洋子はベッドからよろけるように降りて、ベランダに続くガラス戸の鍵をしめた。カーテンを引いた。へなへなと腰から崩れた。
 体が震えている。男に組み敷かれていたときよりも、かえって震えが激しい。さっきは震えるゆとりさえなかったのかもしれない。
 ——よかった——
 とにかく殺されなかったのだから。だれも見ていなかったのだから……。
 空気がなまぐさい。男の匂いが染みこんでいる。新しいワンピースと下着をかかえて、シャワールームに走った。
 相変らず人の気配はない。シャワーのお湯に勢いのないのがもどかしい。石けんで何度も何度も体を洗った。それでも異質の汗の匂いがまとわりついている。
 ——どんな男だったろう——
 目を閉じていた。ほとんどなにも見なかった。だが、部分的にははっきり覚えているところがある。目ざめた直後の夢の記憶みたいに、ひどく鮮明な部分がある。
 年齢は……わからない。若くはなかった。しかし、四十は越えてはいなかっただろう。鼻がわし鼻だった。
 ——鼻の特徴だけで犯人をつかまえることができるかもしれない——
 でも騒ぎたててみて、なにかいいことがあるのかしら。午後いっぱい洋子はそのことを思い続けた。次第にくやしさが募《つの》って来る。身震いをしたくなるほど激しい嫌悪感に襲われた。
 ——あんな男に……。殺してやりたい——
 だが、どこか稀薄《きはく》な部分がある。激しい憎悪とはべつに、
 ——本当にあったことなのかしら——
 と、まるごと否定してしまいたいような意識もあった。
 昼さがりのひととき、風のように通り過ぎて行った魔の時間だった。だれも知らない。なかったと思えば、なかったことになる……。目を閉じると、黒い背景の中に男の顔がある。黄ばんだ、いやしい目の色と、�く�の字に歪《ゆが》んだわし鼻がある。
 映子は夕食前に帰って来た。
「無事だった?」
「ええ、まあ。クーラーがうるさいの。部屋を替えてもらいましょうよ」
 翌日、なにごともなかったように海で遊んで、洋子は東京へ帰った。
 エレベーターの中で六〇七号室に住む男を見たとき、洋子はとっさに六年前の出来事を思い出した。
 ——似ている——
 今となっては、いまわしい男の顔もほとんど記憶から消えているというのに……。
 わし鼻。黄色いまなざし、背かっこう……。そんなことよりも気配が似ている。肌で感ずる印象が似ている。
 ——盲目の人はこんな感覚を信ずるのね、きっと——
 目で見たことだけが確実というわけではあるまい。盲目の人は、なにも見なくても、
 ——ああ、この人はいつか会った人——
 と、的確に判断すると言うではないか。直接には声が手がかりになるだろうが、それだけではないような気もする。たとえば、人間全体が発する気配のようなもの。エレベーターの中で見たとたん、ほとんど忘れかけていたことを思い出したのは、どこかに共通なものがあったから。ちがうかしら。
 突然、冷たいものが頭の中を走り抜けた。
 恐怖に似ているが、恐怖とも少しちがう。恐怖の前ぶれなのかもしれない。
 ——忘れていたわ——
 記憶の構造はよくわからない。頭によく残るものと、残りにくいものとがある。そのことは、油壺のホテルで男に襲われたあとも、忘れていた。もし犯人を捜すとなれば、とても大切なことなのに、洋子はそれを思い出せなかった。潜在意識が初めから犯人を捜すことを拒否していたのかしら。拒否するあまり大事な手がかりを洋子の脳味噌からかき消そうとしていたのかもしれない。
 しばらくあとになって気がついた。男の手首に豆つぶほどの赤黒いあざがあった……。大きなほくろかもしれない。右の手か、左の手か、それもよくわからない。男が洋子の頭を押さえ、洋子が首を振って、ふりほどこうとしたとき、手首の骨のふくらみの脇にそれがあった。
 ——多分、右手。左手かもしれないけど——
 確信は持てないが、とにかくどちらかの手首に印があったのは、まちがいない。もう色も形も記憶は薄くなってしまったが、ないものを見たはずがない。
 恐ろしいのは、そのことだ。六〇七号室の男は、どうかしら。もし赤黒い印を見つけたら……きっと恐怖が舞い戻って来る。新しい恐怖といったほうがよいかもしれない。
「厭っ」
 洋子は小さく叫んだ。
 もし、一つ上の階に住む男の手首に、赤黒いあざを見つけたら洋子はずいぶん驚くだろう。
 ——六年ぶりで憎い男にめぐりあうなんて——
 そんな偶然はあるものだろうか。場所も油壺から東京の三鷹市に変っている。ほとんどありえない……。
 ——でも皆無とは言えないわ——
 男はエレベーターの中でなにかを思い出すみたいにフッと笑っていた。とても厭な感じ、意味ありげな笑いだった。
 ——気づいたのかしら——
 もしそうなら厄介なことになりかねない。
 わるいのはむこうのほうだが、あんな男、なにをやりだすかわからない。すでに厭がらせが始まっているのかもしれない。洋子の反応をさぐろうとして。
 赤黒いあざを見たいような、見たくないような……。
 男の生活は、注意して調べたわけではないけれど、サラリーマンではないらしい。朝が遅い。留守のときも多いし、夜通し起きているようなときもある。天井の響きぐあいから見当がつく。
 ——なんであんな男がいるのかしら——
 そう思ったのは、ここは安アパートではないのだから。
 超高級と呼ぶほどではないにしても、マンションとしては�上の中�か�上の下�くらい。しかも新築。賃貸はなく、全部持ち主が買って住んでいるはずである。洋子自身は、父からもらった株券を売り、貯金をはたき、相当の借金をしてようやく入手したものだ。少なくとも十年や二十年、快適に暮らそうと思って、充分に吟味したうえで買った部屋である。そして、このうえなく気に入っている。簡単には引越すわけにはいかない。
「絶対に厭よ」
 天井に向かってつぶやいた。
 人相のわるい男が住むようなところじゃない。人相がわるいからといって、お金を持っていないわけではないけれど……。考えるだけで腹立たしい。
 急に死んでくれないかしら——
 そんなことまで考えてしまう。
 昼近くに足音が消えた。耳を澄ましても、なにも聞こえない。
 午後になって、だれかがドアを叩《たた》く。ドアチェーンをかけたままのぞくと、
「こんにちは」
 黒い帽子が見えて、宮地昇が顔を出した。
 この男はモラトリアム青年。大学を出たのにブラブラしている。演劇がやりたいらしい。目下のところは便利屋稼業。一人暮らしの洋子には重宝な存在である。
 宮地昇の故郷は青森県の五所《ごしよ》川原《がわら》と聞いた。東北の人らしく無口で、朴訥《ぼくとつ》で、役に立つ。見かけよりずっと器用。たいていのことはなんとかこなす。洋子がこのマンションに引越してきた日に管理人から紹介してもらい、もう何度か仕事を頼んだ。棚を吊ってもらったり、アミイを預ってもらったり……。
 ——便利屋は天職なんじゃないかしら——
 洋子はそう思いたくなってしまう。
「できましたよ。大道具をやっているやつに頼んで……」
 荷物を運び入れる。壁のすきまにぴったり入る文庫本用の本箱。
「きれいね」
 色あいも周囲の家具とよくあっている。家具屋に作らせたらずいぶん高く取られるだろう。それじゃあ文庫本をしまうのにはもったいない。
 宮地は本箱の下にダンボールの断片をつめこんで揺れないようにする。
「どの本を入れるんですか」
「いいわよ。あとは自分でやるから」
「でも、ぐあいを見たいから」
「そう。じゃ、そのへんにあるのを入れて」
 と洋子が指をさす。本箱は本を入れたほうが安定する。
「どんなことでもやるの?」
「はい、一応」
 宮地はうしろ姿のまま答える。
「変った仕事もあるんでしょ」
「はあ」
「たとえば?」
「年寄りの話相手とか」
 便利屋にはそんな仕事もあるらしい。新聞で読んだことがある。
「やるの、あなた。わりと無口の方でしょう」
「仕事だから」
「なにを話すの?」
「故郷の話とか……。むこうが話すのを聞いていればいいんです」
「ああ、そうか」
 洋子は、この気まじめそうな青年をからかってみたくなった。
「あの……人なんか殺してくれないの」
「は?」
 すぐには意味がのみこめなかったらしい。
「便利屋さんて、なんでもやってくれるんでしょ」
 仁科洋子は鼻筋をトントンと指先で叩きながら宮地に尋ねた。この仕ぐさは機嫌のいいときのもの。ちょっと悪戯《いたずら》でもしてみようと思ったとき……。動作のくせはだれでも持っているけれど、意図的にそれをやるのは、たいていその人の長所と結びついている。それが心理学の原則らしい。洋子は鼻筋がまっすぐに伸びていて美しい。
「ええ、まあ」
「映画なんかでよくあるじゃない。殺し屋さんての」
「ああ、なんだ。今のところ、まだ……そこまでは営業を広げてないもんですから」
 と笑う。笑うと宮地は男のくせに片えくぼがくぼむ。表情がかわいらしいのはそのせいだろう。
「残念ねえ」
「あのう、殺したい人、いるんですか」
 大まじめな顔で聞くから洋子としても答えにくい。
「だれでも一人や二人、いるんじゃない」
「そうですかあ。僕はいないけどなあ」
「意地のわるい演出家とか……ひどいのがいるでしょ」
「でも、勉強中ですから」
 本箱に文庫本を納める作業は終りかけていた。
 ——この人は、本気で人を憎んだことがないのかもしれない——
 もしかしたら本気で愛したことも……。
「このすぐ上の……六〇七号室。どんな人?」
 洋子は話題を変えるような調子で尋ねてみた。
「知りません」
「鈴木さんとか言うの。ちょっと変な人みたい……」
 宮地は本箱のすわりぐあいを確かめていたが、どうやらうまく納まったらしい。
「あの人かな」
「どの人?」
「引越して来た日、近所の子どもがなぐられたとか」
「どうして?」
「知らない。荷物にでも悪戯をしたんじゃないですか」
 宮地は立ちあがり、帰り仕度にかかる。
「そう」
 乱暴な人なんだ。きっと……。
「ほかになにかありますか」
「また用があったら電話をするわ。月曜から二、三日軽井沢に行って来ます。お代はこの前のでいいの?」
「結構です」
 ペコンとお辞儀をして宮地は出て行った。
 日曜日を洗濯と掃除ですごし、月曜日は勤務先のミナミ犬猫病院へ。この病院は年中無休である。だから職員に休暇を与えるため、臨時の職員を雇わなければいけない。仁科洋子は、その一人。頼まれて月曜と木曜だけ行っている。薬理にも明るいので、病院にとっては便利な存在だろう。
「毎日来てくれないかなあ」
 院長に言われるが、しばらくは気ままな生活を続けていたい。なんとか食べるくらいできるんだし……。
 午前中は入院中の犬と猫の処置。午後は、たいてい外来に出る。今日はエスカレーターに足をはさまれ、足の裏のパッドがはがれてしまったポメラニアン。ものすごい痛がりよう。麻酔をかけなければ、とても治療ができない。
 ——言っちゃあわるいけど、これ、飼い主の不注意よねえ——
 少しだけ文句を言っておいた。
 病院から家までは、ほんの一駅。五時半に仕事を終え、アミイをバスケットに入れて部屋を出た。
 二十時発の特急に間にあった。アミイは本当におとなしい。バスケットの中で声もあげずに眠っている。
 ——JRさん、ごめんなさい——
 規則違反だろうけど、アミイはだれにも迷惑をかけない。
 軽井沢駅に降りると、急に冷気が体を包む。コートを持って来てよかった。
 濃い霧が帯を作って流れている。駅を出た黒い人影が街灯の光を受けながら、白い夜の中に消えて行く。
 ついこのあいだ東京でも霧の濃い夜があった。
 ——今年は霧が多いのかしら——
 俳句では霧と言えば秋のものらしいが、海岸地方などではむしろ夏に霧が多い。煙突の立ち並ぶ町では冬がスモッグの季節である。霧が秋のものとされたのは、おそらく京都の気象がそうだから。京都が文化の中心だったから。そんなことを聞いた覚えがある。
 タクシーで二手橋の近くまで。春美から借りた鍵でコテージのドアを開けた。プレファブ造り。断熱材をたくさん用いてあるらしいが、冬はやっぱり寒いとか。洋子は冬の軽井沢を知らない。
「着いたわよ」
 アミイはバスケットから出て、ものめずらしそうに周囲をうかがう。初めて来たところではない。
 ——まるで覚えていないのかしら——
 ヒーターで部屋を温め、布団に新しいシーツを敷いて眠った。このコテージの利用には慣れている。
 洋子はぐっすりと眠った。
 短い夢を見たが、目をさますと、なんの記憶も残っていない。
 なにかしらよい夢だったみたい……。
 世の中のことは、大別して�よい�か�わるい�か、そのどちらかに区分できる。むかし、英語の時間に、意味のわからない形容詞が出てきたら、とりあえず�よい�か�わるい�か、どちらかにきめて考えろ、と教えられた。
「アミイ、起きてたの。いいお天気みたいね」
 カーテンを引き、雨戸を開けると、梢《こずえ》をぬけて高原のまばゆい光が射しこんで来る。
 ——十月七日——
 昨夜は、薄闇《うすやみ》の町に着いたので、風景はほとんどなにも見えなかった。まだ紅葉の季節には少し早い。だが、こんな時期の軽井沢もわるくはない。なによりも人気のないのがよい。
 空は晴朗。日射しは暖かい。よい一日になるだろう。
 ——来てよかった——
 年に一度か二度、春美に頼んでこのコテージを借りる。ホテルもいいが、アミイが厄介だ。それに、たまには山小屋の不自由な生活も味わいがある。
 ——でも電気もガスもあるのよねえ——
 都会に住み慣れた者には、この程度の不自由さがほどのよいところだろう。
 家中に日射しと空気を入れ、自転車のほこりを払って町へ出た。荷台の籠《かご》にアミイを入れて。
 ほとんどの店が閉まっている。それでもまったく人の気配がないわけではない。当然のことながら、この町で暮らしている人もいる。スーパーマーケットで今日と明日の食糧を仕入れた。
 なにか目的があって来た旅ではない。ぼんやりと秋の散策を楽しめれば、それでよい。
 ——でも……なんだかめずらしいことが起こりそう——
 そんな予感がある。めずらしさの内容はきめられない。二つに分ければ、きっと�よい�ことのほう……。
 秋が来る前には、かならずその気配が漂う。気配が少しずつ濃くなって、やがて本当に秋がやって来る。同じように人生のふしめにも前ぶれがある……。なにかしら先に気配が現れる。
 ——ちがうかしら——
 洋子は小さな動物みたいにいつもそんな気配をさぐっている。昼さがりにアミイを連れて旧軽井沢の別荘地を歩いた。
 教会の脇を抜け、から松に囲まれた細道へ入った。湿った黒い土の道。その黒の色を、落葉が少しずつ侵し始めている。細い葉と広い葉が入り乱れている。
 風に吹かれて、ひときわ大きい褐色の葉が洋子の足もとにすり寄ってきた。
 つまみあげて、
「病葉《わくらば》」
 と、つぶやいてみる。
 秋が来て、自然の約束通りに朽ちるのが枯葉。季節はずれに枯れてしまうのが、病葉。
 いつか春美が言っていた。
「あなたって、病的なとこ、あるじゃない。若いくせに」
「若いから病的になれるのよ」
 枯れてはいないけれど、たしかに病的なところはあるようだ。洋子は自分でもそう思う。
 アミイには首輪をつけ、鎖で繋《つな》いである。犬のように一緒に歩く。
 ——ああ、いい気持ち——
 軽井沢には気に入りの風景がたくさんあるけれど、このあたりの散策は魂がしみじみと洗われるようで、楽しめる。どのコテージも瀟洒《しようしや》に作られている。自然の、素朴な味わいを残しながら垢《あか》ぬけている。ほどよい間隔で生い繁った木々の下を羊歯《しだ》類と落葉が埋めている。ほとんど塀というものがない。屋敷の境界線は、ただ土を盛りあげて区切ってあるだけ。
 ——まだ少し早いのね——
 細道の両側が赤と黄と緑と、三つの色で囲まれ、上もおおわれて鮮やかなトンネルを作る。そんなときには町そのものが枯葉の香りで匂いたつ。一昨年はたしかそうだった。去年はもう冬枯れが始まっていた。ちょうどよい時期に訪ねるのはむつかしい。他人の別荘を借りるとなれば贅沢は言えない。
 木立ちが切れて日射しの明るい一画に出た。
「ちょっと失礼」
 よそ様の敷地を横切り、裏通りを戻った。ゆるい坂道を登った。橋を渡り、コンクリートの道から山道へと入った。三メートルほどの道幅が枯葉で深く埋めつくされ、どこまでも続いている。アミイの首輪をはずした。
 アミイは陽だまりから草地の中へ入り、忍び足で様子をうかがっている。
 カサッ。
 足音が聞こえた。落葉を踏んでいる。洋子は身をねじって音の方角を見た。
 喬木と落葉が間道の奥行きをおおい隠している。道はゆるい登り坂を作り、その先で屈曲しているらしい。
 かすかな足音に続いて人影が一つ現れた。褐色のジャケット。黒いズボン……。
 男は、まず落葉の中で足を止めているアミイに気づいた。手をさし出して、
「猫、猫」
 と呼びかける。洋子は思わずほほえんでしまった。アミイは片足をあげたまま、
「ニャー」
 と答える。アミイは飼い猫のわりには人見知りをする。様子のいい人にだけ愛想を示す。
 飼い猫なら飼い主がいるはずだ、と男は思ったのかもしれない。人影を捜すように視線を伸ばしたとき、洋子と目があった。
「やあ」
 と男も笑いながら近づいて来る。浅黒い顔。タートルネックのセーター。ほどよい身長……。いくつかの印象がとりとめもなく洋子の目に映った。�よい�と�わるい�とに分ければ�よい�に属する。�とてもよい�かもしれない。
 ——知った人かしら——
 すぐに思い浮かぶ人はいない。むこうだけが洋子を知っているのだろうか。黒いスエードの靴が落葉の上で止まった。
「なにかおかしいですか」
 と尋ねる。男は洋子の笑い顔を見たらしい。
「はい」
 男の顔をゆっくりと見つめて答えた。
「どうして」
「�猫、猫�ってお呼びになるから。普通はそんなふうに言わないんじゃないですか」
「ああ、そうか。でも、名前を知らないから」
「アミイって言うんです」
「えーと、友だちかな。軍隊じゃないよね、まさか」
「ええ」
「男友だち?」
 洋子の顔をのぞきこむ。この男のまなざしは少しまぶしい。人を魅《ひ》きつけるものがあるみたい。
「雄です」
 洋子はアミイのほうへ歩み寄り、抱きあげた。
「いい顔をしている」
 男は、洋子の腕の中のアミイを見てつぶやく。洋子は猫の喉をなでながらはすかいに男の様子を観察した。観察というより、これまでに得た印象を頭の中でまとめあげていたのかもしれない。
 ——あなたもいい顔をしているわよ——
 年齢は……多分三十五、六歳。都会的な感じ。なにをする人かわからない。サラリーマンではないみたい。色が浅黒いので精悍《せいかん》な印象を与えるが、まなざしはむしろ甘い。目が大きいせいかもしれない。声の響きもわるくない。洋子には好きな声と嫌いな声とがある。恋人には声の美しい人がいい。
「ただの日本猫」
「それが案外いいんじゃないですか」
「ええ……」
 どう思い返してみても知った人ではない。
「この道、どこへ行くんですか」
 顎で男の現れた方角を指した。
「見晴台へ」
「碓氷峠の……」
「そう、舗装道路とはべつに散歩コースがあるんですよ」
「これがそうなの」
 聞いたことはある。シーズンには観光客でいっぱいになるとか。今は閑散として、だれかの別荘に続く行き止まりの道のようにも見える。
「行ってみますか」
「いいえ」
 洋子は逆に今来た道を戻りかかった。男は一、二歩遅れ、歩調をあわせるようについて来る。
「見晴台から降りていらしたんですか」
「いや、途中から」
 並んで歩いた。
 ——なにかが起こりそう——
 そんな予感がうごめく。めずらしいことが起きそうだと思ったのは本当なのかもしれない。
「お一人ですか」
 と男が聞く。
「ええ、猫と一緒」
 自嘲《じちよう》するように答えてから、
「あなたもお一人でいらしたんですか」
 と尋ね返した。
「そう、一人で。頭をからっぽにしてみようと思って来たんだけど……やっぱり退屈ですね」
「都会人だから」
 黒いセーターに黒いズボン。靴は黒のスエード。褐色のジャケットを羽織って……よく似あっている。
「そうでもないんだけど」
 車の走る音が聞こえ、舗装道路が見えて来た。道がほんの少し登り坂になる。
「お茶でも飲みませんか。失礼かな、こんなこと誘っちゃ」
 とても自然な言い方だった。誘うのが男の役割、応ずるのが女の役割。ちがうかしら。
「いいところ、あります?」
「この先にあるでしょう」
「紅屋さんかしら」
「そう。いらしたこと……ありますよね」
 この界隈《かいわい》ではよく知られたコーヒー店である。だが、洋子はまだ入ったことがない。
「いえ、店の前はよく通るんですけど」
 黒い木組みの家で、いかにもコーヒー専門店といったたたずまい。値段が少し高いらしい。
「おいしいですよ」
「じゃあ、行きます。猫をちょっと置いて来ますから」
 ちょうどコテージに曲がる角まで来ていた。
「近くなんですか」
「はい。先にいらしててくださいな」
「ここで待ってますよ」
「いえ、あとですぐにまいりますから」
 小走りに舗装道路からコテージに続く小道へ入った。男は洋子のうしろ姿を見守っていたが、しばらく来てふり返るともう見えない。
「アミイ、お留守番をしててね」
 鏡の前で化粧をなおし、スカーフを巻き、怪訝《けげん》そうに見あげているアミイを残して外に出た。
 本当にこの季節の軽井沢は人口が少ない。半分以上の店がドアを鎖している。紅屋のドアを開けた。
「ごめんなさい。お待たせして」
 奥に深い店。壁にはふんだんに絵が飾ってある。男は飲み物の注文もせずにカウンターの席で待っていた。
「なんにしますか」
「コーヒー」
「じゃあ、コーヒーを二つ」
 店にはほかに一組の客がいるだけ。黒いチョッキの店員が豆をひき、カップを温め、濾紙《ろし》を使って一ぱい一ぱい丁寧にいれる。
 カウンターのうしろの棚には、色とりどりのカップのほかに、グレープ・ジュースの壜《びん》やジャムの壜が整然と並んでいて、それが調和のとれた装飾になっている。
「ケーキを食べますか」
 男がメニューをながめながら言う。店の内装と同じ色調の黒い木組みのメニュー。ケーキは一種類だけらしい。
「どんなケーキかしら」
「当店特製のケーキです。くるみを入れた、チョコレート・ケーキ」
 と、カウンターの中の男が答えた。
「食べてみます」
「じゃあ、それを二つ」
 洋子はカップを取ってコーヒーの匂いを確かめる。
「砂糖は?」
「いりません」
 ケーキが甘いのでコーヒーはブラックで飲む。
「人が少ないって、本当にいいことですね。観光地の一番の条件じゃないかなあ」
 男がおもむろにつぶやく。
「ええ」
 と洋子が相槌を打つ。
 ——つきづきしい——
 そんな古風な言葉が浮かんだ。洋子はこの言葉の持つ感覚が好きだ。現代語に訳せば�似つかわしい�くらいの意味だろう。その場の雰囲気にぴったりとしていること。たとえば、今……。
 人気ない軽井沢の山道で一人の男とめぐりあった。男はほどよい容姿、ほどよい知性……多分そうだろう。年恰好《かつこう》も洋子にふさわしい。男が着ている黒と褐色の衣装も秋の気配によくあっている。静かなコーヒー店。焦茶色の香り。カップのぬくもり。ケーキに含まれたくるみの味もこの町にふさわしい。
 ——私のほうはどうかしら——
 グリーンのツーピース。下はキュロットになっている。イタリア製だから緑の色あいが微妙に美しい。からし色のスカーフもよいコントラストを作っているはずである。
「ミス……ですよね」
「はい。売れ残り」
「売り惜しみでしょう」
 男は愉快そうに笑う。「あなたは?」と尋ね返したいところだが、それはやめた。おたがいにせっせと相手の戸籍調べをするのは味気ない。
「じゃあ、きっと、お仕事をお持ちなんですね」
 と男が尋ねた。
「はい」
「なんでしょう?」
「なんに見えますか」
「わからない。わかりようがないでしょう」
 洋子は鼻筋をなでた。心が弾んでいるときの仕ぐさである。
「そうね。とても変った仕事。獣医。動物のお医者さん」
 おどけるような調子で告げた。男は首をまわし、驚いたような様子で洋子の横顔を見る。洋子の様子が獣医らしくないとでも思ったみたいに……。でも、どんな顔つきをしていたら、獣医らしく見えるのかしら。
「獣医さんですか。で、さっきの猫は患者さん?」
「いえ、そうじゃないわ。あれは、ただの同居人。病気になっても治療代はいただけないくちなの」
 男はコーヒーの残りをすすってから、
「扱うのは犬や猫だけですか」
「うちの病院はペット専門だから。主に犬と猫。小鳥もたまに……」
「なるほど」
 と頷《うなず》く。
「驚きました?」
「いや、そうでもないけど……。安楽死なんかもやるんでしょ、そういう病院では」
「はい。依頼があれば」
「怖い仕事ですね」
 洋子自身、初めの頃《ころ》はそう思った。いつのまにか慣れてしまった。もちろん動物たちが死ぬときは悲しい。でもどこかでわりきっていなければ、この仕事はやれない。
 ——人間は結局自分しか愛していない——
 この仕事に就いてそう感じた。飼い主とペットを見ていると、つくづくそう思う、どんなにペットをかわいがっていても、それは所詮《しよせん》自分のための愛でしかない。ペットのためではない。
「どんな動物でも死にかたはりっぱですね。じっとうずくまって死を待っています。人間のほうが、みっともないのとちがいますか、ジタバタして」
「そうかもしれない。でも、怖いですよ」
 男がなにを怖がっているのか、わからない。顔はうれしそうに笑っているのだから……。
「なんでしょう」
「あなたは虫も殺さないような顔をして……生命の瀬戸際にいつも立ちあっているんだから」
「そうねえ。でも、お医者さんもそうでしょ」
「ちょっとちがうな、お医者さんは。相手が人間なんだから」
「そうね」
「で、安楽死はなんでやるんですか?」
「たいていは麻酔薬を使いますけど……ほかの薬でも」
「食べ物に混ぜたりして……」
「そうですね」
「つまり、殺しかたを知っているわけだ、あなたは」
 男が「怖い」と言った意味は、このことだったのかもしれない。言われてみれば、そうかもしれない。怖いと言えば怖い。でも、こんなことを言われたの、初めてだわ。
「私、製薬会社にも勤めていたんですの。ゴキブリを殺したり、鼠を殺したり、そういう研究もやってたから……。怖い女なんですよ。さそり座の女だし」
 笑いながら男をにらんだ。
 もうコーヒー・カップもからになっている。男もそれに気づいたのだろう。
「塩沢湖、いらっしゃいましたか」
 一年に一度くらいのわりで春美の別荘を借りているので、軽井沢の名所はたいてい行ったことがある。
「ええ、前に自転車で」
「どのくらい前?」
「四、五年前かしら。どうしてですの」
「じゃあ、昔とちがっているはずです。ペイネの美術館が建って。ご存知ですか」
「知りません」
「レイモン・ペイネ。フランスの漫画家でしょ。……とてもかわいらしくて、ちょっとエロチックで……」
「ああ、見たことあります。そこへいらっしゃるおつもりでしたの?」
「どうでもってほどじゃないけど、退屈しのぎに。つきあってくれませんか。なんだかとても愉快になって来た……」
「怖いのに?」
「怖いもの見たさかもしれない」
「ひどいわ。怖いことなんかありません」
 すねるように言葉じりをあげてつぶやいた。
 ——コケットリイかしら——
 言えるわね。洋子の気分も少し浮き立っている。
「じゃあ、行きましょう。お勘定を……」
 と店員を呼ぶ。
「払います、自分の分くらい」
 洋子がさえぎったが、男が手を振って支払った。
「女、女って呼ぶわけにもいかない。名前を教えてくださいな」
 店の外へ出たところで男が尋ねた。
 さっきはアミイを見つけて「猫、猫」と呼んでいた。
「仁科洋子です」
「今は獣医さんで、その前は製薬会社で鼠の殺し方やゴキブリの殺し方を研究していた? 本当に?」
 男は笑いながら言う。面ざしは鋭いが、笑うと甘くなる。
「ええ」
「主にどういう薬を使うんですか」
「砒素《ひそ》や有機リンの化合物……。このあいだ、うちでもちょっとやってみたんです、実験を。大きな鼠ちゃんが引っかかって」
「勉強家なんだなあ」
 軽井沢銀座と呼ばれている商店街を歩いた。半分近い店がシャッターを降ろしている。
「私は、男、男って呼べばいいのかしら」
「それでもいいけど……。本堂です」
 低い声でつぶやくので、よく聞こえない。
「本堂……ですか?」
「もちろんですよ。嘘《うそ》をつく必要がないでしょう」
 男は少し気色ばんだ調子で言う。一瞬、洋子は男がなにを言っているのかわからなかった。ああ、そうか。洋子の言葉を「本当……ですか?」と聞きちがえたらしい。あらためて、
「本堂さん?」
 と、明快な発音で尋ね返した。
「本堂和也です」
「お仕事は?」
 旧軽ロータリーの近くまで来ていた。本堂は洋子の質問には答えず、
「塩沢湖、行ってみますか」
 と尋ねた。
「ええ。なんで行きますか」
「自転車、乗れますか?」
「乗れますよ。そんなにうまくはないけど」
「でも、やめましょう。結構距離がある。明るいうちに着くほうがいいし」
 日暮れまでにはまだたっぷりと時間がありそうだが、油断はできない。急に寒くなったりする。
 ロータリーのむかいにタクシー乗り場があった。車が二台停まっている。
「塩沢湖まで行ってくれないかな」
「いいですよ」
「さ、どうぞ」
 車が走り出したところで、本堂が、
「旅行ライターをやってるんですよ」
 と、最前の質問に答えた。
 世間にはいろいろな職業があるものだ。
「あちこち旅行して、雑誌なんかに記事を書くのね」
「まあ、そう。夢を追いかけて」
「すてきなお仕事ですね」
「そうでもない。満足はしているけど」
「じゃあ、軽井沢もくわしいわけね」
 くつろいだ調子で言った。
 中軽井沢を通りぬけ、踏み切りを渡った。ここらあたりは民宿の看板が目立つ。自転車で来るとなると、かなりの距離だろう。
「あそこ。この湖は個人の持ち物で、つい最近、有料の施設になったんですよ」
 と本堂は指をさしてから、
「運転手さん、二、三十分待っててください。美術館を見て来ますから」
 と告げた。
 タクシーを降りると、高い格子の門があり、そこが塩沢湖レイクランドの入口だった。夏の盛りには、さぞかしにぎわうのだろうが、今は人影もない。キップを売る人が気の毒になってしまうほどである。
 それでも中のレストランやファースト・フードの店は開いている。本堂がポテトのフライを二包み買った。ぬくもりがここちよい。舗装の道が延び、右手に塩沢湖、一隻だけボートが滑っていた。浅間山が姿を見せているが、山頂だけは雲におおわれている。山の稜線《りようせん》がくっきりと見える。木々の梢が美しい。
 ペイネの美術館は敷地の一番奥にあった。山小屋風の建物。中へ入ってみて、アメリカの建築家アントニン・レイモンドの別荘を移して美術館としたものとわかった。
「ああ、そうなの」
 うなずいてはみたが、洋子はアントニン・レイモンドを知っているわけではない。本堂もくわしくはないようだ。栗《くり》の木の丸太を使い、荒削りの美しさがここかしこにうかがえる。
 レイモン・ペイネの絵は何度か見たことがあった。ほとんどが恋する男女。花と木に囲まれた風景の中で愛を語りあっている。月の夜に男が蝶《ちよう》の羽を広げて、女を訪ねる絵がおもしろい。女の乳房がみんなまるく、あらわになっている。
「若い人向きね」
「フランス人の恋が見えて来るみたいだ」
「ちょっと肉感的なところもあって」
 美術館を出てから、湖畔の道を少し歩いた。左手の丘にはミニ・ゴルフやテニスのできる遊び場がある。ベンチで休み、今来た道を戻った。
 ——神様の悪戯かもしれない——
 洋子は湖に映る木々の影を見ながら、ふと思った。
 さっき会ったばかりの男……。その男がとても近しい人に感じられる。まるで恋人かなにかみたいに……。
 人気ない、高原の町は本当に美しい。いやでも人の心をロマンチックなものへと駆《か》りたてる。こんな風景は、恋人と一緒にながめるのが一番ふさわしいだろう。
 ——だから……隣の男が、恋人のように感じられる——
 というのは、少し論理に飛躍がある。
 だが、考えてみれば、人は知りあう前はみんな知らない人同士なのだ。知りあってからの長さが親しみの深さを保証してくれるものではあるまい。こんな静かな風景の中なら、普段よりずっと早く心の響きが伝わるかもしれない。
 本堂は人あたりの柔かい男である。洋子はむしろ人見知りをするほうなのだが、ほんの何パーセントかのタイプに対してだけはひどく心安くなれる。よくできた細工物の、蓋《ふた》と箱のようにパフリとここちよく心があわさるときがある。
 本堂のほうがどう感じているかわからない。
 ——私のこと、そんなに悪くは思っていないみたい。わりといい線、行ってんじゃないかな。
 しかし、それは本堂自身が感ずることだ。洋子が指図するわけにもいかないし、どの道はっきりとはわからない。
「どうします?」
 待たせておいたタクシーに乗った。
「ええ……」
「夕御飯は食べるんでしょ」
「食べますけど」
「少し早いけど、一緒にどうですか。一人で食べるのもつまらない」
「でも……」
「猫が心配ですか」
 アミイのことを忘れていた。餌皿《えざら》にキャット・フードが少し残っていたはずだ。あれを食べているだろう。
「猫はかまわないんですけど」
 あまり簡単に親しくなるのは、ためらわれてしまう。ただそれだけのことなのだが……。
「ホテルのレストランくらいしかないけど」
「そうですね」
「どんなものがお好きですか」
「なんでも食べます」
 車は駅に向かって走りだし、結局、一緒に食事をとることになった。
 本堂の案内で駅に近いホテルの割烹《かつぽう》店へ立ち寄った。料理を二つ、三つ頼み、二本の酒を飲んだ。二人ともそうたくさん飲めるくちではない。
「趣味はなんですか」
 と本堂が聞く。
「一人気ままに散歩をしたり、音楽を聞いたり……」
「どんな音楽?」
 皿の上の刺身が、きっちりと角を立てて並んでいて、おいしそう。
「なんでも。ビートルズとか、少し新しいところでは、マンハッタン・トランスファーね」
「ボーカルのグループね。すてきな趣味だ」
「来週も行くんです。横浜まで。キップが手に入ったから」
「一人で」
「ええ」
「いつもそうなんですか」
「そうね。コンサートは一人のほうが没頭できていいんです。でも、なんだか私ばかり質問されちゃって……。あなたのご趣味はなんですか」
「旅行かなあ」
「でも、それはご商売でしょ」
「趣味がいつのまにか仕事になってしまった」
「最高じゃないですか。どこがお好き?」
「日本ですか、外国ですか」
「外国」
「どこの国にもそれぞれいいとこありますよね。きれいということなら、スイス、カナダ」
 本堂は焼き魚の身を箸《はし》先でほぐしながら外国の美しい風景について語った。洋子は話の中身より、男の話し方に心を留めていた。話し方は、人となりを表すことが多いとか。でも、わからない。本堂は要領よく、歯切れよく話す。おそらく頭のいい人だろう。回転が速そう……。
「あなたはどこへ行きましたか」
「あんまり行ってないの。近いところばっかり。香港とかグアムとか」
「いつか一緒に行きますか」
 本堂は冗談みたいに言う。男はこんな方法で女の気を引いてみるのだろう。それを充分に承知していながら、洋子はわるい気分ではない。
 ——もしかしたら本当にこの人と外国旅行へ出かけるかもしれない——
 ぼんやりとした予感のようなものを描いてしまう。
 食事が終った。
「ここにお泊まりなんですか」
「いえ、そうじゃない」
 男の宿を尋ねるのは余計なことかもしれない。「ちょっと来てみませんか」と言われたら困ってしまう。今夜はこのへんが引きどきだろう。
 ——でも、このまま終っちゃうのかしら——
 それならそれでもいいけど……やっぱり味気ない。
「別荘に電話ありますよね」
 と本堂が思い出したように聞く。
「はい」
「じゃあ、番号を教えて。できれば東京の電話番号も」
「いいですよ」
 ボーイを呼んでメモ用紙をもらって記した。
「僕のほうから連絡しますよ。この局番はどのあたりかな」
「三鷹市。井《い》の頭《かしら》公園の近く」
「マンションにお住まいですか」
「ええ」
「何階?」
「五階です」
「じゃあ、いいながめでしょう」
「そうね。でも、なんだか上に住んでいる人が変な男の人らしくて」
「変て、どう変なんです」
「ときどきドーンて、足音が聞こえて来るし……、乱暴な人みたい」
「それは厭だな」
 本堂が伝票を持って立ちあがる。洋子はそれを引き止め、
「困ります。これで……」
 財布をそのまま男の手に渡してから、
「ちょっと手を洗って来ます」
 と、先に廊下に出た。
 ——あんた、ちょっとおかしいんじゃない——
 化粧室の鏡に向かってつぶやいてみた。心が浮き立っている。少し酔ってもいる。
 本堂はロビイで待っていた。財布を返されたが、使った様子はない。
「送りましょうか」
「いえ、結構です」
 ホテルの前で車を拾った。アミイが待ちかねているだろう。東京では留守番は毎度のことだが、家が変っているから心細いにちがいない。
「さよなら」
 車が走り出してから考えた。本堂の連絡先を聞かなかった。聞くのを忘れていたわけではないけれど、うまいタイミングがなかった。賭《か》けてみたい気持ちも洋子の中に少しある。
 ——連絡をよこすか、どうか——
 こんなときはむしろ待つほうがよい。連絡がなければ、男のほうに気のない証拠である。
 もう一つ、大切なことを聞かなかったわ。
 ——独り者か、どうか——
 これも聞き忘れていたわけではない。すぐにわかってしまうのはつまらない。洋子には、曖昧《あいまい》さを楽しむような趣味がある。
 直感では独り者。そんな匂いがした。かすかに危険な匂い……。でも、本堂は三十代のなかばくらいにはなっているだろう。日本の男性ほど結婚の好きな人はいない。なんのかんのと言っても、みんな結婚をしている。独り者はめずらしい。だから本堂も結婚しているだろうと、そう考えるほうが確率が高いのだが……。わからない。
 アミイは普段と変らない様子で待っていた。
 ドアの開く気配を聞いて、ベッドからゆっくりと降りて来て、
 ——なんだ、お前か——
 といった顔つきで洋子を見る。お風呂《ふろ》を沸かすのも面倒くさい。電気毛布のスイッチを入れ、アミイを抱いてベッドに潜りこんだ。
 ——すっかりご馳走《ちそう》になってしまったんだわ——
 コーヒー代やタクシー代ばかりか、ホテルで食べた食事代まで本堂が支払っている。
 ——まあ、いいか——
 洋子としては、また会うこともあるだろうと予測していたので、そう強くはこだわらなかった。
 女が三十歳を過ぎるまで独りでいれば、たいていいくつかの誘惑を体験する。大小とり混ぜて両手の指の数にあまるくらい……。オードブルで終るものもあれば、フルコースの恋愛もある。
 だが、女は受け身の立場である。少なくとも受け身を装うことだけはまちがいない。洋子も例外ではなかった。そっと仕かけておいて相手の出方を待つくらいのことはやったけれど、見かけはあくまでも受け身の姿勢である。
 ——この人、きっと誘いかけて来るわ——
 受け身であればこそ、この勘は冴《さ》えている。女はみんなそうだ。ほとんどはずれることはない。
 洋子は気にかけていたのだが、軽井沢のコテージに本堂からの連絡は来なかった。
 ——はぐらかされちゃったみたい——
 本堂がなんの用で軽井沢に来ているのか洋子は聞かなかった。旅行ライターということだし、仕事がいそがしいということも充分に考えられる。
 翌日昼近くまで待って、一人で散歩に出た。
 旧三笠ホテルは、いかにも明治の西洋建築といった趣きがあって楽しめる。階段の手すりといい、窓枠といい、洗い桶《おけ》みたいなバスタブといい、一つの時代が鮮やかに見えて来る。中を見学したあとで外に出て、あらためて全貌《ぜんぼう》をながめると、この建物は完全なシンメトリック。
 ——人はなぜ左右対称を好むのかしら——
 自分の体がそうだから。目が左右対称についているから。引力に対して安定感があるから……。おそらく人間の根元的な生理と関係していることだろう。
 浅間山は雲間にときどき姿を見せるが、これはかならずしもシンメトリックな形状とは言えない。
 太陽が傾くまで散策を楽しみ、予定通り最終の一つ手前の特急で東京へ帰った。収穫があったような、なかったような……。いずれ本堂からは連絡があるだろう。
 ——ご苦労さん——
 マンションへ帰るとすぐにアミイはペット用の出入口を抜けてベランダへ出て行く。ベランダの脇には高い公孫樹《いちよう》の木が立っている。便利屋の宮地に頼んで木の枝を一本ベランダの柵《さく》に固定してもらった。アミイは器用にそれを伝って降りて行く。
 ——あら——
 ベランダにピーナツのからが散っている。まるめた鼻紙も落ちている。綿ぼこりの玉もある。
 洋子は上を見あげた。六〇七号室のベランダから捨てたのではあるまいか。そのすぐ上が屋上。屋上から捨てたというケースも考えられるが、わざわざそんなところまで行ってごみを捨てる人はいない。
 旅に出る前に管理人室に行き、
「上の足音がひどいの。少し気をつけてくださるよう言っていただけません」
 と頼んでおいた。
 伝言は伝わったのだろうか。今は不在らしい。
 洋子が眠りかけたときドーンと大きな響きが落ちて来た。
 本当にわざとやっているみたいに……。
 
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