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霧のレクイエム02

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示: 港 町 東京に帰ってからも本堂からはなんの音沙汰もない。 そんなにいい男だったかなあ 第一印象は合格といってよい。長所
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 港 町
 
 
 東京に帰ってからも本堂からはなんの音沙汰もない。
 ——そんなにいい男だったかなあ——
 第一印象は合格といってよい。長所はいろいろある。そうね、思いつくままにあげれば……着ているものの趣味がよかった。浅黒い顔も男らしいし、声の響きが洋子の好みにあっている。人あたりのやわらかさ。会話もそこそこに楽しかった。
 服装の趣味と頭のよしあしとは関係がないという説もあるけれど、洋子はそうは思わない。
 たしかにずいぶん賢い人でも、つまらない服装をしている。男はとくにそうだ。馬鹿のくせにおしゃれだけは、ずば抜けてうまい男もいる。それはそうなのだが、まるっきり着るものに無頓着《むとんちやく》の人はべつとして、当人がその気になって装っているのなら、やっぱりその人の性格や知性は現れる。
 本堂の服装は色あいもよかったし、秋の景色にもほどよく溶けこんでいた。
 春美が知ったら、
「あなた、面食《めんく》いだからねえ。女の中にも、とにかくハンサムがいいってのが二十パーセントくらいいるんですって。私ゃ男の顔なんか、表と裏の区別がつきゃいいって思ってるほうだけど」
 と眉をひそめるにちがいない。いつもそんなことを言うのだから。
 ——面食いね——
 洋子としては強く否定はしないけれど……少しちがうわ。ことはそれほど単純ではない。
 美しいものが好き。これは本当だ。でも男性について言えば、ただ容姿の美しさだけを言っているわけではない。頭の働きまで含めて美しい人がいい。
 容姿のよさも一つの条件だが、それだけではない。ものの感じ方や表現のしかたなども大切な要素だろう。あれこれ分析してみても、はっきりとはわからない。要は、洋子が好ましいと思うかどうか……。
 それに、洋子は、
 ——男女の仲なんて、惚《ほ》れるが勝ち——
 と、そう思っている。俗っぽい損得勘定では�あまり入れあげては損�ということになっているらしいが、それはおかしい。ちがうかしら。
 もともと恋愛なんてものは、好きになるためにやることだろう。だったら、好きになられることに気を使うより、好きになることに夢中になるほうが本筋だろう。好きになって、そのために疵《きず》がつくのは仕方がない。
 本堂和也のことはともかくとして、さしあたり気がかりなのは六〇七号室の男のこと……。めったに顔を合わすことはない。手首に小さなあざがあるかどうか、それもまだ確かめられない。昨日、洋子の郵便受けに�猫がわるさをする。気をつけろ�と書いた紙片が投げこんであった。
 ——どういうことなのかしら——
 と考えこんでしまう。六〇七号室の男が入れたとは限らないけど、文面の荒々しさからみて、きっとそうだろう。
 ——わるさって、なんなの——
 アミイはそんなにひどい悪戯をする猫ではない。第一、公孫樹を伝って下へ降りて行くことはあっても、上に登って行くのなんか、見たこともない。
 洋子は管理人に頼んで「足音に気をつけてください」と六〇七号室に伝えてもらった。
 それに対して「お前のところの猫もよくないぞ」と、言いがかりをつけてよこしたんじゃないかしら……。
 男の名前は鈴木勇。表札にそう書いてある。
「お仕事はカメラマンて、おっしゃってますがねえ」
 管理人も首を傾げている。
 あまり評判のいい人ではないことはまちがいない。引越して来たときに近所の子をなぐったのは本当らしい。ろくに挨拶《あいさつ》もしない。目つきがよくない。態度が粗暴である。深夜遅くどこかへ出て行く。このところ近所で下着泥棒がよくあるんだとか……。
 相変らず洋子の部屋へは荒い足音が落ちて来る。いや、足音ではないわ。足音なら仕方がない。我慢もできる。もっと大きな響き……。厭がらせなのか、それとも虫の居所のわるいときのくせなのか、全身をドーンと床に落とすような強い響きがいきなり落ちて来る。人形やワイン・グラスが倒れるほどだ。
 ——せっかくすてきな部屋だと思っていたのに——
 この先、あんな男を頭の上の部屋に置いてずっと暮らしていかなければいけないのかしら。腹立たしい。
 真夜中に電話のベルが鳴った。
「もし、もし」
 呼びかけてみたが答えない。夜光時計の針は三時を過ぎている。
「もし、もし、どなたでしょう」
 かすかな息使いのようなものが聞こえる。電話のむこうで様子をうかがっている……。
「もし、もし……?」
 答える様子がないので洋子は電話を切った。
 ベッドに転がったまま薄暗い天井をにらんだ。引きずるような足音が一度だけ上のほうから聞こえて来た。六〇七号室は起きているらしい。
 ——どんな顔だったろう——
 わし鼻。黄色く濁ったまなざし。よくは見なかったけれど粗暴で、陰湿な感じだった。エレベーターの中で薄笑いを浮かべていた。
 ——私のこと、覚えているのかしら——
 油壺のホテルではベランダの鍵をしめ忘れた。それで、たまたま通りすがりの男が侵入して来たのだと思ったけれど、男は前から洋子をつけ狙っていたのかもしれない。そうだとすれば、洋子の顔を覚えている可能性も充分にある。たとえば、あのとき泊まったホテルに出入りしているクリーニング屋とか……。洋子の名前だって知ろうと思えば、知ることができただろう。
 その男が六年ぶりに東京のマンションに住んでみたら、すぐ下の階に見覚えのある女がいる。苗字《みようじ》にも記憶がある。
 ——ちょっと悪戯でもしてみるか——
 たちの悪い男なら、そんなことを考えるかもしれない。
 ル、ルン、ル、ルン。
 また電話が鳴った。ヒクンと体が震える。黙って電話機を見つめていたが、音は脅すように鳴り続ける。
「もし、もし……」
 答がないのは最前と同じである。受話器に耳を当て、どんな小さな音でも聞こうと努めた。
 しかし、なにも漏れて来ない。しばらくはそのまま待ち続けた。
 クツッ。乾いた音が聞こえ、むこうが切ったらしい。
 ——どうして私の電話番号を知っているのかしら——
 軽井沢で本堂に電話番号を教えたことを思い出した。
 ——でも、ちがうわ——
 本堂がこんな悪戯をするはずがない。やっぱり六〇七号室の男……。さもなければ、ほかのだれか……。いたずら電話というものは、思いのほか世間に多いもののようだ。
 ——そうか。管理人室だわ——
 管理人室のカウンターには居住者の名前と電話番号を記した一覧表がある。このマンションの住人なら盗み見るのはむつかしくあるまい。
 受話器をもとに戻して目を閉じた。またベルが鳴るのではあるまいかと思ってしばらくは眠れない。
 ——明日は横浜へ行くんだわ——
 そんなことを考えているうちに眠ってしまったらしい。
 
 東京と横浜、同じように大きな町なのにどこかちがっている。どうちがうかと聞かれたら困ってしまうけれど、洋子は横浜へ来るたびにいつもそれを思う。
 やはり海がすぐ近くにあるからだろう。町全体に港の気配が見え隠れしている。山下公園ぞいの道はとりわけそんな味わいがある。
 県民ホールのコンサートは、マンハッタン・トランスファー。人気絶頂のボーカル・グループ。このところ洋子は少し凝《こ》っている。ハーモニイがとても美しい。東京でキップを買いそこね、かろうじて横浜の前売りを一枚だけ手に入れた。何日も前から楽しみにしていた。
 コンサートは超満員。見せて聞かせて、文字通りのエンターテイメント。お客を楽しませずにはおかない。舞台全体が躍動している。音がビンビンと飛んで来る。聴衆の心を高ぶらせておいて、それから美しいハーモニイが滑らかにアイロンをかけて行く……。
 ——すてき。来てよかった——
 レコードでは何度も聞いていたが、本物を見るのは初めてだった。迫力がまるでちがう。ミーハー相手のグループとちがって音楽的にもとてもすぐれている。音色の美しさがいつまでも耳の中に残って消えない。
 みんなが酔っていた。幕が降り、劇場の外に出てもほのかな酔いが続いている。目をあげると、黒い夜を背景にして公孫樹が黄色く輝いていた。その風景も夢幻に映る。
 ——関内《かんない》まで歩いて行こうかしら——
 洋子が帰り道を思案していると、
「やあ」
 といきなり肩を叩かれた。ふり向いて、
「どうして?」
 と思わず高い声をあげてしまった。
 本堂和也が立っていた。
「偶然なんだ。通りかかったら、マンハッタン・トランスファーがかかっていて、あなたが好きだと言ってたのを思い出して……」
「そうなんですか」
 大通りは、ホールから出た人の群でいっぱい。本堂が黙って横断歩道を渡り、山下公園に入った。洋子はなにから話していいかわからない。
「どうでした、コンサート?」
「とてもよかった」
 公園の薄あかりの中を並んで歩きながら洋子はつぶやいた。
 海ぎわの柵まで出た。港にはたくさんの光が散っている。遠くにメラメラと揺れる炎があった。
「食事は?」
「遅く食べたから」
「高いところのほうが、きれいだな」
 本堂は独り言みたいに言って歩きだす。洋子もあとに続いた。
 ——どうして電話をくれなかったの——
 その言葉が心の中にあるけれど、尋ねようとは思わない。本堂がどういう男かまだよくわからないけれど、こんな出会いのほうが、この人らしい。
 さっきと同じ横断歩道を戻った。ホールの前にうごめいていた人影ももうほとんど消えている。
「このホテル、知ってますか」
「いえ、入るのは初めて」
 ロビイを横切り、エレベーターに乗った。エレベーターの天井には、星座が小さなプラネタリウムみたいに描いてある。どんどんと空へ昇って行く……。
 最上階のカクテル・ラウンジ。窓ぎわの席がタイミングよくあいたのもこの夜のうまい偶然の一つだったかもしれない。
 たった今たたずんでいた公園が、眼下に細く広がっている。点在する常夜灯がぼんやりと散歩道を照らし出している。海と港の展望も広くなった。タグボートがゆっくりと光の尾を引いて沖へ消えて行く。
「なにか飲む?」
「ほんの少しだけね」
「じゃあ、マンハッタン。今夜にふさわしい」
「あ、ほんと。そんなお酒があるんですか?」
「うん。ウイスキーをベースにしたカクテルだけど……。マンハッタンを二つ」
 と本堂は手をあげてボーイに頼んだ。
「あなたのこと、なにも知らないわ」
「知らないほうがいいかもしれないよ」
「まったくのフリーなんですか」
「仕事? そう」
「どこへ連絡をすればいいの」
「家は町田にあるんだけど、ほとんど帰らない」
 マンハッタンは褐色の酒。舌に冷たく、喉に熱い。酔いが胃袋から全身へ走り出す。
「ご家族は?」
 洋子が尋ねた。
「うん? 結婚はしていない。両親は長崎にいます。東京では、恵比寿のレジデンシャル・ホテルを根城にしているけど、そこにもほとんどいないんじゃないのかなあ」
「いつも旅がらす?」
「まあ、そうだね」
 洋子は昔、考えたことがある……。札幌に一年、金沢に一年、博多に一年、そんなふうにして日本各地をつぎつぎに住み替えて生きてみたら、どんなに楽しかろうかと。
 本堂は視線を遠くに伸ばして、
「横浜もビルが多いね」
 と言う。正面は海だが、その海を囲むようにして背の高い建物が林立している。海よりずっと高い位置に窓のあかりが見える。
「このホテルも高いし。地震が来たらどうなるのかしら」
「駄目じゃないのかなあ」
「本当に? 高層ビルは、地震が来ても大丈夫のように作られているんでしょ」
「そうは言ってるけど、わからない」
 地震は洋子の大嫌いなものの一つである。
「ときどき思うの。今ここで急に地震が来たら、どうなるかって。高速道路の上とか、地下鉄の中とか」
「大地震が来たら、東京なんか惨憺《さんたん》たるものじゃないのか。パニックが起きて、どうにもならない」
「家にいるときなら井の頭公園に逃げこむけど」
「避難場所なんかが指定されているけど、実際にはそこまで逃げられない。途中で、崩れた塀の下敷きになって、動けない。生きているのに、火が近づいて来たりしてね」
「いやん。それが怖いの。毒薬でも携帯しようかしら。いざというとき楽に死ねるように」
「持っているんだろ、専門家だから」
 本堂はタバコに火をつけながら笑いかける。
「いつもは持っていないわ」
「家まで取りに行くひまはないよ」
「本当ね。カプセルにしてハンドバッグの中に入れておこうかしら。スパイみたいに」
 冗談のような話がとんとんとはずむ。港の風景も、かすかな酔いもここちよい。
「ところでマンションの、上の階の男、なんだか変な人だって言ってたけど……あい変らず?」
「最悪みたい」
 洋子は眉をしかめた。
「足音がひどいのか?」
「それが、足音じゃないみたいなのね。わざとドーンとやってるみたい」
「なんで?」
 マンションの上の階に住む男が、なにを考えているのか洋子にだってわからない。
「いやがらせかもしれないの。ベランダには、ごみが捨ててあるし……」
「文句を言えば、いいじゃない」
「怖いわ」
「管理人にでも頼んで。いるんだろ、管理人が」
「いるけど、賃貸じゃないから、管理人も強いこと、言えないんじゃない。このあいだは、いたずら電話がかかって来たし……。夜中にベルが鳴って、受話器をとってもシーンとしているの」
「彼なのか」
「わからない。でも、ちょっと気がかりなことがあって」
「なんだい?」
「むかし、厭な感じの人がいたの。その人に似ているような気がして」
「その人が偶然同じマンションの上の階に来ちゃったわけ?」
「ちがうかもしれないけど」
「厭な感じって、どういう感じ?」
 油壺で襲われたことまでは話せない。
「近所に変質者がいたの。その人に似ているの。だからエレベーターなんかで会うと、背中がモゾーッとしちゃう」
「僕が文句を言ってあげようか」
 女一人で住んでいるのだから現実問題として男が出て行くのは、さしさわりがあるだろう。
「いよいよのときはお願いしますわ」
 話が途絶えた。沈黙は気づまりである。そんな気分をすくいあげるように本堂がつぶやいた。
「運命を信じるほう?」
「ええ。でも、どうして」
「運命的なものを感じるから。あなたが好きになりそうだな。いいですか」
「ずいぶん急なんですね」
「善は急げ……」
「善なのかしら」
「だから運命を信じるかどうか聞いたんです」
「ああ、そういうことね。信じましょうかねえー」
 洋子は言葉じりを故意に延ばしてつぶやいた。
「もう少し飲みますか」
「いえ、もうたくさん」
 洋子は視線を下に送り、そっと腕時計を見ながら答えた。
 いま十時。家へ帰って十一時すぎ……。明日は出勤をする日である。
「じゃあ、行きましょうか」
「はい。今日は私に払わせて」
「ここはいい。この次にして」
「すみません」
 本堂はもう伝票を握っている。ラウンジを先に出て待っていると、エレベーターがすぐに昇ってきた。
「ギリシャ神話、知ってます?」
 本堂がそう尋ねたのは、エレベーターの天井に描かれた星座のせいだろう。
「いえ、よくは知らないわ」
「僕も知らないけど、ギリシャ神話じゃ男と女は会ったときから、もう運命がきまっているんですよね」
「ああ、そうなの」
 エレベーターが止まった。
 本堂が外に出る。洋子があとに続く。
 暗いフロアー。ロビイではない。二、三歩進んで、ここは客室専用のフロアーだと気づいた。
「ちょっと部屋に寄ってくれません? お渡ししたいものもあるし……。ご心配なく。紳士です」
 本堂は明るい声で言う。まるでとるにもたりないことでも告げるみたいに……。タイミングのとりかたもうまい。部屋のドアもほどよい距離にあった。ほかの人が同じことをやっても、こううまくは行かないかもしれない。
「強引なのね」
 ドアを開けて、
「男だから。どうぞ」
「じゃあ、ほんの少しだけ。もう帰らなくちゃいけないの」
「わかってます」
 ツインベッドの部屋。ソファが一つだけ窓辺に置いてある。事務用の机にはアタッシェケースが蓋《ふた》を開いたまま投げ出してあった。
「お泊まりなの」
「うん。横浜をちょっと取材する必要があって。さ、棒みたいに立っていないで……腰かけてくださいな」
「ええ……」
 洋子はソファのはしに腰をおろした。
「なにか飲みますか」
「いえ、結構です」
「じゃあ、タバコ?」
「喫いません。どうぞ。平気ですから」
 本堂はライターとタバコを持って洋子のすぐとなりにすわった。
「不思議だなあ。つい、このあいだ会ったばかりなのに」
 他人事みたいに言う。
「電話をくださらなかったわ」
「一度かけたんだ。でも留守だった」
「一度だけ?」
「かけていいのかなって思って……。少し遠慮していた」
「かけられて困るようなら、教えませんでしょ、電話番号を」
「そりゃそうだ」
 と本堂はうなずき、
「実は会ったときから、すてきな人だと思ったんだ」
 腕がすいと伸びて、洋子の肩に触れる。
「どなたにもそうおっしゃるの?」
「ひどいことを言うなあ。本気で言ってるんだから。僕は、厭なことはやらない主義なんです」
「私もそう」
「短い時間でこんなに気分のうちとけられる人はいないな。本当ですよ。でも、僕がそう思っているだけで、あなたはちがうのかもしれないけど……」
「ペイネの絵、かわいらしかったわ」
 男はいつだってどんどん攻めこんで来る。女はときどきブレーキをかけなければいけない。
「あ、そうだ。プレゼントがあるんだ」
 本堂は立ちあがり、引出しの中から四角い紙包みを取り出した。
「なんでしょう」
「あとで開けてみてください。高いものじゃないけど……。あのあともう一度塩沢湖へ行って、買って来た」
 洋子の膝《ひざ》に紙包みを置き、そのまま腕を伸ばして肩にまわす。
「わざわざ?」
「そう。またあなたに会えると思ったから。そのときのためにと思って……。ただのモーニング・カップ」
 ペイネの絵でもかいてあるのだろう。
「すみません」
「好きになってもいいですか」
 肩の上の腕に力がかかった。
「今、答えるんですか」
「そう」
 洋子が上目づかいに見あげたとき、本堂が体を寄せ、唇が頬《ほほ》に触れた。洋子は首を小刻みに振った。一種の照れ隠し。意図的にやることではないが、こんなときにはいつもこんな動作をしてしまう。男の腕にさらに力が加わり、今度は唇が重なる。
「ごめんなさい。今夜は堪忍してくださいな。帰ります」
 軽く本堂の唇を受け入れたあとで身を引き、掌で男の胸をさえぎってつぶやいた。
「どうして」
「理由はありません」
「厭ですか、僕のこと?」
 仕ぐさの手慣れているところが気がかりだが、この年齢の男なら、まあ、許せる。下手くそよりはスマートのほうがずっといい。会えば、こんなこともあるだろうと思っていた。進展が予想より早かっただけ……。
 とはいえ洋子もそれほど冷静に考えていたわけではない。さまざまな思案や感情が頭の中を駈《か》けめぐっている。
 ——この人に抱かれたい——
 その欲望だってなくはない。性の喜びを知らない体では、なかった。それに……今夜は、ここにたどりつくまでのすべてが順調だった。コンサートの興奮も夜景の美しさも、体のあちこちでくすぶっている。魂が少し酔っているようだ。決して厭な相手ではない。ただなんとなく、
 ——今夜はやめておこう——
 おぼろな判断があった。美意識のようなものかもしれない。あやういところで踏みとどまっている……。ここで一歩進んだら、今夜はこの部屋に泊まることになるだろう。
「厭じゃないわ。よいかただと思ったからこそ来たのよ」
 相手の目を見つめて、きっぱりと告げた。
「残念だなあ。ほら、明日、なにが起きるかわからない。大地震が来たりして」
 本堂も洋子の目をのぞいている。笑っている。
「また来ます」
「本当に?」
「ええ」
 洋子は立ちあがりバッグとコートを持ってドアへ向かった。本堂があとを追って来て、ドアの前で背後から肩を包んだ。それから洋子の体をまわして唇を近づける。洋子は目を閉じて熱い感触を受け入れた。コートが足もとに滑り落ちた。
「待って。送って行こう」
 本堂が洋子のコートを拾って、さし出しながら言う。
「いいわ。一人で帰れるから」
「いや、もう夜も遅い」
 二人で部屋を出た。
 ホテルの前で車を拾い、桜木町の駅まで。
「本当にまた来てくれますね」
「ええ」
 来ればどうなるか……洋子はそれを知らない年齢ではない。充分に知っている。これが恋ならば……多分、恋だと思うのだが、どこかで女も跳ばなければいけない。
「いつ?」
「いつがよろしいの?」
「今週は用があるから……来週。月曜日。早いほうがいい」
「できれば火曜日。月曜日は病院があるから」
「そう。じゃあ、火曜日。夕方の六時に。さっきのカクテル・ラウンジで待っている」
「はい。もし来なかったら、気持ちが変ったんだと思ってください」
「ひどいな。そんなこともあるわけ?」
「覚悟のいることですもの。あなたのこと、まだなんにも知らないし」
「今度ゆっくり話しましょう」
 本堂は東横線で渋谷まで送って来た。「家まで送る」と言ったが、洋子は断った。
「一人で帰りたいの。考えたいことがたくさんあるから」
 もう夜も遅い。吉祥寺まで送らせたら本堂のほうが帰れなくなる。
「そう。じゃあ、僕も考えながら帰ろう」
「そうしてください」
 本堂が洋子の手を取り、ポケットの中で握りしめた。
「さよなら」
「来週の火曜日。六時。待ってます」
「はい」
 洋子は背を向け急ぎ足で歩いた。本堂はきっとうしろ姿を見送っているだろう。視線を意識しながら人混みの中に身を埋めた。
 ——人生なんて、みんな賭けでしょ——
 迷っていても仕方がない。
 ——きっとよいことがあるわ——
 この賭けは、ゴー・サインのような気がする。
 洋子はテレビで時折相撲の中継を見る。
 ——どうしてああ何度も仕切り直しをするのかしら——
 以前は不思議に思ったが、この頃はそうも思わない。
 くり返しているうちに機が熟して来る。心構えができあがる。能率はわるいが、それが必要なケースもあるだろう。
 ——恋愛もそうね——
 軽井沢で本堂に会ったときから、
 ——この人には抱かれるかもしれない——
 と思った。直感としか言いようがない。昔、人間がもっと正直だった頃には、今よりずっと大胆に行動していたのではあるまいか。本当のことを言えば、軽井沢で本堂の泊まる宿にまで行ってもよかった……。
 でも、やっぱり仕切り直しをやってしまう。女はとりわけそうだ。あとで悔んだとき、
 ——けっして軽はずみだったわけじゃないわ——
 そう思えるように、あらかじめエクスキューズの道を作っておく。
 約束の火曜日に洋子は美容院へ行った。あまりおしゃれをするのは、かえって変だろう。さりげなく、のほうがいい。普段よりちょっと着飾る程度にとどめた。
 家を出てからは、
 ——糸に引かれているみたい——
 そんな意識があった。自分で覚悟したことでありながら、見えない糸でたぐられているような気がする。
 約束の時間に少し遅れた。本堂はホテルのカクテル・ラウンジで茶色い酒を前に置いて待っていた。
「こんばんは」
「車で?」
「そう。桜木町からタクシーで」
「タクシーが来るたびに、あなたかと思っていた。なにか飲む?」
「そうね、あまり強くないもの」
「じゃあ、バイオレット・フィーズ」
 本堂が注文をすると、ウエイターが紫色の酒を運んで来た。
「会いたかった」
「ええ」
 たがいに目を見つめあったまま、チンとグラスをぶつける。それを飲みほしながら食事のメニューを選んだ。
「肉が好きなの?」
「いえ、魚も好きよ」
 二人とも同じミニッツ・ステーキをとった。
「マンハッタン・トランスファーのレコードを買って僕も聞いてみた」
「いかがでした? すてきでしょ」
「本当にハーモニイがきれいだね」
「音楽的にもレベルが高いんじゃないかしら。アカペラでも充分に聞けるから」
「アカペラって、なんだろ」
「伴奏なしで歌うコーラス、でしょ」
「何語かな」
「イタリア語じゃない? 正確にはア・カペラ。カペラが礼拝堂かなんかで、そこではそんなふうに歌ったんじゃないのかしら」
「もの知りなんだな」
「そんなことないわ。レコードのジャケットに書いてあったの」
「イタリアはすごいよ。洗練されたものは、みんなあそこから出て来ているみたいな気がする」
「ファッションもすてきですものね」
 とりとめのない会話をするうちに食事が終った。本堂が立ち、洋子があとに続く。
 ——糸に引かれて、とうとうここまで——
 エレベーターの天井に描かれた小さな星空を見た。本堂が手を握る。
「ここにはよくいらっしゃるの」
「いや、そうでもない」
 ダブル・ベッドの部屋……。ベッドの存在が少しまぶしい。肩を抱かれ、ふり向くと唇が重なる。
「初めから、こうなるんじゃないかと思っていた」
「本当に?」
「うん」
「そんな女に見えました?」
「そういう意味じゃない。好きになりそうな人だと思った」
 また唇が重なる。触れるたびに少しずつ深くなる。
 ——これも仕切り直しね——
 体が熱くなった。アルコールの酔いとはちがった酔いが、体を侵し始める。洋子は目を閉じて自分だけの闇を作った。
 ——私、きれいかしら——
 この瞬間に洋子はいつもそう思う。抱かれるならきれいに抱かれたい。そんな美意識に配慮をしてくれる男がいい。そして、最後にそれを忘れさせてくれる男が頼もしい。
 抱きかかえられ、ベッドに運ばれた。男の掌が胸に届き、ボタンが一つ一つはずされる。
「あかりを消してください」
 本堂が体を起こし、光を落とした。洋子はスーツの胸もとをあわせながら、
「不思議ね」
 と、つぶやく。
「どうして」
「なんとなくそう思ったの」
 本堂がまた近づいて来て、洋子の髪を撫《な》でながら押し伏せる。
「自分で脱ぎます」
「そう」
「シャワーを使っていいかしら」
「どうぞ」
 洋子は小走りにバスルームへ向かった。
「バスローブがあるけど……ここへ置いておく」
 本堂がバスルームのドアの外に白いバスローブを置く。洋子はドアを閉じながら、それを抱えた。
 家を出る前に体を洗った。今は汗を流すだけでいい。香水はハンドバッグの中にある。取りに行くのは面映《おもは》ゆい。
 鏡がすっかり曇っている。
 掌で拭い、上半身を映した。
 ——五人目の男——
 旅先でたった一度だけ抱きあった男もいる。油壺の事件は数に入れない。抱かれるのは……好き。性の喜びがそれなりにわかるようになっていた。
 男にやさしく肌を撫でられるのはここちよい。バスローブの紐《ひも》を結んでドアを押した。本堂もバスローブに着替えていた。
「すみません」
 さっきと同じように抱かれてベッドの上に運ばれた。
「洋子さん」
 本堂は呼びかけ、洋子の目が開くのを待って、
「あなたが好きだ」
 と続けた。薄闇の中で男の目が輝いている。甘さと鋭さを混ぜあわせたようなまなざし……。
 ——まだこの人のことをよく知らない——
 肩をあらわにされ、腕を抜かれた。乳房が男の掌に包まれる……。安らかなここちよさ。目を閉じて男の愛撫《あいぶ》に身をゆだねた。キクンと体が震えた。
 男の唇が乳首に届く。不確かな快感が少しずつ確かなものへと変って行く。
 男は折り重なり、滑らかに体を貫かれた。一瞬、しびれるような感覚が走り抜ける。
 体を堅くして、男を抱きしめた。
 あとは体のここかしこにうごめくたゆたいに身をまかせればいい……。
 耳もとの息使いが荒くなる。
 男の体がどんどん堅く、熱くなって行く。
 白いものが頭の中に広がった。深い部分の感触が、目の奥に、頭の中に不確かなイメージを作る。白く吹き出し、ねっとりと滲《にじ》んで体の中に染みこむ。
 男の体が重くなった。
 しばらくはそのままの姿でいた。この時間がいとおしい。
 ——いいの? これで——
 頭の片すみで意地わるく問いただすものがいる。その名は、良識……。
 ——いいのよ、これで——
 おぼろな意識の中で答える。
 汽笛が聞こえた。港町のホテルにいることを思い出した。洋子の両親は神戸の生まれだと言う。港町にはどこか放恣《ほうし》の気配が漂っている。男はみんな旅人。女はそれを迎えて、胸の中に抱く。
「汗をかいたね」
 本堂が掌で乳房のあいだを拭った。そして体を転がすように離し、洋子のすぐ隣であおむけになる。二人そろって天井を見上げた。
「あい変らず上から音が落ちて来るのか」
 本堂が尋ねたのは、マンションの物音のことである。
「ええ、そうね。管理人に頼んで注意してもらったんだけど……。郵便受けに逆に投書があって、�猫がわるさをする。気をつけろ�って」
「上の男が?」
「きっとそうよ。アミイはそんなわるさをしないわ」
「厭な奴だなあ」
「だれにでも愛想のいい猫なのよ」
「夜は外に遊びに行くんだろう」
「ええ。公孫樹の木を伝わって」
 小一時間も家族の話や仕事の話をかわしただろうか。本堂は聞き上手である。気がつくと、たいてい洋子のほうが話していた。
 そのうちに本堂の手が洋子の胸に伸び、また抱きあった。
「泊まって行ってくれないかなあ」
「明日、仕事があるの。特別に出勤を頼まれてしまって」
 犬猫病院では今、風邪がはやっている。常勤の医師が二人も休んでいる。朝も早いし、横浜のホテルから出勤したくはなかった。
 それに……最初の日から泊まってしまうのは、
 ——アクセルがかかりすぎちゃうわ——
 そんな思惑がある。けじめを見せておいたほうがいいだろう。
「ここから出勤すればいい」
「ごめんなさい。そうもいかないの。用意もあるし……。このまま会えないわけじゃないでしょ」
「そりゃそうだ」
「帰ります」
「そのかわり、また会う約束をしよう。できるだけ近いうちに。今週の金曜か土曜。今度は東京がいい」
「ずいぶんすぐなのね」
「駄目かな」
「そうね。連絡をしますわ。恵比寿のレジデンシャル・ホテルの電話番号、何番ですの」
「僕のほうから連絡する。明日の夜にでも」
「そうしてください」
「送っていこう」
 この前の夜と同じように渋谷の駅まで本堂に送ってもらって別れた。
「疲れちゃったわ」
 マンションの部屋に帰ったのは十二時過ぎ。すぐにベッドに入って目を閉じたが、長く眠らないうちに電話のベルで起こされた。
「もし、もし」
 はっきりと目をさまさないまま受話器をとった。
 なにも答えない。
 ——まただわ——
 耳を澄ますと、荒い息使いが聞こえる。男が一人であえいでいるような。どうもそうらしい。電話のむこうには変質者がいるみたい……。
 受話器を置き、上に毛布をかけた。さらに布団をかぶせた。こうしておけばベルが鳴っても目をさまさないだろう。
 しっかり眠っておかないと明日がつらい。手術も二つ三つあるだろう。このごろは骨折をするペットがやけに多い。動物たちも体がすっかりやわになってしまったようだ。
 ——私もなにか運動をしようかしら——
 ジョギングをしている夢を見たのは、そのせいだったろう。
 二週間たらずのうちに本堂とは四回もあった。
「どうしても会いたい」
 そう言われると、洋子のほうは時間の作れない立場ではない。本堂も忙しいことは忙しいのだろうが、なんとか都合をつける。
 男と女の仲は、いったん抱きあってしまうと、それが習慣になる。そのたびに体がなじんで行く。手と上等な手袋のようにフィットする……。東京では赤坂のホテルを使った。いつも本堂に支払わせていては申しわけない。食事代は洋子が持つように努めた。
「これ、見たことある?」
 抱きあったあと、本堂がテレビの前に立って尋ねた。
「どれ?」
 首を曲げると、画面に外国映画らしいものが映っている。本堂がベッドに戻って来て枕《まくら》を立てる。洋子も同じように枕を立てて画面をながめた。
「映画は好き?」
「嫌いじゃないけど、このごろ、あんまり見てないわ」
「これは�死刑台のエレベーター�」
「ああ、聞いたことあるけど、見てないわ。この女優、なんていう人でしたっけ」
「ジャンヌ・モロー」
「唇のあたりが、ちょっとだらしない感じね」
「そうかな」
 見ているうちに引きこまれる。
「スリラーって、わりと好き」
「女性は案外残酷だから……」
「私は、とくにそう」
 人妻の不倫の恋。その夫は土地開発会社の社長で、恋の相手は夫の会社で働いている男。秘密の愛はついに二人に殺人を決意させる。男はロープを使って社長室に忍びこみ、完全犯罪が成功するかに見えたが、そのロープを片づけるのを忘れて来た。男は気がついて引き返し、すぐにエレベーターで逃げようとするが、あいにく守衛にビルの電源を切られてしまい、夜通しエレベーターの中に閉じこめられる。外では犯罪の成否を案じながら、待っている女。男がエンジンをかけたまま止めておいた車に、町のチンピラと花売り娘が乗りこみ、この連中がもう一つの殺人事件を起こす。それがきっかけとなってエレベーターを出た男は逮捕されてしまう。
 そんな物語である。
 テレビの画面をはすかいに見ながら本堂がつぶやく。
「あのう、鼠を殺す薬、僕にもくれないかな」
 ベッドの飲み物は黄金色のブランデー。洋子は一口飲んだだけで酔いが走りだす。
「あら、どうして」
「液体? どうすればいいんだ」
「水に溶して鼠の好きそうな食べ物に染みこませておけばいいの。毒性はものすごく強いわよ」
「無味無臭なの?」
「そう。危険だから発売できないの」
「なるほど。今度、持って来てよ」
「なんに使うの」
「護身用だな。いつ地震が来るかわからない。逃げられなくなって少しずつ死ぬんじゃたまらない」
「考えておくわ」
「ハンドバッグの中に入れておいてくれれば、僕が盗んでもいい。あなたに罪はない」
「ああ、そうね」
「このつぎ会うとき、かならず。本気だよ。指切りげんまん」
 ベッドの上で指をからめた。
 話しながら、はすかいに視線を送ってテレビの画面を見る。映画は……ちょっとした手ちがいで完全犯罪は崩れ、主人公は逮捕されてしまう。それを知ったヒロインは「あなたが刑を終えて帰って来るまで十年でも二十年でも待っているわ」とつぶやく。そしてエンド・マーク。
「あら、ビデオだったの」
「うん。ひまつぶしに見ようかと思って……。ホテルって結構いろんなものがそろっているんだ」
「この二人、本当に愛しあっていたのね」
 洋子はあごで、テレビを指した。人妻の不倫。夫の部下との恋。結婚したあとで夫より好きな人にめぐりあうことも……あるだろう。
「そうだよ。でも、むつかしいな」
「なにが?」
「夫を殺したあとで、二人仲よく暮らそうという計画だろ、これは。当然疑われるよ」
「でも二人の関係はだれにも知られていなかったんでしょ」
「そりゃ、そうだけど……。深く愛しあってからじゃ遅いんだよなあ。だれかが感づく、だれかが見ている。こういうことは、もっと早い段階で決断をしなくちゃあ」
「どういうこと?」
 本堂はすぐには洋子の質問に答えない。起きあがりテレビのスウィッチを切った。
「あなたはどう思っているか知らないけど、僕は運命的なものを感じているんだ。あなたと出あったことについて。本当だよ。きっとすばらしい二人になるって……」
 洋子の目を見つめながら言う。この男のまなざしはいつも甘くて、雄弁だ。
「ええ……」
「でも、たとえば僕に妻がいたとする」
「いるの?」
「いないけど……たとえばの話だよ」
「それで?」
「これから先、あなたと僕が熱烈に愛しあって、どうにも離れられない関係だとわかって……そうなると当然、妻が邪魔になる。今、見た映画みたいにね」
「ええ?」
「でも、そのときになって、ことを起こしたんじゃ遅いんだ。もっと早い段階で未来をしっかり予測して……。それが幸福をつかむこつなんだな。なんでもそうだよ。このゲーム、知っている?」
 本堂はサイドテーブルのマッチを取って、軸を毛布の上に並べた。三本、五本、七本と、三つの山を作った。
「知らないわ」
「あなたと僕とで順番にマッチの軸を取って行く。何本取ってもいいけど、いつも一つの山から取らなきゃいけない。二つの山にまたがって取っちゃいけない。そうやって交互に取って行って、最後の一本を取らされたほうが負けになる。やってみよう」
 言われるままに洋子は五本の山から二本を取った。すると、本堂が七本の山を全部取ってしまう。残りは三本の山が二つ。洋子が一本を取る。本堂がべつの山から一本を取る。二本と二本……。こうなったら洋子がどう取っても負けになる。
「駄目みたいね」
「そう、もう一度やってみようか」
 何度やっても洋子が負けてしまう。
「じゃあ、今度、あなたが先に取って」
「いいよ」
 それでも洋子が負ける。
「あははは、勝負はずっと前についているんだ。最初に取ったときに……。残りの軸が少なくなってから考えたって遅いんだ」
「そうみたいね」
 本堂がマッチ棒を片づけ、洋子を抱きしめる。
「僕はワルだよ。エゴイストなんだ」
「私もそうよ。人間はみんなエゴイストよ」
「まあね。そのへんであなたとは波長があうのかもしれないな。でも、どうせ生まれて来たんだから、思いっきりすばらしい一生を送りたい。そう思わない?」
「思うわ」
「ところが人生はなかなか思った通りにはいかない。幸福になるためには頭も必要だし、勇気も必要だ」
「わかります」
 本堂は洋子のバスローブを割って乳房をさぐる。まるい形のよい乳房……。
「殺したいほど、憎い人、いない?」
「いないこともないけど……」
 洋子は、ついこのあいだ便利屋の宮地と同じような話を交わしたことを思い出した。宮地はいかにも気のよさそうな青年。いつまでたっても田舎っぽい。あのとき、
 ——この人は、本気で人を憎んだことがないみたい——
 と、わけもなく思った。人を憎めない人は人を愛することもできない……。そんな気がする。
 ——私はちがうわ——
 強く愛するためには強く憎めなければいけない。同じパトスから出ていることなのだから。
「だれ?」
「そうね。今は上の階の人」
 六〇七号室の男。やることなすこと洋子の神経にさわる。イライラさせられる。油壺でひどいことをした男かもしれない。洋子の快適な生活をおびやかす存在……。いなくなってくれればいいと思っているのは本当だ。
「そんなにひどいのか」
「なんか厭な感じなの。いたずら電話もしょっちゅうかかって来るし……。で、あなたは、どうなの? 殺したいほど憎い人、います?」
「いるね。憎いというより、その人がいては僕は幸福になれない」
「奥様?」
「ちがう、僕は独り者だよ。嘘じゃない」
「じゃあ、だれ」
「あなたは知らないほうがいい。僕があなたの憎い人を消しちゃう。あなたが僕の憎い人を消しちゃう。消しゴムかなんかで……。これが一番いいんだよね」
 本堂が笑いながらタバコをくわえた。
「そうみたい」
 洋子も笑いながら相槌を打った。
「むかしのローマの法律用語に、アリバイとクイボノがあったんだってさ」
「くわしいのね」
「いや。世界史の授業で先生が話していた。雑学の大家でね。とてもおもしろかった。アリバイのほうは今でも使われているだろう」
「ええ」
「クイボノってのは�だれの利益か�ってことらしい。つまり事件が起きたとき、アリバイがあるかどうか、だれが得をするか、それを調べれば、おのずと犯人がわかる。この二つがきめ手なんだ」
「アリバイとクイボノ?」
「そう。ところが交換殺人てのは、どっちも曖昧になってしまう。その人が殺されて利益をうる人には、歴《れつき》としたアリバイがある」
「推理小説がお好きなの?」
「わりと好きだね」
「私も好き」
「どんな作品が?」
「忘れちゃうの。そのときはおもしろいけど……。ヒッチコックなんか」
「でも、それは映画だろ。�赤毛のレドメイン家�なんか僕は好きだな」
「知らないわ」
「フィルポッツの作品。あなたみたいなすてきな人が出て来る。とてもチャーミングだけど、悪女なんだ。愛のためなら、こわいことも平気でやっちゃう」
「あら、そうなの」
 本堂の指が乳首をはさむ。洋子の中でくすぶっていた快楽がまた騒ぎ始める。
「いやン」
「これ、かわいい。公平に愛してあげなくちゃあね」
 二つの乳房があらわになった。襟もとをあわせても、またすぐに脱がされてしまう。
 乳首は正直だ。つんと上を向いて堅くなる。
「あなたが好きだ。すばらしい二人になりたいね」
「ええ……」
「鼠の薬を忘れないで。このつぎ会うとき……」
 指先がもっと深い部分をさぐる。
 洋子は男の掌に体をゆだねながら、本堂の声を聞いた。
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