日曜日の昼さがり。賢三がテレビの歌番組を見ていると、娘の智美が居間に入って来た。妻の久子は買物にでも出たようだ。
智美は自分の茶碗にお茶を入れ、いかにもついでといった仕草で父の茶碗にもお茶を注ぐ。
「お父さん、お話があるの」
高校二年生。顔立ちも声も最近は久子によく似て来た。
「なんだ」
「長電話はいかんって言うけど、電話って、そんなにお金のかかるものじゃないわ」
「そうかな」
子どもたちの長電話には、どこの親も困りはてている。賢三の職場でも、ときどき話題になる。智美にも何度か注意したことがあった。
「お父さんに言われたから、私、先月、自分でどのくらい電話をかけたか計算をしてみたの。ストップ・ウォッチを使って」
智美はしっかり者である。もう一人、弟の隆がいるが、こちらのほうはいたってずぼらだから、いちいち電話料の計算なんかするはずがない。思いつくこともあるまい。
「で、どうだった」
「一カ月で十七時間とちょっとね。そのうち私のほうからかけたのは六時間四十二分よ」
「そんなものかな」
十七時間というのは一日平均にして三十分くらい。毎日、長電話をしているわけではあるまいから、二日に一度一時間くらいのものだろうか。
「そうよ。相手は都内に住んでいる人ばっかりだから三分間で十円。私のかけたぶんは千三百四十円にしかならないわ」
意外に安い。もう少しかけていると思っていた。
「それだって、お父さんが払ってるんだ」
「でも、一カ月で千円ちょっとのことに、そんなに目くじらを立てなくてもいいんじゃないかしらあー」
と、智美は言葉じりを伸ばして、父の表情をうかがう。
「そのあいだにどんな大事な電話がかかって来るかわからん」
「でも、うちの電話、割りこみ式になってるじゃない。話している途中にかかって来れば、すぐに切りかえるわ」
予想通りの反論が返って来た。
賢三はタバコをとって、ゆっくりと火をつけた。煙を喫いこんではき出す。
タバコなんてものは、どう考えてみても健康にいいことはない。そのうえ、はた迷惑。タバコのみのマナーはおしなべてよろしくない。百害あって一益なし、と、嫌煙家の主張もわからないではないけれど、少しは役に立つこともある。
たとえば今……。どう答えていいか困ってしまったとき。黙って考えこんだりすると、相手は、
——あ、敵さん、考えてるぞ。多少はショックを与えたんだな——
と、こっちの足もとを見る。わずかなことだが、弱味を見せることになる。商談などではよく体験することだ。
そこでおもむろにタバコを喫えば、なんとか恰好がつく。けっして答に窮しているわけではなく、今はタバコが喫いたいと思っただけなんだ、と、そんな気配が流れる。賢三は「それがタバコを喫う効用だ」と、いつも理屈をつけている。「長電話はそれほど高いものじゃない」という智美の理屈も、もしかしたら遺伝のせいなのかもしれない。逆の立場なら賢三自身が言いそうな台詞だ。
「銭の問題じゃない」
「じゃあ、なんの問題?」
「けじめの問題だな。いいか。十五分まで電話を許すとする。そこで、十六分ならなぜわるいのかと聞かれても、理由はない。十五分が許せるなら、十六分も許せる」
「そうでしょ」
「ちがう、ちがう。早い話が、入学試験だってそうだろう。八十点までが合格のとき、七十九点はどうなんだ。八十点の人と実力は変りゃしないよ。だけど、それを言ってみたって意味がない。どっかで線を引かなくちゃいかん。長電話も同じことだ。いくらまでが許せて、いくらからが無駄だとは言えない。でもな、長くなれば無駄なことはまちがいない。お父さんが線を引き、おまえたちはそれに従うよりほかにない。それがわが家のルールだ」
「変なの。なんだかごま化されたみたい。せっかく苦労して計算したのに。とにかく、そうたくさんお金をかけているわけじゃないんだから、あんまりきびしいこと言わないでえー」
智美はまた言葉じりを伸ばした。
「手紙のほうがいい。言葉が消えない」
「消えたほうがいいこともあるわ」
そこへちょうど電話がかかって来た。
智美が出る。
「もし、もし、ああ、ノリちゃん」
智美の友だちかららしい。智美は父親に背を向け、声を小さくする。
賢三は目の端でそれを見ながら、
——なぜ長電話はいかんのかな——
と、あらためて考えてみた。
たしかにそれほどお金のかかることではない。月に千円や二千円の出費でいちいち苛立《いらだ》つのは馬鹿らしい。子育ては、どの道お金のかかるものだ。つきつめて行けば、親になったのがそもそも出費のもとという結論になりかねない。
長電話を見ていて腹が立つのは、
——電話が無礼な習慣だから——
そんな気がする。そのことと関係があるにちがいない。
電話は相手の事情に関係なく飛びこんでくる。そして優先権を主張する。
一家団欒の最中にかかって来れば、ちょうどまるいケーキの一部分を切られるように団欒の一角がそがれてしまう。あらかじめアポイントメントをとって、ようやく面会したような相手でも、そこへ電話がかかって来れば、それが先になる。割りこんだほうは、割りこんだ事実さえ知らずにいることが多い。
声だけで姿を見せないところも胡散《うさん》くさい。いたずら電話が成り立つ理由もここにある。まちがい電話をかけておいて、なんの陳謝もせずに切ってしまうのも、もし顔を見せていたなら、けっしてありえないことだろう。
そのうえ、電話はとても軽い習慣だ。軽さは便利にも通じるけれど、軽薄さにもつながる。
大切な用件は、手紙を書くか、顔をあわせて伝えるべきものだろう。ところが、そんな分野にまでどんどん電話が入りこみ、のさばってしまう。
軽い話にふさわしいメディアだから、会話の中身もあらかた軽いものになってしまう。
——そんな話をするより、もっと大事なことがあるだろうに——
長電話を憎むのは、子どもたちが電話の持つ軽さとすっかりなれあってしまい、嬉々として首までつかっている、その姿をまのあたりに見せられ、それでいまいましく感ずるのかもしれない。
——俺たちが育った頃は、電話は貴重品だった——
その思いも残っている。
それゆえにけっして軽くはなかった。
商売でもやっている家でない限り、電話のある家はめずらしかった。町内に一、二軒だったろう。
賢三の育った家にはそれがあった。
時折、呼び出し電話がかかって来る。
「おそれいりますが、おむかいの池田さん、お願いしたいんです……」
そんなときに池田さんの家まで呼びに行くのは、たいてい子どもの役割だった。
「どうもすみません」
池田さんの家のご主人か奥さんが、何度も何度もお辞儀をしながら入って来る。重要な用件に限られていた。そんな様子を見ていれば、電話を遊び道具にすることなど、てんから思いつかない。
——池田さんの家には、かわいい女の子がいたな——
連想が、とんと飛躍する。
雪子という名前だった。名前の通り色が白い。顔だちは思い出せないが、色の白さと目の大きさだけは、なんとなく覚えている。
——初恋の人……かな——
苦笑が浮かぶ。
中学生の頃に手紙を渡したことがある。ラブレターのようなもの……。なにを書いたか、それも思い出せない。
さほどの内容ではあるまい。ただの身辺雑記……。だが、それを書き、それを渡した心根は、まちがいなく恋に属するものだった。
——手紙はいいな——
電話に比べれば、これは重い。電話の短所は、そのまま手紙の長所となる。相手をほとんど邪魔しない。よく考えたうえで書く。証拠も残る。受け取った側のありがた味もちがうだろう。
玄関のドアが開き、妻の久子が帰って来た。
智美の電話はいつの間にか終っていて、姿が見えない。
「なに笑ってるの」
「いや……。智美に言われたよ。長電話をしても、そんなにお金がかかるもんじゃないって」
「あの子、このあいだから自分が何分電話をかけるか、計っていたのよ」
「一カ月で千四百円くらいだってサ。自分でかけたのは」
「お小遣いから引こうかしら」
「余計にいい気になってかけるんじゃないのか」
子どもにお金を払ってもらえばいいってものでもあるまい。
「このごろの子は、みんなそうよ。うちだけじゃないわ」
久子は自分でも長電話をするから、このしつけに関しては少し甘いところがある。
「もっと手紙を書けばいいんだ」
「そうね。あなた、筆まめのほうですものね」
慣れてしまえば、手紙もそれほど面倒なものではない。
「電話万能の時代であればこそ、かえって手紙のほうが相手に与えるインパクトが強いんじゃないのか。会社の仕事でも、丁寧な手紙をもらったりすると、ないがしろにできないなって思うよ」
「ラブレターはいいもんよね。熟読玩味しちゃって……。相手の性格やおつむのぐあいもわかるし」
「それが困るときもある」
「あなた、うまかったわよ。それで欺されちゃったのかなあー」
久子も言葉じりを伸ばした。
「智美も隆も、手紙を書くことを身につけておいたほうがいいよ、これからはかえって」
「学校で教えてくれればいいのにね。漢文や源氏物語よりよっぽど役に立つんじゃないかしら」
なにもかも学校教育に押しつけようとするのは、このごろの女房族のわるいくせだが、それを言うと、またへんな議論になってしまうだろう。賢三はテレビに視線を戻した。
「いやあー、まいったよ」
翌日、賢三は会社の帰りに同僚の布田と酒場ののれんをくぐった。布田とは親しい。ざっくばらんの男である。
「どうした」
と賢三が尋ねれば、
「ガール・フレンドちゃんに手紙を送ってね」
と頭をかく。
布田に親しい女性がいることは、知っていた。多分あの人だろうと見当がつく。
「うん?」
「病気になっちゃって……。いつもは電話でしか連絡をしなかったんだけど、それじゃ情が薄いような気がして、見舞状を書いたんだ」
「なるほど」
「そうしたら、むこうに届かなくて、送り返されて来た。それを女房が読んじまって……」
「ただの見舞状じゃなかったのか」
「うーん。万一のことをおもんぱかって、そう過激なことは書かなかったんだけどなあ。ただ�好きなものでも買って食べてくれ�って少しお金を入れておいたもんだから……。�これ、なによ�ってことになる。そのうえで見舞状を読めば、匂って来るものがあるさ」
「まずかったな」
「まずい、まずい。手紙はよくない。やっぱり電話だけにしておけばよかった」
「手紙はわるいもんじゃないけどな。十時間たつと消えるインキを発明するかなー」
賢三も言葉じりを伸ばしてつぶやいてみた。
——久子は俺の手紙を今でも持っているのかな——
布田と別れて帰る道すがら賢三はとりとめもなくそんなことを思った。
結婚十年目頃まではたしか残してあった。
「後日の証拠のためにとっておくわ」
そう言って手紙の束をかかげていた。
あれから二度引越しをした。久子は捨てたかもしれない。しつこく残してあるかもしれない。
「今晩なんにします?」
「なんでもいいよ」
久子の顔を見るともなしに見つめた。
昔は、この顔を脳裏に浮かべながら熱い言葉を綴った。つぎからつぎへとよい言葉が浮かんだ。もうあの頃の感興《かんきよう》を胸に呼び戻すことはできない。
「どうしたの」
「いや、べつに」
賢三も何通かの手紙を手もとに残してある。久子からのものではない。ほかの女たち……。すばらしい手紙がいくつかあった。
——どこに置いたろう——
多分、あの引出しの奥。捜し出せば、消えた言葉が戻って来るかもしれない。