「あなた、起きて。もうギリギリよ」
季子《としこ》に声をかけられ、枕もとの時計を見ると、七時を八分過ぎている。目ざましをかけておいたはずだが、手ちがいがあったらしい。
「うん」
弘之は、のっそりと起きて頭をトントンと叩いた。
「直也は?」
と尋ねると、
「お父さん、何時に行くの?」
四年生の直也は鞄《かばん》を持って立っている。
「七時四十分……かな」
「間にあう?」
「大丈夫だ。急いで用意するから」
ゴルフ用のシャツを着てセーターをかぶった。
「直ちゃん、トイレは」
「うん、行く」
「歌でも歌って来い」
「どうして?」
「気分がほぐれるから」
トイレットは洗面所のすぐ隣にある。弘之が顔を洗っていると、直也の歌声が聞こえる。
弘之には思い出すことがある。
二十年以上も昔のこと……。弘之は田舎から上京して高等学校の試験を受けた。叔父の家に泊めてもらった。
「弘之さんはきっと入るわ」
叔母がそう言っていた。
その理由は、試験に出かける朝、トイレットの中で威勢のいい歌を大声で歌っていたから……。弘之自身は覚えていなかったが、なにかしら自分を鼓舞しようと、そんな意識があったのだろう。叔母の予想通り試験には無事に合格した。
わが子にも同じことをさせた。げんを担《かつ》ぐ気持が働く。
「よし、行くぞ」
「あなた、御飯は?」
妻が尋ねたが、
「いや、いい。むこうでなんか食う」
「開いているかしら、食堂?」
「なんかあるだろ。遅れちゃまずい」
トイレットから出て来た直也と一緒に家を出た。日曜日の朝は、駅まで行く道も閑散としている。
「会員になれるかなあ」
直也が下から父を見あげる。
「気楽にやれ。できなくたって、どうってこと、ないさ」
人生は長いんだから……。
今日はベスト塾の受験日。弘之はこまかいことまでは知らないけれど、ベスト塾は都内で最大の受験塾である。有名中学校の合格率も高い。
小学四年生の二学期が終る頃、この塾の会員選抜の試験がおこなわれる。まずこれに合格してベスト塾の会員になることが受験戦争の第一歩である。
「なにも小学生のときから受験勉強をさせること、ないだろう」
弘之は否定的だったが、季子のほうが、
「そんな暢気《のんき》なこと言ってちゃ駄目。区立の中学がよくないから、ここでひとふんばりさせておいたほうがいいのよ」
と主張する。直也を呼んで、
「どうだ、やるか」
と聞けば、
「うん。やりたい」
と答えた。勉強のきらいな子ではない。
「じゃあ、やってみろ」
当人がゲームでもやるような気分で挑戦するのなら、弊害も少なかろう。
試験場には白山のS大学が割り当てられた。戸越の家から地下鉄を乗り継いで行く。直也の知らない道筋だ。
「あなた、連れてってよ」
季子に頼まれ、
「日曜日の朝か」
「ゴルフに行くときはちゃんと起きるじゃない。私が行くとなると、用意が大変だし……お願い」
「わかった」
と承知した。
募集人員の三倍くらいの受験者が集まるらしい。なかなかの難関である。季子の観測では、
「直ちゃんは六・四で、会員になれるんじゃないかしら」
ということだった。
電車の中で直也は漫画雑誌を読んでいる。表情は子どもそのものだ。
——かわいそうだな——
しかし、男はどこかで戦わなくてはいけない。直也はよく育っている。勉強のきらいでない子にとっては、この戦いはまだましなほうかもしれない。
集合時間の十分前にキャンパスに着いた。
「じゃあな」
「うん」
直也を教室に送り込み、弘之は校庭に出た。父兄のための待合室が用意されていたが、そう広くはないし、中は教育ママばかりみたいな様子である。
男のつきそい自体がめずらしい。
——まあ、あそこは、お父様がつきそいにいらして——
好奇の眼で見られているような気がする。居ごこちがよくない。腹がすいていた。表通りのほうに出れば、コーヒー店のモーニング・サービスくらいはあるだろう。
校門のほうに向かいかけると、脇道のほうからヒョイと出て来た女と眼があった。避けようもない。
「あら」
「やあ」
どちらかが先に見つけたのなら、そっと姿を隠したのではあるまいか。
「お久しぶりですね」
花恵は眼を細め、まぶしそうな表情で笑った。
——少し老けたかな——
弘之はそう思い、そう思いながらも、
——いや、ほとんど変っていない——
と、矛盾した考えが頭の中をかけ抜ける。いろいろなことがいっせいに心に浮かぶ。
——六年ぶり。あの頃、直也はまだ幼かった。花恵にも同じ年齢の娘がいたんだ。たしか理恵ちゃん。だったら、花恵がここにいてもおかしくはない——
校門から外に向かう道を歩きながら、
「受験? こんなところで会うとは思わなかったな」
と呟いた。
花恵の記憶はまだ頭のあちこちにたくさん残っている。学生時代に知りあい、いっときは正真正銘の恋人同士だった。
それが別れるようになった理由はなんだったろう。よくわからない。とてもひとことでは言えない。説明がむつかしい。煎《せん》じ詰めれば縁がなかったから……。おたがいに短い恋の相手としてなら、そこそこにチャーミングであったけれど、一生の伴侶《はんりよ》としてはあやういものを感じていたのではあるまいか。
花恵は奔放な女である。気分屋さんだ。大切なのは、そのとき、そのときの自分の感情……。好きなものは好き。厭なときは厭。理性よりも感情が先に立つ。
別れをほのめかしたのは花恵のほうだった。
「もうやめましょ。なんだか疲れちゃった」
「そうかな。いいよ、俺は」
追いかけて行っても、それを見てとどまってくれるような女ではない。多少の曲折はあったけれど、見かけはあっさりと別れがきまった。間もなく花恵の結婚の噂を聞き、弘之も少し遅れて妻を迎えた。
だが、間もなく再会。銀座で信号を待っているときだった。
「よく似てると思ったら」
「当人ですもの」
「元気そうだね」
まるであらかじめ約束されていたことのようにたやすく親しくなった。花恵は自分のほうから別れを言い出したのを忘れたみたいに、
「あなたがいけないのよ」
と弘之を詰《なじ》りながら抱かれた。
なつかしい体だった。でも昔と少しちがう。微妙な変化がひどく卑猥なものに感じられた。
花恵は妻となり、一児の母になっていたが、本質は少しも変っていない。見かけは少しまともになっていたけれど、やっぱり感情の人である。情事は楽しいが、疲れることは疲れる。
今度は弘之のほうも慣れている。と言うより、以前のように重い関係ではないと、そうわりきっていたからかもしれない。危険ではあるが、ただの火遊びだ。深刻に考えることもない。厭ならば、そのときに別れればいい……。花恵もそれを望んでいる。花恵にはそんな関係がふさわしい。
不倫の関係は二年ほど続いた。
別れは前のときと同じように簡単だった。言いだしたのも花恵のほうだったし、台詞《せりふ》も似ていた。
「疲れちゃった」と……。
今度はもう会うまいと思った。理由はないが、なんとなく……。
関係がなくなってしまえば花恵は年賀状一つ寄こさない。どこで暮らしているのか、昔の住所でないならば、弘之はそれも知らない。
ところが思いがけないところで、まためぐりあってしまった。
「お茶でも飲もうか」
どうせ子どもたちのテストが終るまで二時間あまり待っていなければいけない。
「そうね。どこかあるかしら」
「表通りに出ればコーヒー屋くらいあるだろ」
「ええ……。ひどい恰好でしょ。寝起きなの。起きてすぐ出て来たのよ」
花恵は手に車のキーを握っている。朝、起きて、そのまま子どもを車に乗せて連れて来たのだろう。ほとんど化粧もしていない。髪を束《たば》ねているだけ。
「いったん帰るつもりだったのか」
「そう。四谷だから。住所、連絡してなかったわね」
「ああ。ここでいいだろ」
表通りを少し歩いてレストランを見つけた。
「朝御飯、まだなの」
「俺もまだだ」
二人そろってトーストを頼んだ。
「理恵ちゃんも四年生か」
「そりゃそうでしょ。同い年ですもの」
「一流校を狙っているわけだ」
「そうでもないわよ。四谷って、まん中でしょ。公立中学があんまりよくないみたい。いい子がみんな私立に行ってしまって……。おたくこそ一流校を狙ってんじゃない? 男の子だし」
「様子を見に来ただけだ」
「でも、受けてんでしょ?」
「受けてるけど、どうなるか、わからん」
「教育ママばっかりで……気おくれを感じていたの」
花恵はタバコを取り出して笑う。
「男は少ないから、俺も居ごこちがよくない」
「おたがいにミス・キャストね、本日は」
男と女の関係なんて、本当は取るにも足りないことなのかもしれない。お天気の挨拶《あいさつ》くらいのもの。会って握手を交わすくらいのこと……。深刻に考えれば、いくらでも深刻になるけれど、軽く考えれば軽くもなる。花恵とならば「どう、これから」と、ホテルに誘っても、それほど違和感はあるまい。もっとも花恵は応じまいけれど……。モラルの問題ではなく、彼女の感情が今はそちらの方角に向いていないから。
「おかしいな、こんなところで会うのは」
「そう。まだしもホテルの廊下あたりでバッタリ会うほうが似つかわしいんじゃない」
もしかしたら結婚していたかもしれない相手である。そうなれば直也はこの世にいないし、理恵ちゃんもいない。
六年前に再会したときは、季子と別れて花恵と一緒になることを……ほんの少しではあったけれど、頭の片すみで考えたりもした。そして、わけもなく同じ家に直也と理恵ちゃんと、同い年の姉弟《きようだい》のいる姿を想像した。
「大丈夫かな、やつら?」
弘之があごでキャンパスの方角を指す。
「おできになるんでしょ、おたくは?」
花恵は直也の名前も覚えていないだろう。
「いや、そうでもない。ただ……できるとかできないとかじゃなく、俺たちがこんなところで顔をあわせているのは、よくないな。神様が�不謹慎である�なんて怒って、いじわるをするかもしれない」
弘之は笑いながら告げた。
今の心理を伝えるのはむつかしい。少なくとも二人は格別わるいことをしているわけではない。偶然会ってコーヒーを飲んで……神様に叱られるほどのことではない。だが、子どもたちが必死に算数や国語の問題を解いている姿を思うと、微妙なうしろめたさを覚えてしまう。
花恵もそんな気分は同じなのだろう。
笑いながらうなずき、
「神様を信じているの?」
と聞く。
「いや、信仰はないよ。昔っから……。しかし、なんかこう、天の意志みたいなものを感ずるとき、あるだろ。わるいことしてると報《むく》いがあるような」
「それは感ずるわね。でも、神様って、そう単純じゃないわ。茶目っ気もあるし、なに考えてるのかわからないくらい、いい加減だし……。でなきゃ、今日こんなところであなたと会わせたりしないわ」
「まったくだ」
二杯目のコーヒーを注文し、近況を語りあった。
花恵の夫はコンピュータ関係の技師で、昨今はとてもいそがしいようだ。花恵もこのごろはパソコンをいじっているとか……。
「意外とおもしろいわよ。いろんなゲームがあるの」
「やるのか」
「ううん。私はワープロだけ。でも、いろんなプログラムがあって、私たち、それに操られているだけみたいよ。人生だって、そんなものじゃない」
「まあな」
花恵と弘之のプログラムはどうなっているのか。おそらくめぐりあいは二度まで。それでおしまい……。
「ぼつぼつ時間かな」
「そうね」
伝票を取って立ちあがった。
大学のキャンパスに着くのと、子どもたちが試験場から出て来たのが一緒だった。
そこで別れた。
花恵が理恵ちゃんを迎えている。母親の笑顔で。それなりのキャストを演じている。
子どもたちのプログラムが……受験戦争の第一歩がきまるのは、明日の午後である。