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家族ゲーム12

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:第十二話 花冷え オフィスの昼さがり。 三時五分前。 三時ちょうどになったら電話をかけようと、そう思っている矢先に卓上の
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 第十二話 花冷え
 
 
 オフィスの昼さがり。
 三時五分前。
 三時ちょうどになったら電話をかけようと、そう思っている矢先に卓上のベルが鳴った。
 古河が腕を伸ばして受話器を取り、
「もしもし、営業三課です」
 と答えると、
「古河さん……お願いします」
 と、耳慣れた声がこぼれる。
「私です」
 笑いながら伝えた。
「こんにちは。圭子です」
 この人の声はいつも明るく、ここちよい。
「いま、ちょうど君に電話をかけようとしていたところだ」
「本当? なんでしょう」
「いや。しばらく会ってないから」
 このまえ会ってから一カ月あまりたっている。一度は圭子の風邪で予定が流れ、そのあとに古河の出張があった。
 ——男と女は、どのくらいの頻度で顔をあわせていれば、一番よいのだろうか——
 公式があるわけではない。頻度そのものが二人の関係を表わしている。一カ月を越えるインターバルは、古河には少し長過ぎるように思えた。
「そんなになるかしら」
「うん。雪が降ってた」
「大分暖かくなりましたものね」
「会いたいと思って……。なにか用?」
「はい。ちょっとお話したいことがあって」
「うん。なんだろう」
「お目にかかれます?」
「もちろん。急いでいるわけ?」
「できれば、今晩あたり……。勝手を言ってすみません」
 圭子は、いまどきの娘にしては言葉遣いが整っている。ほどほどに親しく、ほどほどに礼儀正しい。好ましい特徴の一つである。
 ——二十七歳は、もう若い娘ではないか——
 言葉遣いが整っていて当然だろう。
 むしろ女性の言葉遣いなどに気がまわること自体、古河のほうが年を取った証拠かもしれない。来月の誕生日が来れば、三十九歳になる。四十も近い。ついこのあいだまでは「このごろの若い者は……」と、苦情を言われる側に属していたような気がするのだが、いつのまにかそれを言うほうの立場に入ってしまった。いや、現実問題として、それを言ったことはないけれど、言いたい気分にはよくなる。いまにきっと言いだすにちがいない。
「えーと、大丈夫かな」
 と答えて手帳を覗《のぞ》いた。
 今日の日付のところに�六時。Tホテル。緑川氏�と記してある。
 ——あ、そうか——
 明日も、明後日も、夜は日程がつまっている。
 ——緑川さんの用件は短いな——
 緑川というのは、いまは子会社へ移っているが、古河が入社した頃の上司である。親切に仕事を教えてもらった。きのうの午後に電話があって「スペイン語の書類をちょっと見てくれ」と頼まれた。古河はスペイン語が堪能だから……。はじめてのことではない。いつもTホテルのバーで会って十枚ほどの書類をチェックする。そのあと食事をすることもあったが、きのうの電話では、なにかしら緑川のほうもほかに大切なアポイントメントがあるような話だった。一時間もあれば終るだろう。
「すみません。無理のようでしたら……」
 と、圭子の遠慮がちの声が聞こえる。
「平気、平気。六時から人に会って、七時には終る。七時半なら確実だ。そのくらいの時間でもいいのかな」
「はい」
「じゃあ、なにか食べよう」
「よろしいんですか」
「おいしいものが食べたい」
「うれしい」
「なんにしよう?」
「なんでも」
「そうだな。中華にしようか」
「めずらしいわ」
「厭?」
「ううん。好きです。でも、いつも和食なんかが多いから」
 古河はカウンター割烹《かつぽう》のような店が好きなのだが、折り入った話を交わすにはこの手の店は向かない。
「ゆっくり話すには、テーブルのほうがいいだろ。Tホテルの別館、わかる?」
「はい」
 そこの中華料理店で会うことを約束して電話を切った。
 ——なんだろう——
 受話器を置いて考えた。
 よい話だろうか、わるい話だろうか。大切な話であるような、そんな口ぶりだった。
 サラリーマンの生活なんて、毎日毎日、ほとんど変化がない。来る日も来る日も同じようなパターンをくり返している。少なくともここ数年はずっとそうだった。
 ——昔はもう少しちがったかな——
 古河は二十八のときに結婚をした。職場結婚だった。一応は恋愛のうちだろう。あのときは毎日が輝いていた。同じ色あいではなかった。
 結婚を機に妻が退職し、二年ほど福岡へ転勤して新婚の日々を送った。福岡は……町のまん中に川が流れ、ネオンが水に映って揺れていた。あの頃を思うときは、いつもそんな夜景が心にのぼって来る。
 あとで考えてみると、妻の体はすでに蝕《むしば》まれていたのだろう。東京へ戻ってからだ。オフィスの電話が鳴り、
「ちょっと病院へ行きます」
 と、妻の声が聞こえた。
「へえー、どこかわるいのか」
 一瞬、妊娠のことを考えたのだから、愚かだった。
「言ったでしょう」
 仕事が忙しく、夜遅く帰宅することが多かった。ろくな会話を交わしていない。妻が話していても、ちゃんと聞いていない。風邪くらいだろうと思っていた。
「調子がわるいんなら、ちゃんと診てもらったほうがいい」
「ええ」
 夕刻もう一度電話がかかって来たときには、
「入院することになったの」
「えっ? どうして」
「とりあえず検査ですって。大丈夫と思うけど」
「うん。心配するなよ。帰りに寄る」
「そうして。遅くなるのかしら」
「いや、そんなに遅くない」
「待ってるわ」
 声がやけにさびしそうに聞こえた。妻には、なにかしら自分の病状について感ずるものがあったのかもしれない。
 それからは信じられないことばかりが続いた。妻の肝臓は、手術もできないほど手ひどく病いに冒されていた。せめて苦しみの期間の短かったことがさいわいだったろう。七カ月入院して妻は死んだ。
「福岡の頃が……」
 と、ほとんど聞きとれないほどかすかな言葉で囁《ささや》き、それが最後だった。「……楽しかった」と続くはずだったろう。
 以来、古河はずっと一人暮らしを続けている。
「再婚はどうかね」
 いろいろな人に何度も勧められた。
「はあ、そのうちに」
 いつも同じように答えて来た。
 しかし、答える側の心理は微妙に変っている。当初は死んだ妻への思いが残っていた。愛情とは少しちがう。三年ほどの歳月を親しく過ごしたという、その気配がいろいろなところに潜んでいる。たとえば、夜一人でテレビを見ているとき……。障子が開き「カステラ食べる?」と、いまにも声が響いてきそうに感ずる。カステラは妻の好物だった。同じメーカーのものでも、長崎の本店で売っているものが絶対にうまいと主張して譲らなかった。
「おきゅうとの�お�って敬語かしら」
 と、これも実際に妻に聞かれたことだ。おきゅうとは福岡の食べ物だ。ほかの地方ではほとんど見たことがない。鈍い緑色の、ところてんのような食べ物……。酢醤油《すじようゆ》につけてつるつると食べる。格別うまいものとは思わないけれど、福岡の人は好んで食べる。
 新婚の頃は、たわいのないことをやって遊んだ。遊びのたわいのなさが楽しかった。
「しりとり、知ってる?」
「知らんやつ、いないだろ、日本人なら」
「やろう」
 と妻が子どもみたいに誘う。
 古河が�はつがつお�と言い、そこで飛び出したのが�おきゅうと�だったのだ。しりとり遊びでは、敬語の�お�はルール違反となる。これを除くと頭に�お�のつく言葉は思いのほか少ない。
「おきゅうとは、きゅうとに�お�がついたわけじゃないだろ」
「じゃあ、おきゅうと」
 こんな思い出が身近に漂っているうちは、新しい妻を迎えてはならないと古河は思った。
 そのうちに面倒になる。
 ——せっかく一人になったのに、なにも再婚することもないか——
 慣れてしまえば気軽なものだ。
 はじめからずっと一人というわけではない。一度は結婚をした。やることは一応やった。新婚の甘い蜜もそれなりに味わったことだし、男と女が一緒に暮らすわずらわしさも少しわかった。それに、昔はいざ知らず、昨今は男の一人暮らしはけっして不自由ではない。近所のスーパーマーケットへ行けば、たいていのことは間にあう。
「あっちの欲望は、どうするのかね」
 これも仲間たちによく聞かれた。結婚にはもう一つ、大切な要素がある。
「妻帯者よりかえって豊富なんじゃないすか」
 と、答えた。
 なかばジョーク。なかば本気。独り身であればこそ、どこでどんな遊びをやったところで咎《とが》められる理由はない。
 しかし、圭子を知って少し変った。
 人間の心なんて勝手なものである。よい対象が現われれば、
 ——いつまでも一人でいることもないか——
 と、たちまち変ってしまう。
 圭子と知りあったきっかけは、スペイン語用のポータブル・タイプライターを買ったから。男女の縁なんて、どこに転がってるかわからない。圭子はそういう事務器を扱う専門店の売り子だった。
「スペイン語、うまいんですね」
 たまたまスペイン人と一緒だった。
「それほどでもない」
「私、習おうかしら」
「教えましょうか」
「本当に?」
 スペイン語は教えなかったが、スペイン美術展を一緒に見に行った。それがきっかけで少しずつ親しくなった。
 はじめに関心を持った理由は、やはり容姿の美しさだったろう。美しいと言うより、古河の好みにあっていた。
 色が浅黒い。
「地黒なの。子どものときから……。クロちゃんてよく言われたわ」
 小麦色の健康色で、肌に弾力が感じられる。そして、その肌の黒さが瞳の黒さとよくマッチしている。髪も黒い。そう、ちょっとスペイン風……。鮮やかな緑色のワンピースなどを着ていると、とてもよく似合う。
 そして、圭子は話がおもしろい。特におしゃべりではないし、おかしいことをたくさん言うわけでもないのだが、話が終らない。
 奇妙なたとえかもしれないが、若い女性の中には、袋小路みたいな話しかできない人が多い。
「きのう、銀座でイタリア料理を食べたの」
「どうだった?」
「おいしかった」
 聞き耳を立てていても、話はそこで終ってしまい、あとが続かない。続いたとしても、同じ中身をくり返しているだけ。なんの発展もない。古河に言わせれば、これが袋小路みたいな話ということになる。
 圭子は短い沈黙のあとでポツリと呟く。
「セピア色って、どんな色ですか」
「古い写真の色なんか言うんじゃない。少し茶色味を帯びた黒」
 烏賊墨のスパゲティはイタリア料理の代表的なメニューである。セピアは、その烏賊墨《いかすみ》のことだ。圭子の頭の中にそんな連想があって、セピア色の質問が出て来たのだろう。
「でも、烏賊墨のスパゲティって、まっ黒になるわ、歯なんかが。古い写真の色とは、ちょっとちがうみたい」
「うーん。しかし、烏賊の墨ってのは、薄めると、少し茶色っぽいんじゃないのかな」
 少し話が途絶え、つぎには、
「テレビの時代劇って、お歯黒にしている奥さん、いませんね」
 スパゲティから江戸の風俗へと飛ぶ。
「女優が厭がるのかな」
「老けちゃいますものね」
「ちょっと色っぽい」
「そうですかあ。ああいうの、好みなんですか」
 つまり年齢のわりには知識が広い。頭の中にさまざまな連想が駈けめぐっているのだろう。それがピョコン、ピョコンと飛び出して来る。なぜさっきの話とこの話とが繋っているのか、聞き手のほうにも知識がないとわからないときがある。イマジネーションを働かせないと、楽しめないことがある。そのかわり、連想の仕組みがよくわかったときには、
「ねっ?」
「ああ」
 頷《うなず》きあうような喜びがふっと流れる。
 ——そんなもの、ちっとも楽しくないよ——
 という男もいるだろう。
 たまたま古河がそれを好んだのかもしれない。
 とはいえ、こうしたことは語り手の個性にかかわるものだろう。同じことをほかの女がやっても、それほど古河は楽しめないかもしれない。そんな話し方が圭子によく似合っていて、しかも、それが古河の好みであったということ、男女の親しさは結局のところ、性があうかあわないか、それだけのことなのかもしれない。
 ——今夜七時半に会うとして……いい話かなあ——
 古河の連想もとりとめもなく飛んで行く。
 ——高等学校で習ったなあ——
 英語の教師の話だった。この教師は寝相がよほどわるいのか、いつもうしろ髪がピンと立っていた。
「形容詞ってのは�よい�か�わるい�か、どっちかの意味だ。とりあえず、どっちかに見当をつけて訳してみればいい。それをまちがえるようじゃ、ゼロ点だ。あははは」
 英文を読んでいて、わからない単語に出くわしたときの対策である。形容詞らしいとわかったら、その先は�よい�か�わるい�かどちらかだと思えば、当たらずとも遠からず。�美しい��おいしい��明るい��親しい��現代的だ�みんなよい意味である。�みにくい��まずい��暗い��こわい��古くさい�こっちはわるい意味である。どっちとも決められないケースもあるけれど、たいていはどちらかに分けられる。大意を掴《つか》むのにはこれでいい。
 ——人生もそうかな——
 よいこととわるいことと、おおむね二つに分けられるのではあるまいか。古河は電話をとる一瞬にもよくそんなことを考える。通勤電車の中でも、
 ——今日は、よいとわるいと、どっちの一日になるかな——
 と思う。
 人間関係についても、
 ——こいつは俺にとって、よいやつなのか、わるいやつなのか——
 分類して考えてみたりする。
 死んだ妻はどっちだったのか。
 職場には口のわるい男がいて、
「若くて死んだ女房ってのは、みんないい奥さんなんじゃないのか」
 と、大胆な意見を吐く。
 ——それはそうかもしれない——
 子どもさえ残して逝かなければ……。
 こんな連想のあとで、わけもなく圭子の言葉を思い出した。
「生き別れはいいけど、死に別れはよせって、そう言いますよね」
 まだ知りあって間もない頃だったろう。あの頃だったから、圭子もこんな台詞が屈託もなく言えたのではあるまいか。
 言葉の意味は……そう、離婚した男に嫁ぐのはいいけれど、妻と死別した男はよせということ。死者というものは時間の経過につれ、よい思い出だけが濃くなっていく。そのあたりに死者の特権があるらしい。
「死んだ人と比較されちゃあ、かなわんてわけか」
「そうなんじゃないんですか」
「うーん」
「器量だって、むこうは年を取らないし」
「そりゃそうだ」
 圭子と結婚しようなんて、いささかも考えていなかったから、気軽にあんな会話が交わせたのだろう。いまは少しむつかしい。
 
 五時四十分に仕事を終え、机の上を片づけてから、
「お先に」
 と、オフィスを出た。
 Tホテルへは公園を抜けて行く。白い花が咲いている。多分、桜……。
 そのわりには寒い。横断歩道を急いで渡ってTホテルへ入った。
「やあ、久しぶり」
 緑川は先に来て待っていた。
「ご無沙汰しております」
「元気そうだね」
「まあ、なんとか」
「奥さんは、まだかね」
「もう少し独身を楽しんで」
「もう充分だろう。なにを飲む」
「ビールでも」
「ビール、頼む」
 緑川はボーイに声をかけながら鞄から書類を抜いてさし出す。
「七時頃まででよろしいですか」
 書類の分量を確かめながら古河は念を押した。
「ああ、いいよ。私も用があるから。めしはこのつぎにでもゆっくり食おう」
「ええ。これは……」
「私信なんだけどね。君に一応目を通してもらったほうが安心だから」
「私だって、こまかいことはわかりません。文法的にまちがっているかどうか、そのくらいのチェックですよ」
「いや、いや、君のスペイン語は、ものすごくうまいって、評判だよ」
「そんなことありません。赤を入れて、いいんですか」
 書類はタイプライターできれいに打ってある。
「遠慮なくどんどん」
 おおむねよくできている。ただ硬すぎる表現がいくつかある。ところどころを赤いボールペンでなおした。
 会社でも古河のスペイン語には定評がある。大学で専攻し、スペイン本国へ二年ほど行って遊び暮らした。妻が死んだあと、また勉強をやりなおした。スペイン語のために費した時間は長い。
「よく書けてるんじゃないですか」
 チェックには五分とかからなかった。
「なにか食べるかね。サーモンとか」
「いえ、このあと食事の予定があるものですから」
「あ、そう。いい話かな」
「いや、野暮用です」
 と、煙幕を張る。
 緑川はビールをグイと喉に流し込んでから、
「サンパウロで、重信君に会ってねえ」
 と身を乗り出す。
「はい?」
「君と同期だろ」
「いえ。重信さんのほうが一年先輩でした」
 七、八年前に会社を辞めた男である。たしか父親の会社を継ぐような話だった。
「むこうで羽ぶりよくやっているんだ」
「あ、そうですか」
 かろうじて顔が思い出せるくらい……。あまり敏腕な社員ではなかった。そんな印象が残っている。
「そうなんだよ。こっちにいたときは、とろくて、なにを考えてんのかわかんなくてねえ。�ありゃ、なんだ�って風当たりが強くて」
「そんなふうでしたね」
「よく泣いてたんだ。男のくせに」
「男でも泣くときは泣くんじゃないですか」
 カラオケの歌詞を聞いていると、男はわりとよく泣くものである。圭子がいつかそう言って笑っていた。
「うーん。俺はずいぶんかばってやったんだよ。根はわるいやつじゃないし、どっか見込みがあると感じてたのかなあ」
「緑川さんはやさしいから」
 これはお世辞である。当たりはやわらかいが、それほどやさしい人ではない。
「ところがサンパウロじゃ見ちがえるほど、うまくやっててねえ。いろんな連中と繋りがあるんだ」
「水にあったんですかねえ」
「そうなんだろうなあ。もちろん彼自身も成長したんだろうけど」
「そうでしょうね」
「俺が昔、いろいろかばってやったことを忘れずにいてくれてねえ。恩返しのつもりなんだろうなあ。本当に献身的によく気を使ってくれて……。助かったよ。いっぺんに見通しが明るくなった」
「よかったですね」
 緑川がサンパウロでどんなビジネスをやっているのか、こまかい事情までは知らない。しかし、発展途上国は人の縁がものを言う。有力者の紹介があれば、ずいぶん無理な商談でも成功するが、つてがなければうまく行きそうな話も最後で頓挫する。緑川はよほどよい思いをしたのだろう。
「あんなふうになるとは思わなかったけどなあ。男の社会ってのは、これがあるから油断できない」
「はい?」
「反対の例が谷田さんよ」
「知りません」
 と、古河は首を振った。
「知らんかなあ。ろくでもない部下がいたもんだから、どんどん油を絞ってやったら、十年後、谷田さんがちっちゃな会社の社長になってみると、そのろくでもない野郎が、一番大事なお得意さんの社長になっててさあ。谷田さん、会ったとたんから、ものすごい眼で睨まれて」
「こわい話ですね」
「こわい、こわい。谷田さんも、ちょっとネ、意地わるいところがあるから、昔は、いびったんじゃないの。その仕返しをたっぷりされちゃって……。間もなく谷田さん、社長を辞めたけど、理由の一つはあれじゃなかったのかな」
「ありえますね」
「だからサ、どんなときでも、あんまり阿漕《あこぎ》なことやっちゃいかん。いつ立場が逆転して、こっちが弱い立場に立つかわからん」
「そうですね」
「人生は意外に長いからな。二十年後、三十年後はどうなっているかわからない。男同士は長期市場なんだよ。いまサービスを提供しておくと、ずーっとあとになって、それが返って来たりする。それを当てにしてサービスをしているわけじゃないけど、心のどこかに長期市場的な展望があって、目先のことだけでつきあってるわけじゃない」
「わかります」
「いまに君が偉くなって……」
「いえ、いえ、それはありません」
「ある、ある、期待してるよ」
 緑川の腕時計がカチンと小さな音を立てた。七時の合図らしい。
「じゃあ、きょうは、これで、ありがとう」
 緑川が時計を見て立ちあがった。
「よろしいんですか、ご馳走になって」
「もちろんだ。こんなものじゃ申し訳ない。またゆっくりと」
「いろいろお話をお聞かせください」
「うん。じゃあ」
「失礼します」
 キャッシャーの前で右左に別れた。
 
 圭子と約束した時刻には、まだ少し早い。
 このホテルの構造はよく知っている。
 中二階のロビイにあがり、ソファに腰をおろして、さんざめく人の群れを眺めおろした。
 ——どうするかな——
 圭子に対しても、もうぼつぼつ決心を固めなければいけない時期にさしかかっている。
 圭子は若い頃にとても親しい男がいて、婚約のような段取りまで行ったらしいが、そこで男が事故死をした。多くは語らないが、結局のところ、それがいつまでも結婚をしないでいる理由だろう。二十七歳になって……もうそろそろ圭子も気持を整理しなければなるまい。
 ——男と女はどこで知りあうのかな——
 見えない、赤い糸で結ばれているなんて、昔の人は、おもしろい仮説を立てたものだ。本当にそうとでも思わなければ納得のできないような結びつきがたくさんある。このホテルのロビイなんか、今、さかんに赤い糸が乱れ飛んでいるにちがいない。
 圭子とは……はじめは本当に軽い関係だった。少なくとも古河のほうには、なんの願望も野心もなかった。あの頃の古河は結婚について一種のモラトリアムのような状態で、いつ決めてもいいが、どこまで延ばしていてもかまわなかった。圭子と知りあい、
 ——この人、楽しそうだな——
 一緒に食事をしたり、映画を見に行ったりする。一人よりはまちがいなく楽しい。
 だが、間もなく、
 ——この人、意外とわるくないな——
 と気がついた。
 古河の気持を説明すれば……あせることはなにもない、よい縁があれば、そのときでよい、知りあえる女の数なんて、本当にたかが知れている、少ない数の中から選ぶのでは、必然性がとぼしくなる。つまり、選んだように見えるけれど、それは当人がそう思っているだけで、ただめぐりあった女と妥協しただけのこと、数学的にはそうなるだろう。
 しかし、たった一つ、めぐりあったものが、最高であるというケースも、可能性としては皆無ではない。百人の女性と知りあうとして、まあ、常識的には一番よい人にめぐりあうのは、しばらくたってからだろうけれど、最初の人が一番で、あとの九十九人はそれ以下ということも、あることはある。
 人を好きになるというのは、こういうロジックを、感情として納得し、論理としても、
 ——そういうめずらしいことが、いま、起きたんだ——
 と、合点することだろう。
 古河はたしかにその道筋を踏んだ。圭子に会うたびに、
 ——これはめっけものだぞ——
 新しい魅力を感じた。
 急速に親しくならなかったのは、忙しさのせい、年齢のせい、そして簡単には理由の説明できないためらいのせいだったろう。
 せちがらい話かもしれないけれど、いつのまにか圭子のためなら、かならずよりよいものを選ぶようになっていた。たとえば、
 ——今日はどこで食事をしようかな——
 AとBと二つの料理店が心に浮かぶ。その結果、かならずレベルの高いほうを選んでしまう。たとえ懐ぐあいが苦しくても……。
 ——CとDと、どちらの贈り物を選ぼうか——
 これも少々無理をしても高価なもののほうを選んでしまう。
 いつもの背広で会おうかクリーニング店から戻ったのを着ようか、ここで別れようか送って行こうか、タクシーに乗ろうか歩かせようか、こまかいことに至るまで、ほとんど無意識のうちに、圭子のためには、よりよいものへと傾く。好きになるということは、こういう点に如実に表われるものだ。
 ——圭子のほうにも同じような心理が働いているのではなかろうか——
 それを感じたときは、うれしい。
 恋愛とは、おたがいに自分の魅力をあらわにし相手の魅力を引き出し、少しずつ高みへ昇っていく作用なのかもしれない。ほかの人の眼にはどうあろうと、二人の眼の中にそれが確認できることが、恋の実相なのだろう。
 圭子と知りあって二年あまり、はじめはゆっくりと、昨今はかなり急速に、そんな坂道を昇って来たような気がする。機が熟しているのかもしれない。
 七時二十五分になった。
 古河はソファを立って、別館の中華料理店へ向かった。
「いらっしゃいませ」
「二人」
 と呟き、ふり返ると、圭子がうしろに立っている。
「いまですか?」
「そう」
 奥まった席に案内された。
「なにを食べる」
「適当に選んでください」
「うん」
 やはりちょっとよいものを選ぶ。
 まずビールを飲んだ。圭子が椅子の背後をさぐり、
「これ」
 と、きれいな紙包みをさし出す。
「なんだろう」
「色がきれいだったから」
 贈り物らしい。誕生日は……まだ少し先である。
「開けていい?」
「どうぞ」
 紺のスカーフ。うっすらと赤いストライプが染めてある。とてもよい色あいだ。
「紺が好きなんだ」
「ええ」
「とくにこんな色」
「わかるわ。あなたの好きなものは」
 と、圭子は言う。
「本当に?」
「はい」
「なんでも?」
「わかります」
 黒い瞳が光って、まっすぐに飛んで来る。
 ——好きな女もわかりますか——
 と、古河も視線で尋ね返した。
 ——ええ、わかります——
 圭子も視線で答える……。
 ——それはあなたですよ——
 ——はい——
 この瞬間、たしかにこんな会話が眼と眼で交わされた……。古河は、言葉より確かなものとしてそれを感じた。視線で交わす会話は、けっして明快な伝達ではないけれど、
 ——これはまちがいない——
 と、そう信じうるときが……言葉よりよほど確かに信じうるときがあるものだ。
 この瞬間がそうだった。
 古河は「あなたが好きだ」と言い、圭子は「わかります」と答えた。それは疑いない。
 ふかひれのスープが運ばれて来て、短い緊張がほぐれた。
「用って、なんだろう」
「ええ」
 その答が語られるまでには、思いのほか長い時間がかかった。
 あいだにとりとめのない会話が挟まり、圭子が古河の問いに答えたのは、食事も終りに近づく頃だった。
「実は、結婚をしようと思って」
 圭子は明るい声で告げて笑った。
 ——私と?
 と古河は尋ねかけ、
 ——それはちがう——
 と理解した。文脈がそうは続かない。
「ほう」
「急な話なんですけど……遠い親戚の人なんです」
 眼を伏せて言う。
 どうしてそういうことになったのか、圭子はポツリ、ポツリと、少ない言葉で要領よく語った。
 ——なるほどね——
 古河の心の中に納得が広まる。
 紺のスカーフは、別れの記念品。おわびの印なのかもしれない。そして、さっきの視線は、
 ——あなたの心はわかっています——
 だったろう。
 古河が圭子の視線をそう読み取ったところまではけっしてまちがいではなかった。
 ——でも駄目なんです——
 と、圭子は、今、眼と口で伝えている。
「おめでとう」
 とりあえずそう呟いた。
「ありがとうございます」
 大切な話は短かった。圭子はこのあとになにか予定があるような口ぶりである。結婚する相手と会う約束になっているのかもしれない。
 デザートの苺を一つ残して外へ出た。
「君のこと、好きなんだけど、もう駄目かな」
 一度だけは明快な言葉で尋ねておきたい。さもないと後悔する……。敗戦処理のようなものかもしれない。
「ごめんなさい」
「もう絶対に?」
「はい」
 圭子は黒い瞳で答えた。
「うん。わかった」
「ごめんなさい」
 もう一度、同じ言葉で言った。
「福岡へ行くんです」
 男はそこに住んでいるのだろう。
「本当に。ごみごみしてるけど、夜はきれいな町だ」
 圭子も水面に浮かぶネオンを見るにちがいない。
「さようなら」
「ご機嫌よう」
 地下鉄の入口で別れた。
 ——もう会えないな——
 会うことはあるかもしれないが、そのときは今とはちがう二人になっているだろう。
 古河は道を戻って夜の公園に入った。
 この公園を通り抜けるあいだに気持の整理をすませたい。
 ——少し損をしたかな——
 けっしてせちがらいことを考えたわけではない。
 ——これはこれでいい——
 わるくない男女の関係だった。
 ただ……なんと説明したらよいのだろうか。わけもなく緑川の話を思い出した。サンパウロにいる重信とかいう男のことも……。
 ——男同士は長期市場だよ——
 と緑川は頷いていた。
 提供したサービスが十年後に、二十年後に返って来ることがある。明確にそれを期待しているわけではないけれど、心のどこかにそんな意識がある。そんな市場が形成されている。
 ——男と女は短期市場だな——
 短い期間のうちに回収しなければ、あとはもう遠い関係に変ってしまう。
 それが困るというわけではない。男と女はそういうものなのだ。
 公園を通り抜け、馴染みのバーに立ち寄った。いつもと変らない喧騒。
「なあ、ママ、いっぺんくらい俺とつきあってくれよ」
 赤ら顔の男がママを口説いている。よく見る顔だ。彼はたっぷりとママに入れあげ、短いうちにサービスの代償を回収しようとしているのかもしれない。
 古河はホット・ウイスキーを一ぱいだけ飲んでバーを出た。
 また風が冷たくなった。
 白い花びらが雪のように一つ、二つ、落ちて来る。
 ——寒い——
 古河はコートの襟を立て夜道を急いだ。
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