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楽しい古事記01

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:国の始まり   イザナギ・イザナミによる建国 まず初めにイザナギの命《みこと》、イザナミの命、二人の神様があった。男神と
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国の始まり
   ——イザナギ・イザナミによる建国
 
 
 まず初めにイザナギの命《みこと》、イザナミの命、二人の神様があった。男神と女神である。神様は通常一|柱《はしら》、二柱と呼ぶものだが、それでは親しみにくい。人間くさい神々に登場してほしく、ここでは一人、二人、三人と数えよう。お許しいただきたい。
 この二人より先に五神と六代、都合十五人の神々の名があるのだが、いちいち掲げるのはややこしい。古典はおもしろい部分から入門するのが私のモットーだ。それゆえに五神と他の六代は省略。イザナギの命、イザナミの命のエピソードがひときわ内容が豊富で、肝要である。
 さて、男女二人の神様はドロドロと漂っている混沌《こんとん》状態を�固めて国を造れ�と命じられ、天《あめ》の浮橋という天と地を結ぶ階段に立って、天の沼矛《ぬぼこ》という矛を、さながら長いマドラーのようにグルグルまわして、ポタリ、しずくをしたたり落として、これがオノゴロ島となった。国造りの拠点を得たが、それが今日のどこかはわからない。
 が、それはともかく、二人はオノゴロ島に降り立って柱を建て、建て終わったところで有名な問答を交わしあう。原文に近い形で引用するが、きっと一度くらいは小耳に挟んだことがあるだろう。
「汝《な》が身はいかに成れる?」
「吾《わ》が身は成り成りて、成り合はぬところ一処あり」
「我が身は成り成りて、成り余れるところ一処あり。吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合はぬ処に刺し塞《ふた》ぎて、国土生みなさむと思ふはいかに?」
「しか善《え》けむ」
 と、直截《ちよくせつ》なセックス描写なのだが格調は高い。
 ——それにしても�刺し塞ぎて�なんて言っていいのかなあ——
 若い頃に読んでドキンとしたものだった。
 あるジョークによれば、太古、皮袋を縫って人体を創るとき、半々に切るべき縫い糸を六・四に切ってしまった。長い糸で縫い終わると糸が少し余ってしまった。わきの皮膚を少しつまんでグルグルグル、糸で巻いて棒を作った。一方、短い糸では縫いきれず、穴が残った。これが男女の誕生であったとか。イザナギの命、イザナミの命も神様ながら、二人の会話にはこのジョークを髣髴《ほうふつ》させるところがある。
 イザナミの命から「しか善けむ」つまり「いいわよ」と快諾をもらったイザナギの命はいま建てた柱を左からまわり、イザナミの命は右からまわり、両側からめぐりあって、
「あなた、いい男ね」
「あなたもいい女だなあ」
 褒めあってまぐわい、国造りを始めたが、生まれた子も生まれた島もあまり様子がよろしくない。
 ——なぜかしら——
 天意を尋ねると「女が先にものを言ったのがよくない」とのこと。いや、いや、いや、ウーマン・パワーから苦情が出そうだが、私が言うのではない。古事記にそう書いてあるのだ。
 そこでイザナギの命、イザナミの命は柱の前に戻ってもう一回まわり直し、
「あなた、いい女だなあ」
「あなたこそいい男ね」
 順序を変えて褒めあい、まぐわって今度はりっぱな子を生んだ。子と言っても初めは島々である。まず淡路島、それから四国、隠岐《おき》、九州、壱岐《いき》、対馬《つしま》、佐渡、そして最後に本州、数えて八つ、日本の国を大八島《おおやしま》と呼ぶのはこのためである。
 ご存知、柴又の寅《とら》さんは「物の始まりが一ならば国の始まりが大和《やまと》の国、島の始まりが淡路島」と言うけれど、香具師《やし》の口上もばかにはならない。たいていのものは一から始まるし、日本国の始まりが大和の国だというのは大和朝廷を国の基《もとい》とする皇国史観の原点、古事記の思想そのものであり、島の始まりが淡路島というのは国造りの冒頭に掲げられている記述なのである。
 それにしても、この八つの島の並べ方は、どことなくチグハグだ。大きさがちがいすぎる。北海道や沖縄がないのは(遠隔の地だから)ともかく、壱岐を挙げるなら天草《あまくさ》島、平戸《ひらど》島、ほかにも挙げるべき島があるだろう。が、それは地図を見慣れた現代人の感覚というもの。古代人は島々の大きさを充分には知らなかっただろう。大和の国からながめて淡路島は外せない。四国と九州はやっぱり大きい。隠岐、壱岐、対馬は大陸からの文化伝来の拠点として知られていたにちがいない。佐渡は、遠い遠い海上の孤島であったろう。最後に自らが立つ本州を置いて(これが一番大きそうだとは知っていた)大八島にまとめたのではあるまいか。
 このあと落穂拾いでもするように吉備《きび》の児島《こじま》、小豆《あずき》島、大島、女《ひめ》島、知訶《ちか》の島、両児《ふたご》島の六島を造って島造りは完了するが、吉備の児島は岡山県の児島半島で、島ではない。正確な地図がなければ(海上からながめれば)半島と島の区別はつけにくい。小豆島は瀬戸内海の小豆《しようど》島、大島は山口県の屋代《やしろ》島(あるいは愛媛県の大三島)、女島は大分県北端の姫島、知訶の島は五島列島、両児島は特定できない。往時の人々が地名を聞いて、どのように海図を頭に描いていたか、その一端を垣間見《かいまみ》ることができるようで興味深い。
 島々を造り終えたところで、イザナミの命は、さまざまな神々を産み始める。力を象徴する神を手始めに住居の神、海の神、河の神、水の神、風の神、木の神、山の神、野の神、土の神、霧の神、谷の神、船の神、食物の神……やがて火の神を産んだときイザナミの命は下腹の大切な部分を大《おお》火傷《やけど》、七転八倒の苦しみの中でなおも神々を産んだが、ついに命を落としてしまった。
 イザナギの命は、
「たった一人の火の神のために、最愛の妻を失ってしまうとは、なんたる悲惨」
 と嘆き悲しみ、泣く泣くイザナミの命を出雲《いずも》と伯耆《ほうき》の国境にある比婆《ひば》山に葬るかたわら手にもった長い剣で、
「こいつ、許せない!」
 火の神の首を斬り落とした。剣は十拳剣《とつかのつるぎ》、刀身が握り拳《こぶし》を十並べた長さがあるからだ。
 このとき流した涙から、はたまた剣の血糊《ちのり》やしたたりから、さらには殺された火の神の体などから十七神が誕生し、それぞれ名前もあるし役割もあるのだが、ここではとりあえず、
 ——いろんなところから、いろんな神様が誕生するものなんだなあ——
 と、古事記の多神性を感じ取って先へ進むこととしよう。
 
 朝九時過ぎタクシーを頼んで宮崎市内のホテルを出発した。目的は霧島山の観光だが、
「その前に東《つま》霧島神社へ立ち寄ってください」
 と運転手に頼んだ。
「東霧島神社?」
「東と書いてツマと読むらしい」
「ああ、霧島東神社ね」
「それとはちがうと思います。霧島東神社ってのは御池《みいけ》の近くでしょ」
「ええ」
「それじゃなく高崎町にあって、駅で言うと高崎新田と東高崎の間くらい……」
 と、私はガイドブックと地図を交互に見ながら説得した。
 もとより知ったところではない。知らないから見に行くのである。運転手に言えばすぐにわかるものと思っていたが目論《もくろ》みがはずれた。なにしろ宮崎県は神々の故里《ふるさと》だから神社はたくさんある。よほど周辺の地理に明るい運転手でなければ知らない名所もちらほらあるらしい。
 運転手が無線で営業所に連絡を取り、
「わかりましたァ」
 と頬笑んだけれど、その実、そう簡単ではなかった。
「なぜ東と書いてツマと読むのかな」
「さあ」
 所在地さえわからない人には無理な質問だったろう。
 高速道路を高原《たかはら》町で降りて東へ戻る感じ。一度矢印のついた案内板を見たのでまちがいはなかろうと思ったが、そこからまた走ること、走ること、いっこうに次の案内板が現われない。
「通り過ぎたのかなあ」
「聞いてみます」
 が、尋ねようにも開いている店一つない。家並は続いているのだが人の姿がさっぱり見えない。ようやく花の手入れをしている婦人を見つけて車を止めると、
「この先です」
 通り過ぎてはいなかった。
 分かれ道を右に曲がり、また案内板を見つけて、
 ——もう近い——
 と思ったが、素人のあさはかさ、それからまたまちがえて丘を一周し、
「この案内板、紛らわしいなあ」
「こっちの道ですね」
 さらにしばらく走って、ようやく東霧島神社へたどりついた。由緒はあるのだが観光客の訪ねる神社ではないらしい。地元の人が知っていればそれでよいのだ。
 ——私も粋狂だな——
 と苦笑しながら境内へ入った。
 訪ねた理由はただ一つ、ここに裂石《さけいし》があるから……。
 イザナミの命が火の神を産んだとき体に……正確には陰部に大火傷を負った。それがもとで死んでしまう。イザナギの命がおおいに怒って、
「お前のせいだ!」
 と、火の神を斬り殺した。その事情はすでに述べた。
 斬られた火の神は石となって、この地に残り、それが裂石の縁起由来である。石は三つに斬られ、一つは宮崎市の新別府川のほとりまで飛んだとか。直線距離を計っても約四十キロメートル。
 ——よくも、まあ、飛んだものだなあ——
 と思ったが、
 ——待てよ、待てよ——
 イザナミの命の亡骸《なきがら》を埋めたのが出雲と伯耆の境。現在の広島県の北東部、立烏帽子《たてえぼし》山のすそにある比婆山がその地だと伝承されている。さらに日本書紀によれば、イザナミの命を葬ったのはそこではなく紀伊《きい》国熊野の有馬村だと言う。これは三重県の熊野市だ。どちらにせよ宮崎からはるか遠く離れて四十キロどころの騒ぎではない。
 まあ、まあ、まあ、神話の世界はスケールが大きい。とりわけ日向《ひゆうが》、出雲、熊野の三地域は関わりが深い。なにかしら時空を超えて伝承のつながりがあるらしい。さまざまな学説があるけれど、素人にはよくわからない。ありのままをながめて旅をすることにしよう。
 さて、東霧島神社の裂石だが、境内に入り、社務所の前を過ぎると本殿に参拝するより先に、ありました、ありました、小暗《おぐら》い繁みの下に鳥居を立て注連縄《しめなわ》を巻き、高さ一メートルあまり、横幅二メートル弱、奥行きはもう少し長く、その奥のところでザックリと斬られて二つに分かれている。割れたというより、鋭利な刃物で斬られたような斬り口を露呈している。
 もともとこういう石だったのか。それともなにかの目的で斬られたのか。だったら、
 ——だれが、なんのために——
 と考えたが……あははは、それはイザナギの命が火の神を斬ったからでしょう。それを見るために私はわざわざ遠路はるばるここまで訪ねてきたのだった。
 大石は浅い水の中に置かれていて清水が流れ込んでいる。それはイザナギの命の涙であり、旱魃《かんばつ》のときにはこの石に水を一滴注げばそれが呼び水となってたちまち雨が降るそうな。雨乞《あまご》いの神石として信仰を集めて来たのだと言う。
 私としてはこの先もう少し旅を続けるつもりだったから雨降りはありがたくない。その旨を心で唱え一礼して本堂へと向かった。
 小高い丘を登って参拝したあと社務所で由来を記した小冊子をいただき、ついでに、
「なぜ東がツマなのですか」
 と尋ねれば、
「この地方の言葉みたいですねえ」
 とのこと。それ以上は要領を得なかった。
 話は飛ぶけれど西表島《いりおもてじま》は、なぜ西をイリと読むのか。ずっと疑問を抱いていたのだが、あるとき、西表島よりさらに西にある与那国島《よなぐにじま》に行って理由がわかった。さつまいもを横に置いたような与那国島では東の先端が東崎《あがりざき》、西の先端が西崎《いりざき》、太陽の出没に因《ちな》んでいるのだろう。それゆえに西がイリなのだと見当をつけたが、東霧島のツマはなんなのか。方言にしてもいわく因縁がありそうだ。心に留めておこう。
 タクシーに戻って走らせ、小冊子をパラパラとめくっていると、
「えっ」
 と声をあげてしまった。
 十拳剣もこの神社に所蔵されているのだとか。先にも触れたがこれはイザナギの命が火の神を斬ったときの長い剣である。パンフレットには写真まで載っている。
 私の事前調査では、そんなこと、どこにも記されてなかった。裂石のことを書いておきながら、それを斬った刀について触れてないのは……どうも釈然としない。
 ——車を返そうかな——
 と思ったが、
 ——まあいいか——
 あえてこの秘宝を探査する必要もあるまい。私としては裂石一つ見れば満足であった。
 ——あんな大きな石を斬って、かけらが四十キロも遠くまで飛んで行ったなんて……よほどイザナギの命の怒りが激しかったんだろうな——
 フィクションを信じた古代人の心理を感ずることができるならば、それで私はうれしいのである。
 
 話を古事記そのものに戻して……最愛の妻に死なれたイザナギの命は悲しくて悲しくてたまらない。もう一度イザナミの命に会いたいと思い黄泉《よみ》の国へと降りて行った。
 死者の住む宮殿の扉の前まで行って、
「いとしい人よ、あなたと一緒に始めた国造りもまだ終わっていないのにどうして死んでしまったのだ! どうか帰って来ておくれ」
 と必死になって嘆願した。
 すると闇の中からイザナミの命の声が聞こえる。
「なんでもっと早く来てくれなかったの。私はもう黄泉の国の竈《かまど》で作ったものを食べてしまったわ。これを食べたら、そちらへは帰れないんだけれど、せっかくあなたが迎えに来てくださったんだから、こちらの神様と相談してみましょう。でも待っているあいだ、私の姿を見ようとしちゃいけませんよ」
 と告げて去って行った。
 一つ竈で作った料理をともに食するということは、同じ仲間に参入したことを意味する。古代人の日常的な習慣であり、強い掟《おきて》であったろう。
 イザナギの命は待って、待って、待ち続けたが、周囲はただ暗く静まっているだけ、いっこうに変化がない。
 とうとう我慢しきれず宮殿の中へ足を踏み入れた。もちろん、中へ進んでもまっ暗闇。イザナギの命は髪にさした櫛《くし》を取り、櫛の歯の一つをかいて小さな火をともして足を進めた。
 すると……なにかが横たわっている。イザナミの命だ。体中にうじ虫が湧《わ》き、ゴロゴロと気味のわるい音をたてている。さらによく見れば頭に、胸に、腹に、陰部に、手足に、都合八匹の醜い魔物がへばりついている。
「ひどい!」
 イザナギの命はおそれおののいて逃げ出したが、
「あなた! 私の恥ずかしい姿を見ましたね」
 イザナミの命の悲痛な声が聞こえ、バタバタバタと黄泉の国の醜い魔女たちが追いかけて来た。
「えいっ!」
 イザナギの命は黒いつる草の髪飾りを解いて、うしろに投げつけた。髪飾りはたちまち山葡萄《やまぶどう》のつるとなり、実をつける。魔女たちがそれをむさぼり食う間にドンドン、ドンドン逃げのびたが、気がつくと、また魔女たちが追って来る、迫って来る。
「えいっ!」
 今度は竹の櫛を取って歯をへし折って投げ捨てた。みるみる筍《たけのこ》となって道を塞《ふさ》ぐ。魔女たちが齧《かじ》りつき、ムシャムシャと食らう間にイザナギの命はさらに逃げ道を急いだ。
 イザナミの命は、
 ——魔女たちは頼りにならないわ——
 と察し、さっき死屍《しかばね》にへばりついていた八匹の魔物と大勢の手下をさし向けたが、すでに出口は近い。イザナギの命は、例の十拳剣を抜いて追っ手を振り払い、黄泉の国の最終地、比良坂《ひらさか》まで来て坂の登り口に桃の木のあるのを見つけ、桃の実を三つ取って投げつけた。
 この効果は抜群。さしもの追っ手も退《ひ》いて行く。
 ——助かった——
 イザナギの命は胸をひとつ撫《な》でおろしてから桃の木を見つめ、
「よう助けてくれた。これからは私を助けてくれたと同じように葦原の中つ国(地上の国)の苦しみに遭っている人間たちを助けてやってくれ」
 と告げ、桃の実に対してオオカムズミの命《みこと》という尊い名前を与えた。これは偉大な神の霊くらいの意味だろう。中国の伝承では桃の実は邪鬼を払い病を癒《い》やすものとして尊ばれている。古事記の記述もこの影響を受けていると考えてよいだろう。
 イザナギの命は比良坂の下で追っ手を撃退し、ほっと息をついたのも束の間、なにやら背後の気配に驚いて振り向くと、当人が……つまりイザナミの命が恐ろしい姿で走り寄って来る。
 ——いかん——
 つかまったら、ただではすむまい。かたわらにあった大きな岩を力いっぱい転がして坂をさえぎり、黄泉の国との出入口を塞いでしまった。
「これで夫婦の契りもおしまいだ」
 と吐き捨てれば岩のむこうからイザナミの命の激しい怒りの声が聞こえて、
「そうでしょうとも。この恨み、忘れませんからね。これからはあなたの国の人間を一日に千人ずつ縊《くび》り殺してやりますから」
 と、この捨てぜりふは聞くだに恐ろしい。
 だがイザナギの命も負けていない。
「お前がその気なら私は一日に千五百の産屋《うぶや》を建て同じ数の子どもを誕生させてやる」
 と宣言した。
 千と千五百は一つのたとえ話であり、なるほど、その後の人口増加はこのようなシステムの中で実現されて来たようだ。日ごとに死ぬが、それ以上に日ごとに生まれている。比良坂は伊賦夜《いふや》坂とも呼ばれ、現在の島根県|東《ひがし》出雲《いずも》町の揖屋《いや》神社のあたりにあったと言われている。和紙造りで名高い安部栄四郎記念館からそう遠い距離ではない。
 
 イザナギの命の黄泉の国探訪は古事記の中の白眉《はくび》である。それまでの神話がまるで手品師みたいに次から次へと神様を誕生させ、その多いこと多いこと、名前を確認するだけでも楽ではない。神々の名は漢字を読むだけでもむつかしい。だからと言って名前を省略して読めば内容が薄くなり、なんのことか、たわいない。そこへいくと黄泉の国はストーリィ性に富んでいる。最愛の人に死なれ、死者の国にまで赴いて再会したいと願うのは私たち人間の普遍的な心理に適《かな》っている。できることならば生き返らせたい。この世に連れ戻したい。
 そう言えばよく似た話がギリシア神話にもあって、こちらの登場人物はオルペウスとエウリュディケである。かぐわしい新婚のさなかに妻のエウリュディケがまむしに咬《か》まれて死んでしまう。夫のオルペウスはおおいに嘆き悲しんで、
 ——なんとかこの世に連れ戻せないものだろうか——
 冥府《めいふ》まで降りて行く。
 なにしろオルペウスは竪琴《たてごと》の名手である。歌もうまい。楽《がく》の音《ね》で冥府の番犬ケルベロスを懐柔し、冥府の王ハデスまで感動させてしまう。
「よし。エウリュディケを帰してやろう。ただし地上の光を仰ぐまでけっして振り返ってエウリュディケを見てはならんぞ」
「はい」
 オルペウスは大喜びでエウリュディケを随《したが》えて地上に向かった。
 長い道中である。周囲は闇ばかりで、背後にはなんの気配もない。
 ——エウリュディケは本当について来ているのだろうか——
 激しい不安にたえきれず、うしろを振り向いてしまう。
 一瞬、エウリュディケの悲嘆の顔が、
 ——なぜ見るの——
 きびしく咎《とが》めながら消えた。
 あとにはなにもない。オルペウスがどう後悔してみても、もとへは戻らない。すごすごと独り地上に帰るよりほかになかった。
 話のトーンはイザナギの命の物語とは少し異なっているけれど本筋は共通している。タブーを破ってしまうこと、死者を地上に呼び戻してはならないこと……。
 しかし、ギリシア神話には、もう一つ、最愛の人を失った者が冥府へ行く話があって、それは収穫をつかさどる女神デメテルのエピソードだ。かいつまんで言えば……デメテルは大神ゼウスに見そめられペルセポネという娘を産む。デメテルはこの美しい娘を大変愛して育てていたが、ある日、ペルセポネが独り野原で花を摘んでいると大地がポッカリと割れ、中から冥府の王ハデスが現われてペルセポネをさらっていく。ゼウスの黙認を得て敢行したたくらみであり、ペルセポネは無理矢理ハデスの妃《きさき》とされてしまう。
 母親のデメテルが娘の行方を求めて地上をどう飛びまわっても見つけることができない。悲しみのあまり、デメテルは仕事をなおざりにし、おかげで地上の作物は枯れ果て飢饉《ききん》が起き始める。これではゼウスも困惑する。とこうするうちにデメテルは娘の居どころをつきとめ、ゼウスの計らいもあってペルセポネは地上に戻されるが、
「あなた、むこうでなにか食べなかった?」
「えっ、食べたわ」
 ペルセポネもまた……と言うのはイザナミの命と同様に、冥府の食べ物をすでに口にしていたのである。ざくろの実を食べていた。
 同様の掟によりペルセポネも地上の人に戻れない。たとえ地上を訪ねても本拠地は冥府にある。かくて一年の三分の二は地上に帰って母と過ごすことが許されたが、残りの三分の一は冥府に身を置いてハデスの妃を務めねばならなかった。
 デメテルはこの妥協案を受け入れ、機嫌をなおした。とはいえ娘のいないときはやっぱり心が沈んでしまう。娘とともにあるときは歓喜でいっぱいになる。地上に作物の実らない季節と豊饒《ほうじよう》に実る季節とがあるのは、このためである、となっている。
 この結末は私には、イザナミの命が日に千人を殺しイザナギの命が日に千五百人を産むとした結末とどことなく似ているように思えてならない。テーマは異なっているけれど地上の出来事が神々の取引きの結果として巧みに説明されている点はとてもよく似ている。
 ——なるほどね——
 一篇のフィクションとしてストンと心に落ちて頷《うなず》かせてくれるものがある。
 古事記がギリシア神話の影響を受けているわけではない。それはありえない。人間たちが想像する神々の営みに共通するものがある、ということだろう。ギリシア神話のほうがちょっぴり垢抜《あかぬ》けているけれど古事記のドロドロした現実感も民衆の感覚を伝えて捨てがたい。
 
 イザナミの命を比良坂で振り切ったイザナギの命は身震いをして、
「ああ、すっかり体がけがれてしまった。身を清めよう」
 と、太陽の美しい日向《ひゆうが》の国へ向かった。現在の宮崎県のどこか。大河が海へ�注ぐ�河口まで来て、身につけているものをどんどん払い捨て、脱ぎ捨てた。杖《つえ》、帯、もの入れの袋、衣、褌《はかま》、冠、腕輪……捨てるたびに神々が生まれた。
 すっかり裸になると潮の流れに身を沈め、体の汚れを洗った。ここでもさまざまな神々が誕生する。そして最後に水からあがって目と鼻を洗った。
 左の目からはアマテラス大御神《おおみかみ》、右の目からはツクヨミの命、そして鼻からはスサノオの命が生まれ落ちた。アマテラスは太陽の神。ツクヨミは月の神。そしてスサノオは荒ぶる嵐《あらし》の神である。
 イザナギの命はこの三人の誕生を見て……また、原文を引用すれば、
「吾は子を生み生みて、生みの終《はて》に、三はしらの貴子《うづみこ》を得たり」
 と大喜びをした。
 ずいぶんとたくさんの神々を産み続けて来たけれど、ここでようやく本当にすばらしい神を三人もうけることができた、という歓喜である。
 日本の神話はすでに見た通りおびただしい数の神々が、すなわち八百万《やおよろず》の神々が登場し、森羅万象すべての物事に神が宿っている感があるけれど、当然のことながらその中にも偉い神様と、さほどでもない神様とがある。その中でなんと言っても一番偉いのがアマテラス大御神。イザナギの命でさえこの神を誕生させるための下準備の神といった気配がある。
 イザナギの命は欣喜雀躍《きんきじやくやく》として首に掛けた玉飾りをはずしてアマテラス大御神に授け、
「さあ、あなたは高天原《たかまのはら》を治めなさい」
 と委《ゆだ》ねた。
 高天原は高い天の世界である。神々が住み、地上を見おろしているところである。
 どこかと聞かれても答えにくい。イザナギの命が日向でみそぎをおこなったのだから、なんとなく宮崎県の高峰の上空あたり……。霧島連峰の空を仰いで、
 ——あのへんかなあ——
 と思ったりするけれど、そうとは限るまい。神様はあまねく遍在しているのだから、東京の空でも大阪の空でもいっこうにかまわない。とにかく広く地上を被《おお》う天界全部の第一人者に任命されたのがアマテラス大御神という女神であった。
 ツクヨミの命は男神で、イザナギの命はこの神に、
「さあ、あなたは夜の国を治めなさい」
 と命じた。
 ツクヨミの命は三|貴子《うずみこ》の一人であり、疑いもなく偉い神様の一人なのだが、この先、神話の中ではかばかしい活躍が見られない。エピソードが極端に少ない。アマテラス大御神やスサノオの命とはおおいにちがっている。
 なぜかと言えば、支配する領域が夜の世界だから。夜は闇の国であり、なにも見えない。いっさいを包み隠してしまう。だからなにも伝承されない、という理屈である。だからこそツクヨミの命の神話、とかなんとか言っちゃって、いろいろな新しい神話を創造してつけ加える方法があるのかもしれない。小説家の触手が動くところではある。
 スサノオの命に対しては、
「さあ、あなたは海原を治めなさい」
 とイザナギの命は託したが、この命令は実行されなかった。
 アマテラス大御神もツクヨミの命もすなおに父の命令に応じてそれぞれの任務をつつがなく遂行したのにスサノオの命だけは、察するに、
 ——やっぱり三人の中の末っ子で、だだっ子なのかなあ——
 ということなのか。いくつになってもシャンとしない。長い鬚《ひげ》が胸に垂れるほどの年齢になっても、ずう体ばかりが大きく、泣いて暴れてわけのわからないことばかりほざいている。なにしろ荒ぶる嵐の神様だから泣きわめかれるとはた迷惑もはなはだしい。
 イザナギの命が、
「なにが不足なんだ? なんで委ねられた海原を治めないんだ?」
 と尋ねれば、
「ママのところへ行きたいよォー」
 と、これはジョークだが、返事の中身は似たりよったり。いかにもだだっ子らしく母なるイザナミの命を恋しがっているのである。
 イザナギの命としては痛いところを突かれてしまった形。自分はイザナミの命の醜い姿を見て、すっかり愛想がつきてしまったが、
 ——こいつ、なにを考えているんだ。わしに対して厭《いや》がらせをやってんじゃないのか——
 意のままにならないスサノオに激しい憤りを覚え、
「黄泉《よみ》の国へ行きたいと? そんな者はこの国に住んでいてはいかん。とっとと天から下って行けばよい」
 と追い払った。
「わかりました」
 スサノオの命は踵《きびす》を返し、
 —一応、姉さんには挨拶《あいさつ》してから行くことにするかな——
 と、アマテラス大御神の住むところへと向かった。
 うしろ姿を見送ったイザナギの命は、
「やれやれ。どうなることやら」
 心配しながらも、このときをしおに第一線を退き近江《おうみ》の国に移って静かに暮らすことを決意する。滋賀県多賀町にある多賀神社がその隠棲《いんせい》の地と言われている。
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