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楽しい古事記09

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:皇后は戦う   仲哀《ちゆうあい》・応神《おうじん》天皇の治世 古代、大和《やまと》朝廷における皇位の継承はかならずしも
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 皇后は戦う
   ——仲哀《ちゆうあい》・応神《おうじん》天皇の治世
 
 
 古代、大和《やまと》朝廷における皇位の継承はかならずしも円滑なものではなかった。もともと権力の継承はややこしいものだし、残された記録には不正確、不充分なところが多い。
 第十三代|成務《せいむ》天皇、第十四代仲哀天皇は実在を疑われるふしさえあるのだが、ここはとりあえず古事記の記述を中心にして述べるとしよう。
 第十二代景行天皇の子にヤマトタケルがあり、その異母弟が第十三代成務天皇。ヤマトタケルの子が第十四代仲哀天皇で、この后が神功《じんぐう》皇后、二人の間の子が第十五代応神天皇という系図である。
 成務天皇も仲哀天皇も帝紀ばかりで本辞が乏しい。つまり系図的な記述のみでエピソードが伝えられていない。神功皇后についての記述ばかりが目立つ。
 その神功皇后は、またの名をオキナガタラシヒメと言い、神がかりをする女性であった。巫女《みこ》のように神が乗り移って神託を下すわけである。
 あるとき仲哀天皇のともをして筑紫《つくし》の香椎宮《かしいのみや》(現在の福岡市)に入った。熊襲《くまそ》の国を討つためである。
 天皇が琴を弾いた。これは神を呼ぶ道具である。建内宿禰《たけしうちのすくね》が庭に出て神を迎える支度を整え神意を尋ねた。
 この建内宿禰は古代大和朝廷の高官で、伝説的な人物。実在についてはおおいに疑問視されている。景行、成務、仲哀、応神、仁徳《にんとく》と、第十二代から第十六代までの天皇に仕え、その寿命の長いこと、長いこと、三百歳を超えて生きないと、むつかしい。同名異人という説、つまり代々で同じ名前を世襲したようなケースも想像されるが、そうと断定する根拠もない。
 だが、どういう顔つきか、というと、あはははは、私は見たことがある。太平洋戦争の前、たしか一円札には、この人の肖像が書いてあった。白っぽいお札に、いかめしい顔で……そう、長い鬚《ひげ》の神主さんみたいな顔が印刷されていた。とはいえ、そう繁く見たわけではない。ラムネ一本十銭で飲める時代のことだ。一円札は子どもが滅多にながめることのできないしろものだった。
 が、話を元へ戻して……この建内宿禰が神意を尋ねると、かたわらにあった神功皇后が神がかりして答えた。
「西のほうに国がある。金銀をはじめ光輝く宝物がたくさんある国だ。私が今、その国をお前たちに授けてやろう」
 これに対して天皇が反論した。
「高いところに登って西の方角をながめたけれど国らしいものなんか見えやしない。海が広がっているばかりです」
 そう答えたうえで、
「この神様は、にせものじゃないのか。いい加減のことを言って」
 と詰《なじ》り、琴を弾くのをやめてしまった。
 神は怒る。
「なにを言う。お前はこの国を治めるべき者ではない。一本道を進め」
 一本道を進め、とはどういうことなのか?
 が、それはさておき建内宿禰は神の怒りの激しさに驚いて、
「おそれ多いことです。陛下、やはりその琴を弾き続けてくださいませ」
 と訴えた。
 天皇は琴を引き寄せ、しぶしぶ弾き始めた。だが、間もなく琴の音が途絶える。灯《ひ》を近づけて見ると、なんと、すでに亡くなっていた。
 どうやら一本道というのは、生きとし生けるものがたどるべき生から死への一本道のことだったらしい。仲哀天皇は神の怒りに触れ、いそいそと一本道を進んでしまったわけである。
 なにはともあれ事態は天皇の急死である。しかも背後に神の怒りがあるらしい。残された者たちはあわてて穢《けが》れを払う儀式を取りおこなった。清《きよ》めのための産物を調達し、�生剥《いきはぎ》、逆剥《さかはぎ》、阿離《あはなち》、溝埋《みぞうみ》、屎戸《くそへ》、上通下通婚《おやこたはけ》、馬婚《うまたはけ》、牛婚《うしたはけ》、鶏婚《とりたはけ》、犬婚《いぬたはけ》の罪の類を種々求《くさぐさま》ぎて、国の大|祓《はらへ》して�……なにが穢れをもたらすものなのか罪科を並べ挙げ、お祓いをして神の許しを求めた。そのうえでもう一度、建内宿禰が祭の庭に出て神意を問い直した。
 もちろん神がかりした皇后が答えるわけである。神は前と同じことを告げたあとで、
「すべてこの国は皇后の胎内にある子が治めるべきものである」
 と、のたまう。
「おそれ多いことでございますが、その御子《みこ》は、どのような御子で?」
 と宿禰が問えば、
「男の子だ」
 この男の子が後に第十五代応神天皇となる人であり、母の胎内にあるときから国の統治者……ということは母体が摂政《せつしよう》となることだ。
 宿禰がさらに問いただした。
「このようにお教えくださるあなた様は、いかなる神様なのでしょう」
「今、伝えたのはアマテラス大御神《おおみかみ》の御心だ。私は底筒《そこつつ》の男《お》、中筒の男、上筒の男、住吉《すみよし》神社の三神だ。西の国を求めようとするならば、天地の神、山の神、河の神、海の神、すべてに幣帛《へいはく》を奉り、私の御魂《みたま》を船上に移して祀《まつ》り、木の灰をふくべに盛り、箸《はし》と皿とを数多《あまた》作って、ことごとく海に撒《ま》き散らして船で渡るがよい」
 と、こまかに指示を与えてくれた。
 そこで皇后は軍隊を整備し、多くの船を並べ、教えられた通りに海へ乗り出した。すると、海中の魚が大きいのも小さいのもみんな集まって来て船を背負って走る。その速いこと、速いこと。順風も強く吹き、船は波に乗り、たちまち新羅《しらぎ》の国に着き、押し上がって国のなかばにまで到達した。大河をさかのぼった、と考えるのが理屈にかなう解釈だろう。
 新羅は朝鮮半島の東部を占めていた国。いきなり内陸にまで攻め込まれて国王の驚くまいことか。
「降参しました。今日からは、私どもは天皇の命令のまま馬飼《うまかい》としてお仕えします。船の腹を乾かすこともなく、船の舵《かじ》や棹《さお》を乾かすこともなく、天地のある限り休むことなくお仕えいたします」
 と告げた。水に浸《つか》れば船腹も舵も棹も濡《ぬ》れっぱなしだ。それを乾かすことなく働くという約束だ。
 よって新羅の国を馬飼と定め、その隣国|百済《くだら》を海を渡る拠点と定めた。また新羅の王城の門前に杖《つえ》を立て、住吉の大神《おおかみ》の荒ぶる御魂を国を守る神として祀った。以上すべてを終え皇后たちは帰国の途についた。
 
 どことなく釈然としないところもあるけれど、先を急ごう。
 新羅での仕事が終わらないうちに出産の日が近づいて来た。お腹を鎮めるために衣のすそに石をつけ(まじないの一種)九州の筑紫に渡り戻った。
 御子が生まれた。
 そこでその地を宇美《うみ》と名づけた。現在の福岡県|糟屋《かすや》郡宇美町である。また、このときの石が伊斗《いと》の村に祀られた。福岡県糸島郡|二丈《にじよう》町深江に鎮懐石八幡宮があって、石も現存しているとか。往時この一帯は交通の要所であったらしい。
 また皇后は佐賀県の玉島川のほとりに到って食事を摂《と》った。頃もよし、衣の糸を一本抜き取り岩辺に立ち、飯つぶを餌にして鮎《あゆ》を釣った。川の名を小河《おかわ》とし、岩を勝門比売《かつとひめ》と名づけた。ここでは旬になると、女たちがみんな衣の糸を抜き、飯つぶを餌にして鮎を釣る習慣が見られるようになった。男が挑んでも釣れないという伝承もある。
 神功皇后は幼い皇子とともに、さらに都へ向けて船を進めたが、
 ——人の心が信じられないわ——
 喪の船を一隻作って、御子をそこへ乗せ、御子はすでに死んでしまった、と言い触らさせた。
 案の定、香坂《かごさか》の王、忍熊《おしくま》の王なる兄弟が、待ち伏せをして皇后たちを討とうという魂胆。まず斗賀野《とがの》というところに出て、誓約《うけい》狩りを試みた。これは狩りをおこなって神意を確かめる占い事。香坂の王がくぬぎの木に登ってながめると、大きな猪が怒り現われ、木を掘り倒し、香坂の王を食い殺してしまう。だれの目にも凶のしるし。にもかかわらず弟の忍熊の王はおそれいることもなく、軍を起こし、皇后の軍を滅ぼそうとした。
 が、まんまと皇后のトリックに引っかかり、
「そっちは喪の船だ。こっちを攻めろ」
 と、おとりの船を攻めるうちに皇后軍は喪の船から進攻して敵軍を窮地に陥れる。
 忍熊の王のもとには伊佐比《いさひ》の宿禰が、また皇后の側には建振熊《たけふるくま》が、それぞれ将軍としてはべっていた。両将軍、追いつ追われつ、山城に入り込んで戦い続けた。
 ここで建振熊がもう一度謀りごとをめぐらし、
「皇后も亡くなられた。もはや戦う理由がない」
 と告げ、弓の弦を断ち切って降服する。
 そこで伊佐比の宿禰の軍勢も弓をはずし軍備を解いてしまう。
 それを見て建振熊は、かねてより髪の中に隠しておいた弦を取り出し、弓に張って射まくる。敵軍は琵琶《びわ》湖の西のかた逢坂《おうさか》まで退いて戦ったが、とうとう近江《おうみ》の沙々那美《ささなみ》まで逃げ、そこで全滅する。
 忍熊の王と伊佐比の宿禰は、湖上に逃れ、もはやこれまでと覚り、
 
  友よ
  振熊にとどめを刺されるよりは
  水鳥の群がる淡海《おうみ》に
  潜り死のうではないか
 
 と歌い、入水して死んだ。
 騙《だま》し討ちは、騙されるほうがわるいのである。
 建内宿禰は幼い皇子を連れ、みそぎをしようとして近江の国さらに若狭《わかさ》の国へとめぐり進んだ。越前《えちぜん》の敦賀《つるが》まで来て仮宮を建てて皇子を住まわせたところ、夜、この土地の神イザサワケが夢に現われて、
「私の名と御子の名を交換しよう」
「まことにおそれ多いことでございます。承知しました。取り替えましょう」
 神はつけ加えて、
「明日の朝、浜に出てみなさい。名前を交換したしるしの贈り物をあげよう」
「ははーッ」
 翌朝、浜に出てみると、鼻の欠けたいるかが入江に上がっていた。
 御子がこれを見て、
「私の御食《みけ》(食事)のため魚をくださいました」
 と言う。
 このことから、この神をミケツ(御食津)大神と呼び、以来この地方から漁撈《ぎよろう》の産物が多く献上されるようになる。現在では気比《けひ》の大神と呼ばれている。すなわち敦賀市の気比神宮だ。いるかの鼻の血がくさく、それゆえにこの入江は血浦、これが敦賀となった、とか。
 皇子がこの浜から帰って来ると、母の神功皇后が酒を醸して献上した。歌も同時にそえて……。
 
  この酒は私の造った酒ではない
  お酒の長《おさ》、常世《とこよ》にあって
  石となり立っているスクナビコナが
  祝って祝って狂うほど
  祝って祝って祝いつくし
  献上してくださった酒
  盃《さかずき》を乾かすことなく召しあがれ、さあさ
 
 と勧めた。建内宿禰も歌を歌い
 
  この酒を造った人は
  鼓を臼《うす》のように立て
  歌いながら醸したからか
  舞いながら醸したからか
  この酒は、この酒は
  まことに楽しい
 
 この二首は酒楽《さかくら》の歌と呼ばれている。
 最後に仲哀天皇が五十二歳で亡くなったこと、神功皇后が百歳まで生きたこと、そして御陵のありかなどが記されて、この項が終わっている。
 
 神功皇后が実在したかどうか、このテーマも悩ましい。皇后の子、応神天皇は実在が確実視されている人物なのだから、その母親がいたことは疑いない。その母親が男まさりの女傑で、早世した天皇に替って活躍した、ということもなかったとは言えない。
 神功皇后の没年はよくわからないが。応神天皇の在位が四世紀末から五世紀にかけて、であるから母親は三百年代後半の人と考えるのが妥当だろう。
 この年代は朝鮮半島への進出が盛んな時期であった。著名な好太王碑(鴨緑江《おうりよつこう》の上流で発見された石碑。実在した好太王の武勇を称《たた》えている)には三九七年に倭《わ》軍(日本軍)が海を渡って攻めて来たことを彫り留《とど》めている。この日本軍の中にはなばなしい活躍を示した女性リーダーがいて、それが神功皇后のモデルとなったのかもしれない。想像できるのはせいぜいそのくらいのことだ。
 だが、それとはべつに一般には古事記や日本書紀が企画され成立した時代(七世紀末から八世紀にかけて)に、一種のムードとして、朝鮮半島にまで進出して武勇を示した女帝が古い時代に存在したことを求めたがる気運があって、それが神功皇后を誕生させた、と見るのが有力である。
 応神天皇の時代より百年ほど下って推古、皇極《こうぎよく》(斉明《さいめい》)、持統《じとう》など女帝が次々に現われ、朝鮮半島との関わりは女帝の重要な政治課題であった。推古天皇の新羅進攻は一定の成果をもたらしたし、斉明天皇は実際に九州まで出陣して指揮に当たり客死している。白村江の敗北(六六三)はこの直後のことだ。記紀成立の頃の人々は、近しい女帝たちのこうした活躍を、応神天皇の頃の半島進攻の成果と重ね合わせ、一つの見本として神功皇后の伝説が創られたのではなかろうか。元となる伝承があったかどうかは問うところではない。古事記を編むに当たって、
 ——昔、朝鮮半島へ行って、大勝利をしたことがあったはずだし——
 と、はっきりとしない記憶を神功皇后という形で留めた、ということである。
 大小すべての魚が集まって来て船を内陸部にまで、たちまち押し上げた、というくだりは、いかにも伝説的な筆致で楽しめるが、仲哀天皇の死のくだりはどうだろう。不気味なリアリティがあって、
 ——これは事実じゃないのか——
 と思いたくなってしまう。
 仲哀天皇は半島進攻に反対だったらしい。皇后と建内宿禰が熱望していた。皇后が神がかって神意を表わしても、天皇はやっぱり承知しない。宿禰に勧められ天皇は琴を弾いたが�幾久《いくだ》もあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩《かむあが》りたまひつ�と、原文はさりげなく記しているけれど、もしや暗殺ではあるまいか。一本道は神意を装った粛清の一本道。企みを抱く者たちが|※[#「目+旬」、unicode7734]《めくばせ》を交わして、
 ——迷うんじゃないぞ——
 という意味だったのかもしれない。
 仲哀天皇その人の実在が疑わしいのだから、こうした想像もばからしく思えるけれど�伝説は事実と通底している�という指摘もあることだ。フィクションのもととなる事実があったのではないのか。まったくの話、男女もわからない胎内の子にいちはやく次の帝位を約束させ、母体が摂政《せつしよう》を務めるなんて、
 ——そんなの、ありなのかなあ——
 と首を傾げたくなってしまう。古い時代の権力者は結局なんでも思うがままにやってしまうのだけれど、これくらいのことをやる連中ならば、弱気の天皇の命くらい琴の音とともに消してしまいそうな気がしてならない。
 
 お話変わって第十五代応神天皇。またの名をホムダワケの命。母の胎内にあるときから帝位を約束され、やがて長い間摂政を務めた母、神功皇后に替って天下を治めることとなる。
 この天皇は、男十一人、女十五人と子だくさんであったが、後継者として有力な筋は、オオヤマモリの命、オオサザキの命、ウジノワキイラツコの三人であった。もちろん異母兄弟、年齢はこの順序でオオヤマモリが年長、オオサザキが二番目、ウジノワキイラツコが末だったろう。それぞれが子ども(天皇から見れば孫)を持つようになった頃、
「父親として、兄がかわいいかね、弟がかわいいかね」
 と、天皇が尋ねた。
 なにげない会話のようだが、油断はならない。天皇は、その実、自分の子等について三人の中で一番若いウジノワキイラツコに天下を譲ろうと考えていたのだ。
 オオヤマモリは天皇の心を知ってか知らずにか、
「そりゃ、上の子のほうがかわいいです」
 なんてアッケラカンとして答えた。
 オオサザキのほうは賢い。天皇の心中を見抜いて、
「兄のほうはもう一人前になっていて心配がありませんけど、弟は幼いので、かわいらしくて、かわいらしくて……」
 と答えた。天皇は得たりとばかりに、
「私も実はそう思っているんだ」
 とうなずき、そのあとで詔《みことのり》を下した。
「オオヤマモリは海と山の管理をせよ。オオサザキは国の政治をおこなえ。ウジノワキイラツコが天皇の位を継げ」
 と、この折衷案がうまく機能するものかどうかは後述するとして、しばらくは応神天皇の女性関係のこと。
 宇治の木幡《こはた》村へ行ったとき、天皇は美しい娘と会った。
「あなたはだれ?」
「丸邇《わに》のヒフレノオオミの娘ミヤヌシヤカワエヒメと申します」
 この後、丸邇家はしばしば皇室に娘を入れる名門となったが、美人の血筋なのかもしれない。
「明日あなたの家へまいりましょう」
 娘の父親は、
「おそれ多いことだ。娘よ、きちんと仕えなさい」
 準備を整えて大歓迎。天皇が盃《さかずき》を取りながら歌ったのが、次の歌である。
 
  この蟹《かに》はどこの蟹か、
  いくつもの国のむこう敦賀の蟹
  横歩きしてどこへ行く
  伊知遅《いちじ》島|美《み》島に着き
  水鳥が水に潜って首を出し息をつくように
  凸凹の道を息をつきながら
  どんどん行くと、
  木幡の道で会った娘
  うしろ姿は小さな楯《たて》のように整っていて、
  歯並びは木の実を並べたみたい
  櫟井《いちいい》の丸邇坂の土は
  うわべは赤く
  下は黒い、
  その中ほどを
  めらめらと燃える直火《じかび》では焼かず
  ほどよい土を作り、その土で眉《まゆ》を濃く描いて、
  会った娘よ、
  こんなふうに私が見た娘
  あんなふうに私が見た娘
  思いもかけず向かいあい
  寄りそっているのだ
 
 と、まことによいご機嫌である。題して〈蟹の歌〉。蟹は長旅をして来た天皇自身のことだろう。まぐわって生まれた子がウジノワキイラツコであった。女がかわいければ、その女が産んだ子をとりわけかわいがったにちがいない。
 次の相手は日向の国の美女。名をカミナガヒメと言う。ややこしく書いてあるけれど、要は天皇が噂を聞いてミス日向を召し上げようとしたところ皇子のオオサザキが実際に会って見て、
 ——これは、すてきだ——
 建内宿禰に頼んで「どうか私に下さい」と天皇に願ってもらった。天皇も「よかろう」とうなずき、その祝宴では、
 
  さあ、子どもたち、野びるを摘みに行こう
  野びるを摘みに行く私の道すじに、
  かぐわしい花橘《はなたちばな》があるけれど、
  上の枝は鳥が枯らし
  下の枝は人が取り枯らし
  中ほどの枝の
  ほんのりと肌匂う娘
  さあさあ、好きになったらよいだろう
 
 と、鷹揚《おうよう》に譲った。
 さらにまた歌って、
 
  水の溜《た》まっている依網《よさみ》の池で
  杭《くい》打ちが杭を刺していたのも知らず
  水草取りが手を伸ばしていたのも知らず
  私としたことがうっかりしていて残念だ
  残念だ
 
 と、うらやむ。
 古代の歌謡を現代語に訳すのはむつかしい。イメージが飛躍していて意味の取りにくいところがあるし、語意のわからない部分もある。私の訳は気分を伝えるくらいのもの、おおまかな解釈と取っていただきたい。
 皇子のほうも歌って、
 
  遠い遠い古波陀《こはだ》の娘よ
  雷のように遠く高く聞こえていたが、
  いまはともに枕を寄せている
 
 そして、もう一つ、
 
  遠い遠い古波陀の娘よ
  争わずして、ともに寝ることとなった
  いとおしくてたまらない
 
 と、ぞっこん惚《ほ》れ込んでいる。
 このオオサザキの命は、りっぱな太刀を帯びていて、吉野の山中の人々が、その刀を褒めて歌ったのは、
 
  皇子様
  オオサザキ様、オオサザキ様
  腰に佩《は》く大刀は
  根本は丈夫で、切先《きつさき》は鋭い
  枯れた冬木の下のように
  冷たく光り揺れている
 
 また同じ吉野で樫《かし》の木のもとで臼《うす》を作り、酒を醸し、それを飲むとき口で太鼓の音をまね、手ぶりではやしながら、
 
  樫のもと臼を作り
  その臼で醸したうま酒
  うまい、うまいと飲んでくれ
  われらが父なる天皇よ
 
 と、これは人々が天皇に物を献上するときにずっと歌われている歌である。
 このあたりオオサザキがしばしば登場していることにご留意あれ。
 
 話は対外関係に移り、新羅人が渡って来たこと、次いで百済との交渉が記されている。
 百済の国王が阿知吉師《あちきし》を使者として寄こし、牡馬《おま》一頭、牝馬《めま》一頭を献上して来たこと、また太刀《たち》と大鏡も贈られたこと、さらにかねてより「賢い人があれば、ぜひ寄こして欲しい」と願っていたのだが、それに応《こた》えて和邇吉師《わにきし》が論語十巻、千字文一巻を持って来朝したこと、鍛冶《かじ》屋の卓素《たくそ》、機織りの西素《さいそ》も送られて来たこと、酒造りの仁番《にほ》(またの名ススコリ)もやって来て、酒を醸し、天皇に献上したこと、などが記されている。仁番の酒に天皇は喜び歌い、
 
  ススコリが醸したうま酒に私は酔った
  おだやかな日々の酒、すばらしい酒
  私は本当に酔った、酔った
 
 歌いながら出かけて、道のまん中にある大石を杖《つえ》で叩《たた》いたところ、石が逃げ去って行った。諺《ことわざ》に�堅い石でも酔っぱらいを避けて逃げる�というのは、この故事からであるとか。酔っぱらいは始末におえないから、相当な人でも相手にせず避けたほうがよい、という意味らしい。
 
 話は皇位の継承に移って……応神天皇が亡くなったあと(先に述べた三人のうち)ウジノワキイラツコが父の意向通り皇位に即《つ》くはずであったが、オオヤマモリは不服とし、弟を殺そうと考え、ひそかに軍を集めた。オオサザキはそれを知り、
「兄さんが攻めて来ますよ」
 使いを送ってウジノワキイラツコに教えた。
 ウジノワキイラツコは驚き、まず河のほとりに兵を隠した。それから山頂にりっぱな幕を張って陣屋を作り、家臣をさながら王のように化けさせ、坐《すわ》り台にどっかと坐らせ、みなが敬い、そここそが皇子の居どころのように偽装を凝らした。そのうえで兄が河を渡るときに使えるよう船を用意し、船具を調え、船の床には佐那葛《さなかずら》から取ったヌルヌル汁を塗り、踏めば滑って転ぶように細工した。さらにウジノワキイラツコは、みずから粗末な衣裳《いしよう》を着て船|漕《こ》ぎの姿を採り、楫《かじ》を握って待っていた。
 兄のオオヤマモリは軍勢を隠し、鎧《よろい》を衣の下に着てやって来る。弟皇子はてっきり山頂の陣屋のほうにいるとばかり思い込み、河辺に来て船に乗る。もちろん楫を持って立っているのが弟だとは知らない。
「この山には暴れ猪の、でかいのが住んでいるというが、私はそれを捕らえようと思っているんだ。捕れるかな?」
 と尋ねた。
 暗に弟皇子を討つことをほのめかしたのだろう。
「無理でしょう」
「なぜだ」
「たびたび捕ろうとする者が来たけど、だれも捕らえられませんでした。だから、あなた様も無理でしょう」
 とこうするうちに船は河の中ごろまで進み、そこで船を傾けると、オオヤマモリは水の中へボチャーン。浮き沈みしながら水に流され、そのときに歌ったのが、
 
  流れの速い宇治川の川渡り、
  棹をすばやく扱う人よ、私の仲間となって、助けに来てくれ
 
 なんて、歌を歌っている場合ではないと思うけれど、大声で助けを求めた。しかし、河岸には弟の軍勢が隠れていて、それがいっせいに現われて矢を射る。助けなんか来るはずもない。オオヤマモリはここで溺《おぼ》れ死ぬ。死体を鉤《かぎ》で引き上げると、衣の下の鎧に引っかかってカワラと鳴った。それで、この地が訶和羅《かわら》となったとか。京都府|綴喜《つづき》郡田辺町河原だとか。ウジノワキイラツコがここで歌を詠んでいるが、なにやら心の迷いを歌っているようで、ピッタリと来ない。省略。オオヤマモリの死体は奈良山に葬られた。
 こののち、残されたオオサザキとウジノワキイラツコと、どちらが皇位を継ぐべきか、一方が一方に譲り、また一方が一方に譲り、らちがあかない。海人《あま》たちは祝いの貢物を用意して献上するが、どちらも受け取らない。こんなことが何度もくり返されるものだから海人たちはほとほと困惑してしまった。�海人だから自分のものゆえに泣く�という諺はここから出たというのだが、どういう意味だろう。腐りやすいものを扱っているのだから腐って泣くのも当然、ということか。つまり自業自得の意だろうか。
 おっとドッコイ、本筋は諺の研究ではない。皇子二人で譲りあっているうちにウジノワキイラツコが早世し、オオサザキが皇位に即いた。すなわち仁徳天皇である。控えめにしているうちに、棚からぼたもち、そこが賢いところなのだろう。
 
 このあとに因縁話めいた説話が二つ、いささか唐突な感じで載せられている。本筋とは関わりの薄いことなので軽くあらすじを紹介するに留めておこう。
 一つは、日本に渡って来た新羅の王子アメノヒホコ(天の日矛)の話である。
 新羅に阿具《あぐ》沼があり、そのほとりで女が昼寝をしていた。男が覗《のぞ》き見をしていると、女が赤い不思議な玉を産む。男はそれをもらい受けて身につけていた。
 この男が牛を引いて山へ入ろうとすると、アメノヒホコに見つかり、咎《とが》められ、許してもらえない。仕方なしに赤い玉をさし出すと、
「これはめずらしい」
 ようやく釈放してもらえた。
 アメノヒホコが赤い玉を床の辺に置くと、玉は美しい女に変わった。アメノヒホコはその女を妻としたが、扱いが横暴だった。女は、
「私はあなたのような方の妻になる身分ではありません。母の国へ帰ります」
 と、小船に乗って逃げ、日本の難波《なにわ》にたどり着く。これが難波赤留比売神社の祭神アカルヒメである。アメノヒホコが追って来たが、海の神が道を塞《ふさ》いで会わせない。アメノヒホコは但馬《たじま》に留まって子孫を作る。いろいろな子孫が誕生しているが、その一人がオキナガタラシヒメつまり神功皇后……と、ね? やっぱりあまりおもしろくはない。
 もう一つは、兄は秋山のシタヒオトコ、弟は春山のカスミオトコ、兄弟神の話である。
 イズシオトメという美しい女神がいて、みんなが妻にしたいが、なかなか女神はなびいてくれない。秋山のシタヒオトコが、
「弟よ、俺が申し込んでも、うまくいかない。お前はどうかな」
 と尋ねると、弟は、
「たやすいことよ」
「よーし。うまくいったら上下の衣服を脱いで与えよう。酒もかめにいっぱい贈ってやるし、山河の産物もそえてやる。賭けるか」
「いいとも」
 弟の春山のカスミオトコは事情を自分の母親に話すと、母親は、藤づるを素材にして衣裳を作って着せ、藤の弓矢を持たせ、カスミオトコをイズシオトメのところへ行かせてくれた。
 イズシオトメの家に着くと、いっせいに藤の花が咲く。花をつけた弓矢を厠《かわや》の戸にかけておけば、イズシオトメがそれを見て、
 ——あら、どうしたのかしら——
 不思議に思い花を持ち帰る。すると、カスミオトコが背後から家に入って交わる。子が一人生まれた。
 けれども兄のシタヒオトコは賭けの約束を守ろうとしない。弟が母親に訴えると、
「この世のことはすべて神様の思召《おぼしめ》し。勝手は許しません」
 竹籠の呪いをかけた。竹籠の中に塩をまぶした石が入れてある。
 手続きはわかりにくいが、この呪いを受けると、竹の葉のように青いまま萎《しお》れ、塩により水分を奪われ、石のように沈み落ちる、というものらしい。
 シタヒオトコは八年間、乾き萎れ病み縮んだ。泣き悲しんで謝ったので、もとに戻してもらった……と、これも、いまいち冴《さ》えない。
 さらにいくつかの系譜が記され、応神天皇の部が終わり、古事記の中つ巻、すなわち上中下と三巻あるうちの中巻が終わる。
 時代が進むにつれ、古事記の記述が伝説より歴史に近づくのは確かだが、そのぶんだけ都合のよい歴史を残そうという意図が巧みに入り込むのも、また詮《せん》ないことである。
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