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楽しい古事記10

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:煙立つ見ゆ   仁徳《にんとく》天皇の権勢 飛行機の窓から仁徳天皇陵を見たことがある。高知から羽田へ帰る便だったろう。ス
(单词翻译:双击或拖选)
煙立つ見ゆ
   ——仁徳《にんとく》天皇の権勢
 
 
 飛行機の窓から仁徳天皇陵を見たことがある。高知から羽田へ帰る便だったろう。スチュアデスが、
「今、堺《さかい》市の上空です。あれが仁徳天皇のお墓」
 と教えてくれたから多分まちがいあるまい。
 前方後円形。濠《ほり》も見える。周辺の町並と比較して、
 ——なるほど。これはデカイ——
 と納得した。
 これだけ大きい墓が造られているのだから仁徳天皇は実在しただろう……とは一概には断定できない。
 いや、いや、いや、仁徳天皇に関しては実在したという説が有力だが、古代の天皇は墓があるからといって、そこに埋まっているとは限らない。どんなにりっぱな墓陵でも実在の証明にはならない。
 その仁徳天皇にしてからが、実在はしただろうけれど、一代前の応神天皇と同じ人物ではないのか、という説などもあって、生涯が客観的に確認されているわけではない。
 中国の「宋書《そうしよ》」には、倭《わ》王・讃が使者を寄こした、と記されており、これが西暦四二一年のこと。さらに、讃は四三八年に没し、弟の珍が王となった。四四三年に珍のあとを継いで済が王となり、済は四六二年に死んだ。子の興があとを襲ったが、興も四七八年に没して弟の武が王となった。と、これは没年はともかく王の存在に関しては充分に信憑性《しんぴようせい》の高い記録である。讃・珍・済・興・武、と続いて、中国史料による日本の古代五王と呼ばれている国王たちである。この王が天皇であり、最後の武が第二十一代雄略天皇であることも学術的な検討を経て、ほぼ確実らしい。
 武以外の王については、いくつかの推理があって、讃が仁徳天皇かもしれない、というのも一つの説である。古事記、日本書紀の記述だけでは客観的な史実と言えない憾《うら》みがあって残念だが、このエッセイは〈楽しい古事記〉である。深くはこだわるまい。とりあえずは、第十五代応神天皇に続いて皇位に即《つ》いた第十六代仁徳天皇の事蹟《じせき》について古事記のエピソードを紹介していこう。
 
 まず初めにあまりにもよく知られたお話。仁徳天皇が高い山に登って四方を見まわしたところ、家々から煙が立っていない。これはみんなが貧しくて食べるものがなく、かまどに火が入らないからだろう。
 ——これではいけない——
 三年間、税の徴収をやめ、天皇みずからも生活をきりつめ、宮殿の修理など金銭のかかることはおこなわず、質素を心がけたところ、三年後には、
「おお、煙が見えるぞ、あそこにも、こっちにも」
 家々から煙が立ちのぼり、人々の生活が豊かになったことがわかった。人々は慈悲深い天皇だと敬愛し、以後は税を取るに当たっても、労役を求めるときも、しもじもから苦情が出ることがなく進んで協力してくれるようになった、という美談である。
 さて、この仁徳天皇の后《きさき》イワノヒメは大変|嫉妬《しつと》深い女であった。出自は葛城《かつらぎ》地方の有力な豪族で、気位も高い。ほかの女のことが口の端《は》にのぼっただけで�足も足掻《あが》かに嫉《ねた》みたまひき�とあって�足掻か�は足をバタバタさせ擦《こす》りつけること、嫉妬のすさまじさが滲《にじ》み出ている。
 そうであるにもかかわらず天皇のほうは、ほかの女性に対する関心が深い。吉備《きび》の国の豪族の娘クロヒメがとても器量よしと聞いて、召しかかえたが、クロヒメのほうは皇后の嫉妬が恐ろしくて船で逃げ帰ってしまった。天皇は、その船影を見送りながら、
 
  沖のかなたに小舟が散っている
  ああ、悲しや、いとしい女が国へ帰っていく
 
 と詠んだところ、皇后が聞いて、
「船は駄目。歩いて帰らせな」
 人を送ってクロヒメを船から降ろし、徒歩で帰らせた、とか。この嫉妬にもリアリティがある。
 一方、仁徳天皇のほうは……恋心は遮られるとかえって激しく燃えるもの。
「淡路島に用があるから」
 と皇后に嘘をついて旅立ち、はるかに遠い海をながめながら、
 
  照り輝く難波《なにわ》の海の岬に
  立ち出でて国々をながめれば
  粟《あわ》島、おのごろ島
  あじまさの島、さけつ島
  あの海のむこうに、恋しい女がいる
 
 と詠んで、さらに船を進めてクロヒメの住む吉備へ入った。
 もちろん、二人は再会して、山の御園へピクニック。クロヒメは青菜を摘んで、吸い物を作ろうとする。そのかたわらに天皇は寄りそって、
 
  山に育つ青菜も
  いとしい吉備の娘と一緒に摘むと
  楽しいぞ、楽しいぞ
 
 さぞかし濃厚な密会であったにちがいない。天皇が都へ帰ったのち、クロヒメは、
 
  大和のほうへ西風が吹き
  雲はちぎれて離れ離れになっても
  私は御恵みを忘れません
 
 と訴え、またさらに、
 
  大和へ行くのは、だれのいとしい人かしら
  地下水のように、心を隠して
  行ってしまったのは、だれのいとしい人かしら
 
 と胸の思いを歌った。どうやらこの歌は皇后に見つからなかったらしいが、二人の恋がその後どうなったかは、つまびらかでない。
 
 話はいきなり変わってしまうけれど、十数年前、私はテレビの取材でタイ国へ赴き、ドリアンを食したことがあった。
 果物の王様、王様の果物と称される珍味である。大きさは(大小いろいろあるけれど)まあ、ラグビー・ボールくらい。いくつもの突起のある外皮《いが》を被《かぶ》って、まるで武器みたい。独特の匂いがあることで知られている。
 いくつか食べた。匂いは、品種改良が進んでずいぶんと薄くなっているらしいが、それでも鼻につく。腋臭《わきが》みたい……と言えば、遠からず。味は甘いチーズのよう。ピーナツ・バターに似ているとも思った。
 農業大学の研究所に立ち寄って話を聞くうちに、
 ——これは果物なのかな——
 と、疑問を抱いた。
 果物というのは、木や草になって、なまで食べられるもの、だろうが、その限りではドリアンは確かに果物だ。だが、研究員に栄養分の分析表を見せてもらうと、糖分のほかに蛋白質《たんぱくしつ》、脂肪分をそこそこに含んでいる。通常、私たちが果物と言われて思い浮かべる林檎《りんご》、梨、苺《いちご》、蜜柑《みかん》に、蛋白質や脂肪が含まれているだろうか。微々たるものだろう。
 ドリアンはむしろ豆に近いと思った。ピーナツ・バターを連想したのは、あながち見当外れではなかったろう。
「みなさん、お好きなんですか、こちらでは?」
 と尋ねた。
 率直なところ私にはさほど美味とは思えなかった。匂いを抜きにして考えても、特に食べたいしろものではなかった。
「好きですよ、もちろん。嫌いな人もいますけれど」
「高価なんでしょ?」
「よいものは高いです。貧乏人は食べられません」
「果物の王様だとか?」
「はい。王様がよく食べましたから」
 王様の果物なのだ。
「そんなにおいしいですか」
 王様なら、もっとほかにおいしいものが、いくらでも食べられるだろうに……。
 研究員はおもむろに答えてくれた。
「精がつくんです。子孫をたくさん持つことが王様の第一の仕事でしたから」
 と、少し笑った。
 学術的な裏付けもあるらしい。精力を培《つちか》い子作りに励めるのだ、と……。
 ——なるほどね——
 なんとなくそんな印象の深い果物である。好き嫌いの問題ではなく、王様はせっせとこれを食して、子孫の繁栄を計らなければならなかったのだろう。第一か、第二か知らないけれど、子どもを作ることは王にとって大切な仕事であることは疑いない。
 とりわけ古い時代にあっては、よい血族を多数周囲に集めておくことはリーダーにとって極めて重要な条件であった。よい血族は、まずよい息子を持つことから始まると言ってよかろう。そのためには、とにかく数多く交わって、多く子をなさねばならない。王たるものには、ただの好色とはちがった必要もあったのである。
 
 で、偉大なる仁徳天皇は、皇后の嫉妬にもめげず、子孫の産出に励んだ。次は八田《やた》のワカイラツメに関心を抱く。皇后が、みつな柏《かしわ》の葉を採集するため船を仕立てて紀伊《きい》の国へ行った。その留守のあいだに天皇はワカイラツメと睦《むつ》みあった。みつな柏とは、葉先が三つに割れている柏で、この葉に食べ物を盛って使う。皇后の帰り道、船に乗り遅れた女官が、吉備の国出身の男と会う。二人は顔なじみだったらしく、男が言うには、
「天皇はこのごろ、八田のワカイラツメと日夜戯れていらっしゃるけど、皇后はご存知ないらしく、静かに柏の葉なんか集めておいでですね」
 と、まあ、いつの世にもいるんですね、こういうお節介を囁《ささや》くやつが……。女官も皇后への忠義立て。皇后の船に追いついて、ご注進、ご注進。皇后の怒るまいことか、
「くやしいーッ」
 船に積んだみつな柏をことごとく海に投げ捨ててしまった。それでこのあたりをみつの前《さき》と呼び、かつての大阪市南区(現在の中央区)三津寺町のあたりとか。
 皇后を乗せた船は木津川をさかのぼり山城に着き、そこで歌を詠む。川岸に生い繁る木々の中に立っている椿の青葉、その青葉のように天皇は広大で、すばらしい、という主旨の歌だ。さらに奈良山のふもとに着き、ここでは自分の故郷である葛城の館《やかた》をなつかしむ歌を詠んでいる。この歌が天皇のもとに届けられたかどうかはわからないが、まあ、ここにわざわざ掲げてある以上、届けられたと考えるのが常識だろう。しかし、前の歌は天皇が力強くすばらしいと言っているだけだ。後の歌は故郷がなつかしいと言っているのだ。つまり……天皇への愛はぼかされている。切実に訴えてはいない。
 こうして皇后は韓人《からびと》のヌリノミの家に逗留《とうりゆう》する。
 天皇のほうは、すげなくばかりしていては気が咎《とが》める。次々に作り都合三人の使者を皇后のところへ送り歌を伝えた。どの歌も「おまえを愛しているよ」という内容である。
 三人目の使者はクチコの臣《おみ》と言い、皇后の館に着いたときには、ひどい雨。前の出入口に伏して歌を奏上しようとすれば、皇后は館のうしろへ隠れ、うしろのほうへ向かえば前へ急ぎ……ご機嫌ななめで使者に八つ当たり。使者は庭に這《は》いつくばって腰まで水に浸《つか》り、紅い紐《ひも》の染料が溶けてまっ赤な水溜《みずたま》りを作ってしまった。皇后に仕える女官が、涙ながらに使者をあわれむ歌を詠む。
「お前なぜ泣いている?」
「あれは私の兄でございます」
 皇后は気を取り直して天皇から贈られた歌を敬聴したにちがいない。
 このくだり、古事記に記された文面からだけでは判断のしにくいところもあるのだが、私見を述べれば、クチコの臣は、
「私が三人目の使者です。天皇のお心をないがしろにされると、よいことはございません」
 辛《つら》い仕打ちを受けたせいもあり、やんわりと進言したのではあるまいか。それでなくても皇后が韓人を頼って身を寄せたのは誤解を招くおそれがある。韓人も痛くない腹をさぐられるのは困るだろう。みんなで相談して、
「韓人のヌリノミが飼っている虫は、一度は這う虫になり、一度は殻《から》になり、一度は飛ぶ鳥となり、三色に変わります。とても珍しいので、この虫を見るために立ち寄りました。他意はございません」
 と天皇に伝えた。
 仁徳天皇のほうも、皇后を怒らせてばかりいるつもりはない。
「それは珍しい。私も見に行こう」
 と、わざわざ足を運ぶ。
 ヌリノミは珍しい虫を皇后に献上して天皇を迎えた。天皇はヌリノミの館の戸口で、にぎにぎしい歌を詠み、天皇と皇后のあいだに和解が成立した。
 とはいえ天皇は、同じ頃、八田《やた》のワカイラツメにも歌を贈り、
 
  八田に生える一本|菅《すげ》は
  子を持たないまま枯れてしまう
  ああ、惜しいことだ
  言葉では菅の原と言っているが
  すがすがしいのは、あなたのほうだ
 
 と、恋情を訴えれば、八田のワカイラツメも、
 
  八田の一本菅は独りでおりますけれど
  大君がよしと言われるなら私も独りでいます
 
 と返す。かくてこの恋の記念として八田|部《べ》が定められた、という事情である。
 
 次に仁徳天皇はメトリの王《おおきみ》に惚《ほ》れ込み、弟のハヤブサワケの王を仲立ちにして自分の気持を伝えた。メトリの王は、
「皇后様の嫉妬《しつと》がすごいんでしょ。八田のワカイラツメさんをそばに置くこともできなかったじゃないですか。私はお仕えできないわ」
 と断り、使者のハヤブサワケの王に、
「あなたの妻になりたいわ」
 弟のほうと結婚してしまった。
 ハヤブサワケの王としては返事を持ち帰りにくい。一方、仁徳天皇のほうはさっぱり報告がないので、みずから足を運んでメトリの王の館のしきいに立った。メトリの王は機《はた》の前で布を織っている。
 
  愛らしいメトリの王
  あなたが織っている機は
  だれの衣の布だろう
 
 と歌で尋ねれば、メトリの王が答えて、
 
  空高く行くハヤブサワケ王の
  衣の布です
 
 と……こうまではっきり言われては仕方ない。天皇はメトリの王の心を知って帰路についた。
 ところが、そのあと、ハヤブサワケの王が訪ねて来ると、メトリの王は、
 
  ひばりは天に高く飛ぶ
  さあ、空高く行くハヤブサワケの王
  みそさざいの命を奪ってくださいな
 
 と詠んで迎えた。この歌が天皇の耳に入ったから許せない。
 ——みそさざいは私のことだな——
 軍をさし向けた。
 ハヤブサワケの王とメトリの王は手に手を取って逃れ、倉椅《くらはし》山へ登った。奈良県桜井市の南にある山塊らしい。ハヤブサワケの王は、
 
  梯子《はしご》を立てたようにけわしい山なので
  あなたは岩ではなく私の手にすがりつく
 
 とか、あるいはまた、
 
  梯子を立てたようにけわしい山だけれど
  妻と一緒に登れば、けわしくもない
 
 とか、そんなこと詠んでる場合じゃないような気もするけれど、いったんは逃げのびたが、結局、宇陀《うだ》の蘇邇《そに》で軍勢に追いつかれ、殺されてしまう。
 後日談があって、この追討軍の大将が山部《やまべ》のオオダテ。メトリの王の腕輪を奪って自分の妻に与えた。宮中で宴《うたげ》が催され、女たちも招かれて出席したが、オオダテの妻が、すばらしい腕輪をつけている。皇后イワノヒメが手ずから酒盃《しゆはい》の柏葉《かしわば》を取って女たちに賜ったところ、
 ——あら、どうしたのかしら——
 オオダテの妻の腕輪に見覚えがある。そこで皇后は彼女には柏葉を与えず、外に引き出し、夫のオオダテも呼んで、
「メトリの王たちは無礼を働いたので殺されたのです。ただそれだけのこと。なのに、お前は、こともあろうにメトリの王が手に巻いていた腕輪を盗みましたね。メトリの王の肌がまだ温かいうちに奪って妻に与えるとは、なにごとですか」
 と、死刑に処してしまった。
 皇后の怒りは、よくわからないところがある。右の言葉から察すると、腕輪はもともと天皇が腕に巻いていたものではないのか。だから皇后が見覚えていたのだろう。それをしばらく見なくなって、
 ——どうしたのかしら——
 と思っていたところ、メトリの王を討った将軍の妻が腕に巻いている。
 ——いま、わかったわ。天皇がメトリの王に与え、それを将軍がどさくさまぎれに奪って自分の妻にプレゼントしたのね——
 と、皇后の推理が正しいとしても、どうしてそのことが死刑を宣告するほど憎いのか。それは、まあ、戦利品を勝手に私するのは好ましいことではないけれど……なにもかも嫉妬のせい……かな。あれも憎けりゃ、これも憎い、嫉妬の中に論理を求めても無理、ということなのかもしれない。
 
 いくらよい子孫を持つことが肝要でも、女性関係の話ばかりでは味気ない。このあと天皇が日女《ひめ》島に行くと、そこで雁《かり》が卵を産んだ。雁は北からの渡り鳥だから日本で卵を産むのは珍しい。長寿の忠臣・建内宿禰《たけしうちのすくね》を呼んで�お前は大変な長寿だが、この国で雁が卵を産んだのを聞いたことがあるか�と歌で尋ねれば、建内宿禰が�いや、いや、長寿の私も聞いたことがありません。これはめでたいしるし、天皇が永久にこの国を治めるようにと雁が卵を産んだのです�と同じく歌で答えている。
 そしてまた現在の大阪府高石市の富木《とのき》西に、とてつもなく大きな木があって、影が淡路島にまで及ぶほど。この木で船を造り、枯野と名づけ、朝夕、淡路島の良水を汲んで、天皇の用に供したこと、この船が壊れてからは船体を焼いて塩を作ったこと、焼け残りで琴を作ったところ、この音色が七郷に響きわたったことなどなどが歌をそえて語られている。
 仁徳天皇の事蹟は日本書紀にもつまびらかだが、古事記とは微妙にくいちがっている。二書のくいちがいは毎度のこと、さほど怪しむ必要もないけれど、つぶさに照らし合わせてみると第十六代仁徳天皇と第十五代応神天皇とエピソードの入り混りが顕著に見られ、二人がもしかしたら同一の人物ではなかったか、そう推察する理由にもなっている。
 仁徳天皇は八十三歳で没し、五男一女をもうけたが、三人の男子が天皇となっている。第十七代|履中《りちゆう》天皇、第十八代|反正《はんぜい》天皇、第十九代|允恭《いんぎよう》天皇である。いずれもあの嫉妬深いイワノヒメ皇后の子で、長男、三男、四男である。二男はどうしたかと言えば、名をスミノエノナカツミコ、履中天皇の強力なライバルであった。
 
 さて、履中天皇が新嘗《にいなめ》の祭を催し、大宴会の酒にすっかり酔って眠ったところ、
「火事だ」
 御殿が燃え始める。
 弟のスミノエノナカツミコが兄を殺そうとして火を放ったのだ。
 アチの直《あたえ》という家臣が、いち早く履中天皇を連れ出し、馬の背に乗せて大和《やまと》へ。天皇は河内の多遅比野《たじひの》(現在の大阪府|羽曳野《はびきの》市)まで来て目をさまし、
「ここはどこだ」
 アチの直が説明して、
「スミノエノナカツミコが御殿に火をつけたので大和まで逃げて行くのです」
 との答。天皇が歌を詠んで、
 
  たじひ野で寝ると知ってたら
  屏風《びようぶ》を持って来たものを
 
 なんて、暢気《のんき》というか余裕というか、高いところから炎上する御殿を望見して、
 
  はにゅう坂に立ってながめると
  ぼうぼうと燃える家々
  あれは妻の家のあたり
 
 と詠む。さらに二上《ふたかみ》山の大坂口まで来ると女に出会った。女が言うには、
「武器を持った人が山を塞《ふさ》いでいます。当麻《たぎま》路よりまわって山越えをなさいまし」
 そこでまた歌を詠み、
 
  大坂で会った娘よ
  道を尋ねたらまっすぐにとは言わず
  当麻路を告げた
 
 と、あまりおもしろい歌ではない。
 石上《いそのかみ》神社(天理市)に滞在していると、ミズハワケの命(三男・後の反正天皇)がやって来た。履中天皇は、
「弟よ、お前もスミノエノナカツミコと同じ心だろう。なにも話すまい」
 と、つれない挨拶《あいさつ》。
「いえ、兄さん。私はそんな汚い心の持ち主ではありません。スミノエノナカツミコと同じだなんてとんでもない」
「それならば、道を返してスミノエノナカツミコを討って来い。そのときには親しくつきあってやるさ」
「わかりました」
 ミズハワケの命は難波に帰り、
 ——はて、どうしたものか——
 一計を案じ、スミノエノナカツミコの近くに仕えているソバカリという隼人《はやと》を身方《みかた》に引き込む。
「私の命令に従ってくれれば、私が天皇になったとき、お前を大臣に任命して国を治めようと思う。どうだ?」
「ご命令のままに」
「うむ」
 ソバカリにたくさんの品々を与えたうえで、
「私の命令は……お前の主人であるスミノエノナカツミコを殺せ」
「はい」
 ソバカリは、スミノエノナカツミコが厠《かわや》に入るのをうかがい、矛《ほこ》で刺し殺した。
 ソバカリはミズハワケの命の重臣に加えられた。だがミズハワケの命は、大和へ向かう途中、大坂の山口まで来て思い悩む。
 ——ソバカリは私のために功績を示してくれたけど、すでに自分の主人を殺している奴だ。ああいう男は次にまた不義を働くにちがいない——
 油断はならない。しかし、その功績に報いてやらなければ信義にもとる。とはいえ約束を守っていたら末恐ろしい。ソバカリの心根が怖い。
 ——そうか。約束は約束として守ってやり、そのあとで当人を殺せばよい——
 という計画を思いつく。古代社会は仁義なき戦いが許されていたのだ。
 ソバカリを呼んで、
「ご苦労であった。今日はここに留まって祝宴を催し、明日、大和へ上ろう」
「なんのお祝いでしょうか」
「お前を大臣に任命するぞ」
 仮宮を造り、儀式をおこない、百官をもってソバカリを大臣として敬わせた。かりそめではない、本当の大臣任命式であった。ソバカリが、�わが志、成就す�と思ったのも無理はない。そのうえで、
「大臣よ、盃《さかずき》をともにしようではないか」
 顔を隠すほどの大盃《たいはい》を用意し、まず先にミズハワケの命が飲み干す。次に、ソバカリが飲み干そうとして盃が顔を隠したとき、ミズハワケの命は敷物の下に置いた太刀《たち》をすばやく取って、
「えいっ」
 と首をはねた。
 こののち、二つの飛鳥《あすか》、すなわち大阪府の近つ飛鳥《あすか》(現在の羽曳野市)と奈良県の遠つ飛鳥(現在の高市《たかいち》郡)の命名が……ミズハワケの命が呟《つぶや》いた明日という言葉からつけられたことが記されているが、信じにくいところもある。
 むしろ履中天皇に、
「すべて平定いたしました」
 と報告し、ミズハワケは天皇の身辺に召され、睦《むつま》じく今後のことを語り合った、と、このほうが重要であろう。
 天皇を火中から救ったアチの直を始め、忠臣たちがそれぞれ報奨を受けた。
 仁徳天皇の治世が長かったため履中天皇の在位は短く、五年ぐらいか、六十四歳で没している。
 跡を継いだのはミズハワケの命、すなわち第十八代反正天皇である。多治比《たじひ》の柴垣《しばかき》の宮にあって天下を治めた。現在の大阪府松原市上田の柴籬《しばかき》神社のあたりと推定されているが、確証はない。反正天皇は身の丈九尺二寸半(つまり二メートル八十センチ)歯は長さ一寸(三センチ強)上下そろって珠を貫いたみたい……と、いや、いや、いや、私が言うのではなく、古事記にそう書いてあるのだ。とてつもない大男であったらしい。この天皇も在位が短く、六十歳で亡くなっている。
 以上、仁徳天皇とイワノヒメの間に生まれた四皇子のうち三人が天皇となったと先に記したが、三人めがオアサヅマノワクゴノスクネの命、すなわち第十九代允恭天皇である。
 
 允恭天皇は体が弱かった。長く患う病を身に持っていた。それで当初は皇位に即《つ》くことを辞退していたのだが、后《きさき》を始め多くの人に勧められて天下を治める立場となった。
 すると新羅《しらぎ》の国から八十一|艘《そう》の船がやって来て、貢ぎ物をいっぱい献上する。大使の名はコミハチニカニキムと言い、薬の調合に長《た》けている。天皇の病気が治った。
 允恭天皇の大事業は、乱れている氏姓を整理し、明確に決定したことである。
 大切な仕事だが、完遂には相当の困難が予測されるものだ。どんなことを、どんなふうにやったのだろうか。原文には�味白檮《うまかし》の言八十禍津日《ことやそまがつひ》の前《さき》に、玖訶瓮《くかべ》を居《す》ゑて、天の下の八十友《やそとも》の緒《を》の氏姓を定めたまひき�とあって、味白檮の言八十禍津日の前は、飛鳥の地にあって、災禍の有無を決定する神のこと、玖訶瓮は神意をさぐる鍋《なべ》である。この鍋で湯を沸かし、八十禍津日の神に誓約して鍋に手を入れると、正しいことを告げている者は平気だが、偽っていると火傷《やけど》を負う。こういう方法で、
「お前の先祖はだれかな? いい加減の姓を名のってるんじゃあるまいな」
 と、素姓をただした、ということだろう。どの程度の規模で敢行したのかはっきりしないけれど、一定の効果はあっただろう。
 また皇子、皇后、皇后の弟の名代として軽部《かるべ》、刑部《おさかべ》、河部《かわべ》などの姓を設けているが、これも氏姓の調整事業の一環であったろう。
 皇后は忍坂《おさか》のオオナカツヒメ。もうけた子が九人、と、なかなかの子だくさん。五男四女である。
 この允恭天皇は七十八歳で亡くなった。
 長男に当たるキナシノカルの太子《みこ》は、世継ぎが約束されていたのだが、皇位に即く前に妹のカルノオオイラツメと戯れて、
 
  山に田を作り
  山が高いので地下に水路を通わせ
  その水路のようにこっそりと心を通わせた妹よ
  こっそりと恋して泣いている妻よ
  今夜は安らかに肌を触れあったぞ
 
 と詠み、さらに、
 
  笹の葉に霰《あられ》が激しく打ちつける
  あの音の激しさのようにお前と共に寝ることができるなら
  その後は別れてもかまわない
 
 
 
  大好きなんだから共に寝て
  刈り取った薦草《こもくさ》のように乱れに乱れ
  共に寝てからは後はどうとでもなれ
 
 と情熱の赴くまま歌った。どことなく無責任にも感じられ、おかげで人心が離れ、三男のアナホの命《みこと》のほうへと敬愛が移っていく。
 ——キナシノカルは殺したほうがいいんじゃない——
 と世論が傾く。
 キナシノカルの太子は恐れて大前小前《おおまえおまえ》の宿禰《すくね》の家に逃げ込み、兵器を整える。アナホの命も兵を集め、兵器を整える。両軍が用意した矢に差異があったようだが、それは省略。アナホの命の軍勢が大前小前の宿禰の家を囲んだ。折しも氷雨《ひさめ》が降りしく。アナホの命が、
 
  大前小前の宿禰の門の下
  さあ、出ていらっしゃい
  雨宿りしましょう
 
 と、軽く呼びかけた。すると大前小前の宿禰が手を挙げ、膝《ひざ》を打ち、舞いながら歌いながら、
 
  宮人の足につけた小さな鈴
  落ちたと言って宮人たちが騒いでいる
  里人よ、さわぐでないぞ
 
 と、これも陽気に装って戦意のないことを表わす。歌いながら出て来て、
「アナホの命よ、兄さんに軍勢を向けてはなりません。人が笑います。私が捕らえて連れてまいりますから」
 と、なだめる。
 アナホの命が軍勢を退《ひ》かせると、約束通り宿禰がキナシノカルの太子を連れて来た。太子が歌って、
 
  空飛ぶ雁《かり》、その雁と同じ名のカルの娘さん、あんまり泣くと人に知られてしまう。
  だから仕方なく波佐《はさ》山の鳩のようにこっそりと
  こっそりと泣くのです
 
 これは共に寝ているカルノオオイラツメに対して告げている歌だ。さらに、
 
  空飛ぶ雁、その雁と同じ名のカルの娘さん、ちゃんと寝ていらっしゃい
  カルの娘さん
 
 と、いたわり続ける。
 アナホの命は兄を捕らえて伊予《いよ》の温泉に流した。今日の道後《どうご》温泉のことらしい。キナシノカルの太子は、そのときも歌を詠み、
 
  空を飛ぶ鳥は私の使いです
  鶴の声が聞こえたら
  私のことを尋ねてください
 
 とこれもカルノオオイラツメへのメッセージだろう。
 
  私を島に流したならば
  私は余った船で帰って来よう
  だから私の座席は守り残しておいておくれ
  言葉では座席と言うけれど
  それは、つまり私の妻のこと、妻はかならず守り残しておいておくれ
 
 切々と訴えている。カルノオオイラツメはもう一つの名をソトオシノイラツメ(衣通しの郎女)と言った。肌が光り輝いて衣を通すからである。玉のように美しい肌の持ち主であったにちがいない。それだけにキナシノカルの太子もぞっこんに惚《ほ》れ込んでしまったのだろう。
 カルノオオイラツメが詠んで、
 
  夏草の繁るあいねの浜は
  蠣《かき》貝の多いところ、足で踏むとけがをしますわ
  夜が明けてからいらしてくださいね
 
 と歌って太子のふたたび戻って来るのを待ったが、待ちきれずに追って行く。
 
  あなたが去ってから長い日時がたちました
  山を越え迎えにまいります
  とても待ってはいられません
 
 太子は待ちながら歌って、
 
  隠れ住まいの泊瀬《はつせ》の山で
  高い丘に旗を立て
  低い丘に旗を立て
  大きな丘と小さな丘のように二人|睦《むつま》じく再会したい
  いとしい妻よ、恋しいぞ
  弓が転がろうと
  弓が立っていようと
  最後まで捨てやしない、恋しい妻よ
 
 と、恋ごころを訴え、さらにまた、
 
  隠れ住まいの泊瀬の川で
  上《かみ》の瀬に杭《くい》を打ち
  下《しも》の瀬に杭を打ち
  その杭に鏡をかけ 玉をかけ 神を招く
  玉のように美しいわが妻よ
  鏡のように輝くわが妻よ
  どこにいるのだ
  家にも行こう 故郷にも行こう
  どこにいるのだ
 
 と詠んだ。歌は届いたのだろうか、二人の再会はなかったのだろうか。間もなくキナシノカルの太子もカルノオオイラツメも、ともに死んでしまう。
 当初の記述では、キナシノカルの太子は情熱のおもむくまま、ちょっと無責任にも感じられたけれど、二人の恋のいきさつを最後まで読めば、一途《いちず》な情念のようにも感じられる。初めのほうのの中にあった�共に寝てからは、後はどうとでもなれ�といった意味の文言《もんごん》は、いい加減な態度を言ったのではなく、ともに愛し合う一瞬の貴さを強調していた、と見るべきものらしい。遅まきながら天国に結ぶ恋であることを祈っておこう。現代語に替えて紹介した歌謡には、それぞれ�これは夷振《ひなぶり》の上歌《あげうた》です��これは読歌《よみうた》です�などなど分類が示されているが、ここでは説明を省略した。お許しあれ。
 次はアナホの命の御代である。
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