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心の旅路05

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:カタン カタン あとで考えてみれば、奇妙な出来事はその日の朝からすでに始まっていたのかもしれない。 市原文雄。三十一歳。
(单词翻译:双击或拖选)
 カタン カタン
 
 
 あとで考えてみれば、奇妙な出来事はその日の朝からすでに始まっていたのかもしれない。
 
 市原文雄。三十一歳。広告代理店に勤めている。家族は妻の愛子と二人暮らし。もうすぐ新婚一年目の記念日がやって来る。
 
 一カ月ほど前、私鉄沿線の郊外地にマンションを買った。2LDK。三階建てビルの三階。小ぢんまりしたマンションで、建ったばかりだから入居率はまだ三十パーセントくらいのものだろう。一階は商店を入れるつもりらしいが、ほとんど買い手がついていない。
 
 駅までは早足で歩いて十分ほど。ほかには自転車でも用いなければ、なんの便もない。駅の反対側はそれなりに賑《にぎ》わっていて商店街などもあるのだが、市原が住む北側の地域は開発が遅れていて、広い舗装道路が一本まっすぐに走っているだけ。駅前広場から最初の交差点あたりにかけて小さなスーパーマーケット、銀行、パチンコ屋、やきとり屋、交番、内科医院など。日常の買い物はこのスーパーマーケットでどうにか間にあうし、銀行は一応市原家の取引銀行。交番と医院はなにかのときに役立つだろう。パチンコ屋とやきとり屋は会社の帰りにちょっと立ち寄ったことがある。あとは芝居のセットみたいな家並みが道路を挟んで途切れがちに続いている。
 
「駅には遠くないんだし、今にこっち側だって賑やかになるわ」
 
 引越しの日に愛子が自分を説得するような調子で言っていた。多分その通りだろう。そうでなければ困ってしまう。東京の周辺では、あっと思うまに開発が進む。住宅公団の建設予定地も近くにあることだし、マンションは思いのほかよい買い物だったかもしれないぞ。
 
「駅のむこう側だと、同じ距離でこの規模なら二倍くらいの値段だもんな」
 
「すぐに同じになるわよ」
 
「そうかもしれん」
 
 大通りはまだ自動車の通行も少なく、夜半過ぎは無気味なほど静かだ。空気が澄みきっていて、星がいくぶん近くに見える。
 
「あれが北極星。あれがカシオペア座……」
 
「よく見えるわねぇ」
 
 晴れた日の朝はとりわけ心地よい。山塊は近く、青空の下に高圧線の電線が巨大な蜘《く》蛛《も》の巣のように銀色の糸を輝かせている。
 
「春らしくなったな」
 
「本当ね」
 
 起床は七時。文雄が家を出るのは七時四十五分と決まっている。
 
「今度のボーナスで自転車でも買うか」
 
 文雄が食卓に朝刊を広げ髭《ひげ》を剃りながら呟いた。電気剃《かみ》刀《そり》がブーンと低い唸《うな》り声をあげて頬から顎へと動いている。自転車屋のちらし広告が新聞のあいだに挟んである。
 
「婦人物が先よ」
 
「危いよ」
 
「あら、私、わりと自転車うまいのよ」
 
「野尻湖へ行ったとき、途中でへばったじゃないか」
 
「あそこは登り坂なんですもん。平地なら平気よ」
 
 文雄はぼんやりと思う。野尻湖へ行ったのは結婚前だった。湖畔を見おろすホテルで初めて愛子を抱いた。なかなかうまくいかなくて、やたら焦ってばかりいて……。〓“野尻湖〓”と聞くと、文雄はいつも口の中に甘酸っぱいものを感ずるのだが、愛子はさほど意識することもないらしい。
 
「二台買うかなあ」
 
「もったいないわよ。私のを買って、遅れそうなときだけ貸してあげるわ」
 
「こっちは毎日出勤するんだぜ」
 
「私だって、毎日なにかしら買い物があるわ」
 
 いつもと変りない夫婦の会話。生活の中のジャブの応酬。文雄は神経の三分の一ほどを会話に費し、残りは三面記事、トーストとコーヒー、それから髭剃りにと配分する。
 
 電気剃刀の音がかすかに乱れ、ブブーブン、ブーンブブン、ブン……とかすれ、
 
「痛え」
 
 頬に痛みを残してモーターが止まった。髭を二、三本噛《か》み込んだらしい。
 
 電気剃刀が肌に触れる部分は細かい網の目になっている。その下で薄い歯が回転している。振っても叩いても動こうとしない。
 
「電池が切れた」
 
「本当?」
 
「スペアないか」
 
「ないわ」
 
「今度買っておいてくれよ」
 
「ええ……。でも、忘れそう。あなた買って来てよ」
 
「思い出したほうが買えばいい。ダブっても無駄にはならない」
 
「そうね」
 
 話しながらもグズグズはしていられない。洗面所に駈け込み、安全剃刀のセットを捜した。お湯を沸かしてもらうひまもなさそうだ。石《せつ》鹸《けん》を塗りつけ、なんとか残りの髭をそぎ落として文雄は家を出た。
 
 ただそれだけ。どこの家にでもありそうな朝の風景。この風景からなにかの前兆を汲み取るのは極度にむつかしい。
 
「じゃあ行ってくる」
 
「今夜も遅いの?」
 
「少し残業があるからな」
 
 文雄は駅までの道を急いだ。
 
 出がけに愛子のセーターの胸元がチャーミングだなと思った。今朝初めて気づいたわけではない。再確認。再々確認。いや、再々々々と何度続けたらいいかわからない。毎度おなじみの興奮を覚え、抱き寄せてギュッと握り締めたいと思った。どんなに急いでいるときでも、こういう感覚は自己主張を忘れない。本当のところ愛子の乳房はとてもきれいだ。それを知っている男は俺だけ……。違うかな。清潔感を保ちながら微妙にエロチックである。掌に少しあまるくらいの大きさ。シコシコと堅く張りつめている。まっすぐに立ったとき南半球が全体の重さで少し脹《ふく》らむ。乳《にゆう》暈《うん》が大きく乳首がツンと脹らむ様子が淫《みだ》らに映る。
 
 ——昨日も、一昨日も抱かなかった——
 
 新婚一年目としてはめずらしい。今夜は早く帰れるだろうか。
 
 ——無理だな——
 
 決算期をひかえて残業がたっぷりとある。しかし、酒さえ飲まずに帰れば妻を抱けないほどのことはあるまい。
 
 想像は愛子の乳房から下腹部へと移った。
 
 
 
 朝の九時から夜の八時まで、会社で過ごした十一時間には、なんの変化もなかった。いつもと少しも変りがなかった。昼休み前に課長が書類を叩いて怒っていたが、この人の発作は一週間に一回はきっとある。めずらしいことではない。
 
「ほら、始まった」
 
「少し周期が短いんじゃないの」
 
 目配せをして風当たりの弱い席からそっと逃げ出す。昼食は社員食堂の梅定食。これもまた平常通り。
 
 午後には退屈な会議。それから計算機を叩いていたら、もう五時。
 
「残業するの?」
 
「うん。少しな」
 
 残業前の腹ごしらえは外に出て春木屋の天丼。大小アンバランスの海《え》老《び》が二匹載っている。この大きさの海老は日本の商社が世界の果てまで手を伸ばして買い占めているらしい。
 
「お前はどこから来たんだ?」
 
 尋ねながら尻尾の先の肉まですすった。故郷はインド洋の果てあたりかもしれない。こいつもまさか遠い日本で天丼になるとは思っていなかったろう。
 
 席に戻ってまた計算機を叩いたが、今夜はやけに時間の進みが遅い。気がつくと腕時計が止まっている。婚約記念に愛子が買ってくれたやつ。オフィスの時計は八時を過ぎている。疲れた。帰ろう。愛子も待っているだろう。
 
 帰り仕度をしていると、
 
「一ぱいどう?」
 
 主任に誘われたが、断った。
 
 そのあとで三人組が近づいて来て、
 
「つきあわない?」
 
 指先でなにかをつまむようにして横一文字を描く。言わずと知れた麻雀の誘いだが、これも断った。
 
 国電に揺られ私鉄に乗り換え、郊外地の駅を出たのは十時過ぎだったろう。腕時計が止まっているので正確なことはわからない。
 
 無性に愛子を抱きたかった。
 
 駅からの道は角へ来るたびに人影が乏しくなる。疎《まば》らに街灯のともる道を急ぎながら愛子の白い体を思った。
 
 ——愛子の歓びは〈 y = x2 〉くらいの関数だな——
 
 高校時代に習った公式を思い出す。黒板にかかれたグラフの曲線が浮かぶ。
 
 妻の歓《よろこ》びはゆっくりと始まって急速に高まる。しかも時間を追って滑らかに興奮が募っていく。不連続に変化することはない。機械のように一定の曲線を描いて加速していく。
 
「ただいま」
 
「お帰りなさい。お食事は?」
 
 胸もとの乳房は健在だ。すぐに抱きつくわけにもいくまい。
 
「少し食べるかな」
 
 甘塩の鮭でお茶漬けをすすった。
 
「お風呂沸いているわよ。私、先に入っちゃったけど」
 
 気がつくと妻の体は上気してかすかに匂《にお》いを放っている。
 
「汗だけでも流すか」
 
 夕刊のラジオ欄を見ると、ちょうどオペラの〓“カルメン〓”が始まるところだった。文雄の趣味はクラシック音楽。〓“カルメン〓”は昔から好きなオペラだったし、新婚旅行でスペインに行ってから一層好きになった。ジプシーの踊り。闘牛場のざわめき。グラナダの赤い月……。
 
「〓“カルメン〓”をやってる」
 
「あら、ほんと」
 
 愛子はさほどオペラには関心がない。文雄はトランジスタ・ラジオをぶらさげてバスルームへ入った。
 
 オペラはすでに始まっていた。フランス国立劇場の公演らしい。フランス語はわからないけれど、何度も聞いているのでお経の文句みたいに暗《あん》誦《しよう》している。湯船でゆったりと足を伸ばして〓“ハバネラ〓”を口ずさんだ。
 
 第二幕の〓“ジプシーの歌〓”が終り〓“闘牛士の歌〓”が始まろうとしたとき突然メロディが乱れた。音が細くなり、ツツン、ツンツーンと不細工な響きを残してなにも聞こえなくなった。濡《ぬ》れた手を拭い、振っても叩いてもなにも鳴らない。音量をいっぱいにあげて耳を寄せてみたが、やっぱり聞こえない。
 
 ——また電池が切れたらしい——
 
〓“また〓”と思ったのは朝がた電気剃刀の電池が切れたのを思い出したから……。
 
 風呂場から首を出して、
 
「おーい、小さい電池なかったかなあ」
 
 と、愛子に呼びかけた。
 
「だから……ないのよ」
 
「電気剃刀は単一だし、こっちは単三だ」
 
「どっちもないわ。昼間捜したけど」
 
「しようがねぇなあ」
 
「買って来てくれればよかったのに」
 
「すっかり忘れてた」
 
「今日は私も買い物には行かなかったの。困るわ。時計の電池も切れたらしいの。四時十分を指したっきりよ」
 
「本当かよ」
 
「嘘なんか言ったってしようがないでしょ」
 
「俺の腕時計も止まった。あんたからもらったやつ。ちょうど電池が切れる頃だけど」
 
「変ね。どういう日なの、朝から」
 
 まったく今日はどうなっているんだ。〓“カルメン〓”はあきらめるより仕方がない。
 
 体をすっかり洗ったところでもう一度湯船に深々とつかって思案をめぐらした。
 
 結婚して一年足らず。器具類の電池は耐用時間のきれる時期にさしかかっているらしい。それにしても、なにもかもいっせいに止まり始めるなんて……。
 
 ——電気を食べちまう怪獣がいたっけなあ——
 
 とりとめもない連想が胸に込みあげて来る。
 
 子どもの頃に怪獣ブームがあった。ゴジラから始まってアンギラス、ガメラ、テレスドン、カネゴン、エレキング……。カネゴンは金貨や札束を好んで食べるヘンテコなやつだった。電気を常食とするのはエレキングだったろうか。
 
 ——このマンションのどこかに電気を食べるゴキブリでも住んでいるんじゃあるまいか——
 
 新築のくせにここはやけにゴキブリの多いマンションだ。養鶏場のあとじゃあるまいか。
 
 風呂からあがると、なるほど柱時計が四時過ぎで止まっている。
 
「何時頃だろう」
 
「十一時を過ぎたとこみたい」
 
 愛子が顎でテレビの画面を指した。
 
「あんたの腕時計があったろ」
 
「しばらく使ってないけど……」
 
「あとでテレビにあわせておけよ。あれはゼンマイだろ」
 
「そうだと思うわ」
 
 ニュースが終ったところを見ると十一時十分か、十五分くらい……。
 
「寝るか」
 
「ええ……」
 
 夫婦は連れだって寝室へ入った。障子を閉めたところで振り返って唇を重ねた。
 
「あ、いやン」
 
 抱きかかえて布団の上に押し倒す。乱暴に胸を開き、愛《あい》撫《ぶ》を続けながら夜着を奪った。灯《あか》りの下で形のよい乳房が汗ばんでいる。今朝からずっとこんな光景を思っていた。
 
 抗《あらが》う脚を掌の動作で何度も何度も説得して布地の上から深い溝をさすった。ナイロンの布地の下に柔かい褶《しゆう》曲《きよく》がある。この感触。このぬくもり。いましも不思議な生き物が跳《ちよう》梁《りよう》を開始しようとしている。
 
「あかるすぎるウ」
 
「とてもきれいだ」
 
「眩《まぶ》しいわ」
 
 下着をはぎ取った。
 
 愛子は眼を閉じて自分だけの闇を作る。唇が脹らみを帯びている。
 
 下腹の白さを際立たせるように黒い恥毛が群がっている。指先を伸ばすと、亀裂は滑らかに潤《うる》み始めていた。
 
 鼻孔が脹らみ、顎があがり、首が左右に小さく揺れる。
 
 そのとき……。
 
 ——おや——
 
 なにかしら薄い影が落ちて来るような気配だった。あかりが暗くなったのがわかった。
 
 愛撫の手を止め、天井から垂れた電灯を見あげた。
 
 ジジー、ジジーン。
 
 細い音をたて電灯がフッと消えた。
 
 愛子はすぐには気づかなかった。むしろ文雄の動作でなにかを感じ取ったらしい。
 
「どうしたの」
 
 声は陶酔を押しのけ、平生の調子に戻っていた。
 
「停電らしい」
 
 室内はまっ暗だ。
 
 愛子の白い顔もありかがよくわからない。一筋のあかりもない。これだけ黒い闇もめずらしい。
 
 体を寄せあったまま待ったが、いっこうにあかりはつかない。立ちあがってほかの部屋のスウィッチを押してみた。なんの変化もない。
 
「うちだけかしら」
 
「わからん」
 
「厭ねえ。今ごろ……」
 
「懐中電灯はどこだ?」
 
「えーと、たしか台所の……食器棚の右の引出しだわ」
 
「うん」
 
 手探りで台所へ入って食器棚の懐中電灯を捜した。いざというときのためにもう少しわかりやすいところに置いておかなければなるまい。
 
 ドライバーや、ペンチに混って筒状の懐中電灯が指先に触れた。スウィッチを押すと、影の多い、同心円の光《こう》芒《ぼう》が室内を照らし出す。
 
 ——停電はうちだけかな——
 
 ブレーカーの蓋《ふた》をあけて、中を一応確かめてみた。ここにも異常がない。
 
 カーテンの外を見た。
 
 空のどこかに月でもかかっているのだろう。視界は思いのほか明るかったが、電灯のあかりらしいものはなに一つとして見えない。
 
「うちだけじゃないな。みんな停電らしい」
 
「厭ねえ。冷蔵庫の中のもの……」
 
「いまにつくよ」
 
 枕元に懐中電灯を立て、天井に光を映した。
 
 ——妙なことで中断されてしまった——
 
〈 y = x2〉のグラフはxに1か2を代入したところで途切れてしまった。
 
 ——もう一度初めからやりなおさなくちゃあ——
 
 手を伸ばして愛子の乳房に触れた。愛子も体をからめて来た。女体のしなやかさが心地よい。掌を伸ばして背後から熱い部分を探った。
 
 だが……そのとき、また細い音が響いた。音というより気配のようなものだった。
 
 ブブーブン、ブーンブブン、ブン……。
 
 薄暗い光がさらに薄くなり、懐中電灯の灯が命でも尽きるように弱々しく輝いてスーッと消えた。
 
「なんだ?」
 
「へんね」
 
 これも電池がきれたらしい。
 
「どうなっているんだ、まったく、今日は」
 
 わけのわからない不安が胸をかすめる。電気を食うゴキブリ……まさか。いわれのない悪意が周囲に潜んでいるのではあるまいか。なにかテレパシイみたいなものが作用していて……。
 
 最初は電気剃刀だった。柱時計が止まり腕時計が止まりトランジスタ・ラジオが聞こえなくなった。ついで家中の電気が消えた。周囲の家もまっ暗だ。懐中電灯を持ち出せば、その電池まで切れてしまった。
 
「こんなことって、あるのかな」
 
「明日、電池を買って来るわ」
 
「そうしてくれよ。俺も忘れなかったら買って来る。陰気でいけない」
 
「怖いわ、なんだか……」
 
 心なしか愛子の声が震えている。なにしろまっ暗なので表情がわからない。
 
「ただの偶然よ」
 
 そう呟きながら文雄自身もかすかに納得がいかない。
 
 いつか遊園地でメリーゴーラウンドの電源が切れたことがあった。陽気な歌の中で動いていた木馬たちがカタン、カタンと命をなくすように動きを止めた。音楽が止み、イルミネーションも消えてしまった。一瞬、死の世界に変ったような恐怖を覚えた。そんな記憶が胸に甦《よみがえ》って来る。
 
「懐中電灯を入れた引出しに、たしか蝋《ろう》燭《そく》があったと思うの」
 
「ああ」
 
「取って来て。暗いの厭」
 
「わかった」
 
 また手探りで部屋を出た。
 
 今度は懐中電灯のときみたいにたやすくは見つからない。
 
「マッチはどこだ?」
 
 寝室に戻って尋ねたが、文雄も愛子もタバコを喫わない。
 
「さあ?」
 
 喫茶店からもらって来たのが、どこかにあったはずだが……。
 
 旅行鞄《かばん》の奥にあったのを思い出して、ようやく灯をともした。
 
 灯をつけて捜せば、すぐに蝋燭が見つかる。食器棚の小皿を燭台にして蝋燭を立てた。
 
 カーテンを開けてもう一度外の様子を確かめてみたが、相変らず灯の輝きはない。町ぐるみ停電になっているのだろうか。
 
「大きな事故かもしれんな」
 
「そうね」
 
 蝋燭の薄い光のせいだろうか。愛子の顔がひどくおびえているように見える。
 
 彼女もなにか漠然とした恐怖を感じているらしい。
 
 ——でもなにを?
 
 わからない。
 
「どうかしたのかな」
 
「なんだか……へん」
 
「べつに気にすることはないさ」
 
「ええ……」
 
 闇の中でパジャマを脱いで裸になった。
 
 ——しっかりと抱いてやろう。俺たちは、愛しあっているまっ最中だったんだ——
 
 途中でおかしな邪魔が入ってしまった。考えてみれば、男と女が愛し合うにはなんの光もいらない。
 
「どうしていっせいに電池がきれてしまったのかしら」
 
 まだ愛子はこだわっているらしい。
 
「わからん。寿命が尽きたんだろ」
 
「みんな一緒に?」
 
「だいたい一年くらいの寿命じゃないのか、ああいうものは。みんな買ったのが同じ頃だから」
 
「厭だわ、寿命だなんて……」
 
 それからなにかを思い出したみたいに、
 
「でも同じ頃に寿命が尽きるって、本当にあるみたいね」
 
 と呟く。文雄は掌で乳房の丘を下りながら問い返した。
 
「なんのことだ?」
 
「へんなこと思い出したわ。ある家でお葬式があると、しばらくはお葬式が続くの。私の友だちのところでもあったわ。お祖父さんが死んで、お祖母さんが死んで、赤ちゃんが死んで、お父さんまで死んでしまって、五年くらいのあいだに四回もお葬式を出したのね。そのあいだ、私の家のほうじゃ一回もなかったわ」
 
「そんなもの、ないほうがいい」
 
「そりゃそうだけど……そのうちにこっちのほうに順番がまわって来て、ひところうちもお祖母ちゃんとか、伯父さんとか……重なったわ」
 
 言われてみると、たしかにそんなことがあるようだ。家族の世代構成と関係があるのだろう。文雄の実家でもひところ抹香くさい時期が何年か続いたことがある。
 
「電気剃刀もトランジスタ・ラジオも時計も家中のものがみんな寿命が来ちゃって……」
 
「なに、電池を入れればみんなまた動き出すさ」
 
 今度はメリーゴーラウンドがいっせいに動き出した光景が文雄の中に甦った。マーチが高鳴り、イルミネーションがパチパチと輝き、木馬たちが胸を張り足を蹴り、誇らしげに走り出した。
 
「それならいいけど、なんか厭あね」
 
「気にすることはないさ」
 
 文雄は身を起こし、愛子の不安を吸い取るように唇を重ねた。
 
 ——さあ、一からやり直しだ——
 
 人差指と中指のあいだに乳首を挟んで渦を巻くように大きく掻き撫でる。膝頭で太《ふと》腿《もも》を割り、そっとやわらかい部分に触れる。風のようにかすかに、波のように繰り返して。
 
 内奥はすでに熟し始めていた。
 
 眉根が寄る。肩が震える。粗い息がこぼれ始める。
 
 ——〈 y = x2 + a 〉かな——
 
 と文雄は思う。
 
〈 + a 〉というのは、最前からの愛撫で女体はすでに高ぶっていた。ゼロからの出発ではない。
 
 ゆるい曲線が次第に加速して高まる。
 
 文雄が女体を割って折り重なる。
 
 薄あかりの中に愛子の妖《あや》しい表情が浮かぶ。
 
「ン、ン」
 
 と、しゃくるような声が漏れる。
 
 歓びの一瞬が近づくにつれ愛子は二本の足を寄せてまっすぐに伸ばす。全身がローリングを描いて揺れるようになれば頂点も近い。
 
「あ、いや」
 
 甘い呻きとは違う、意識の冷静さを思わせる声がこぼれた。
 
「…………」
 
 文雄は首を起こし、妻の顔をのぞいた。
 
 蝋燭の光の中で愛子はポッカリと眼を開いている。なにかを訴えるような表情が流れた。
 
 それと同時に女体の中で波のように渦巻いていた興奮に変化が起きた。男は腕の中でそれを感じた。
 
「どうしたんだ?」
 
 急速に腕の中の女体から興奮が引いて行くのがわかった。
 
 カタッ、カタッ、カタカタカタ……カタン。
 
 音のような気配を感じた。
 
「電池が……」
 
 愛子が細く呟いた。
 
 たしかにそう言ったと思う。
 
「えっ?」
 
 聞き返したとき、カタン……いっさいの動きが止まった。
 
「愛子、愛子!」
 
 首を揺すったが、愛子の表情は変らない。
 
「おい!」
 
 頬を叩いたが、答えない。狼《ろう》狽《ばい》が駈け抜ける。
 
「電池が……」
 
 たしかそう呟いたのではなかったか。文雄はとっさに覚った。覚らないわけにはいかなかった。
 
 ——愛子の電池がきれた——
 
 馬鹿げている。
 
 だが、朝からの出来事はみんなこのことの前《まえ》兆《ぶ》れだったんだ。違うだろうか。
 
 電気剃刀のモーターが止まった。〓“闘牛士の歌〓”が途切れた。そして懐中電灯がフッと消えてしまった。みんな命を使い果してしまったように。
 
 ——こうしてはいられない——
 
 跳ね起きてとにかく下着をつけた。
 
「しっかりしろ」
 
 自分に声をかけたのか、それとも愛子に向かって叫んだのか、わからない。
 
 蝋燭を取り、光を近づけて愛子の顔を照らしてみた。眼を見開いたまま筋肉が動きを止めている。右手は泳ぐようなしぐさで宙を掻《か》いている。
 
 白磁の女体は興奮のまっさかりに電池がきれてしまい、そのまま動作を止めてしまった。そう表現するのが一番ふさわしい姿だった。
 
 心臓に耳を寄せてみた。
 
「愛子! 愛子!」
 
 聞こえるのは自分の動《どう》悸《き》ばかりだ。口もとに耳を寄せたが、息を吐く気配もない。
 
 ——どうしよう——
 
 新築のマンションには、あいにくまだ電話がなかった。
 
 部屋を飛び出したとたん、なにかにつまずいた。
 
 ——糞っ、よりによってこんなとき停電になりやがって——
 
 寝室に戻って蝋燭を取り、手早くズボンをはき、セーターをかぶって外に出た。
 
 向かいの家にはまだ入居者がいない。どこの家に人が住んでいるのかわからない。
 
 階段はまっ暗で駈け降りるのは危険だった。
 
 ——とにかく医者だ——
 
 手すりにもたれかかりながらよろよろと進んだ。
 
 ——何時だろうか——
 
 時計がない。
 
 あったところで今夜は役に立たない。焦りだけが募って来る。思案がまとまらない。なんだかよくわからないが、奇妙なことが起き始めているらしい。
 
 外は月あかり……。
 
 見上げると黒い空に銀紙でも貼ったように明るい月が宿っていた。
 
 電話ボックスの脇を走り抜けた。
 
 電話をかけようにも駅前の医院の電話番号を知らなかった。
 
 しばらく走ってから、
 
 ——ああ、そうか。こんな場合は一一九にかければいいのか——
 
 しかし救急車は、もう死んだ人は乗せてくれないというし……。
 
 ——でも愛子は本当に死んだのだろうか——
 
 とても信じられない。さっきまであんなに元気だったものが急に死んでしまうはずがない。カタン、カタン、耳ざわりな響きが聞こえる。
 
 ——ただの故障だ。電池がきれただけなんだ——
 
 ひた走りに走れば駅前の医院まで五、六分で行けるだろう。そのすぐ先には交番もある。そこまでたどりつけば、なんとかなるはずだ。
 
 ——スーパーマーケットは真夜中でもあいているかな。東京には終夜営業の店があるけれど、こんなところは駄目だろう——
 
 駈けながらそんなことを思ったのは、心のどこかで電池を買うことを考えていたかららしい。単一と単三と、ついでに単二も……。
 
 ——馬鹿なことを考えちゃいけない——
 
 電池を買ったところで愛子のどこへ電池を差し込むというんだ。
 
 町には相変らず灯一つない。黒々とした視界にただ月の光だけが広がっている。
 
 ——真夜中の停電にだれも気づかないのだろうか。迷惑に思う人はいないのか。みんな寝静まっていて——
 
 それにしてもこの道は人っ子一人通らない。せめて自動車かトラックか、なにか走り過ぎてくれればいいものを……。
 
 息苦しさが募る。
 
 心臓が破裂しそうだ。
 
 角を曲がると月が正面に見えた。ここまで来れば駅前まであと四、五百メートルの距離だ。
 
 ジジジ、ジジジーッ、ジーッ。
 
 これは……さっき電灯が消えたときの音によく似ている。だが、もっと大きい音。頭の上からかぶさって来るような音。
 
 ——なんだろう——
 
 またしても信じられないことが起きた。
 
 ——電池がきれた——
 
 正面の月が少しずつ色を薄くし、チカッと輝いたかと思うと、フッと空の中に消えてしまった。
 
 たしかにそう見えた。苦しい息の下でそう思った。
 
 ——俺の眼がおかしいのだろうか——
 
 そんな気もする。意識がぼやけている。脳裏が白ずむ。
 
 必死になって思考を集中した。
 
 ——月はたしかに太陽の光を受けて光っているはずだ。月の電池がきれるはずがない——
 
 ブルッと身震いをした。それとも太陽の電池がきれて、それで月が消えてしまったのだろうか。
 
 ——今はそんなこと思っているときじゃない。とにかく医者を叩き起こせばいい。交番に駈け込めばいい——
 
 そうすれば、きっとみんなはっきりする。あと三百メートル。
 
 ——愛子……医者……交番……スーパーマーケット……。電池を買って……どこに入れるんだ——
 
 さまざまなイメージが浮かぶ。
 
 意識が遠のく。それでも走りに走った。心臓が喉《のど》から飛び出して来そうだ。もう駄目だ。
 
 カタッ、カタッ、カタカタカタ……カタン。
 
 またしても音のような気配をはっきりと自覚した。今までのどの気配よりもはっきりと聞こえた。
 
 ——電池が——
 
 と思った。
 
 ——なにが起きたんだ——
 
 頭の中の白い靄《もや》が解け、黒い霧が溢《あふ》れ、闇が一層深くなった。
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