女子の二〇〇メートルの準決勝が終わるのを待ってたのよ。
ホーム・ストレートの脇で屈伸していたら、俺、ユニフォームの背中をつかまれた。
「あんた、ゼッケンが曲がってる」
安全ピンでとめたやつを、いったん、はずして直してくれてる。
声だけで、もちろん、わかった。
忘れられるはずがない。
まわりの音が全部消えちゃって、俺、背中だけで生きてた。
「しっかり、走るんだよ」
そんなこと言われて、俺、
「ああ」
って返事すんのが、やっとだった。
伊田は、俺の背中を軽くたたいて、いなくなった。あの夜から、はじめて聞いた声。俺は、背中が熱くなってて動けなかった。
スターティング・ブロックかかえたやつが、突っ立ったままの俺の横を歩いてく。
なんか、とっても、悲しかったね。やっぱ。
あの振られた夜よりも悲しかったかもしれない。
だって、このレース、俺と広瀬の一騎打ちなんだぜ、だれが見たって。こんなときに、俺のこと励ますようなこと、なんで言うんだよ。
中沢らしくね、平気で笑って後ろ向いて、腰突き出して、こっちも触ってよ、とか言いたかった。
ホイッスル。
男子八〇〇メートル、決勝。
俺は四コースだ。
「位置について」
スタートラインに足をつけてかまえる。
きょうは勝ちたい。このレースだけは。
伊田のためにっていうのか、広瀬に勝って見返してやりたい、みたいなのとは違う。ただ、俺のために勝ちたい。中沢が中沢でいるために。
ピストルで飛び出した。
とにかく、まず、第二コーナーの終わりの合流点でトップに立つことだ。
俺の場合、他のやつの走りなんて、どうでもいい。しょうもないかけひきなんてしない。最初にトップになって、そのまま一位でゴールを駆け抜ける。
それが中沢の八〇〇メートルだ。