「起きてくださいよ。高橋さん、起きて。目を開けて」
耳もとに、熱い息がかかる。
「高橋さん、私ですよ、わーたーし」
俺は、肩を揺り動かされていた。
「どうですか、容態は。大きな事故だったらしいですね」
いつもの病室だった。
廊下からの薄明りに、ベッドサイドに痩《や》せた男がひとり立っているのがわかった。
「どうしました? 不思議そうな顔。そうですか、やっぱり本当でしたか」
男は、キョロキョロとあたりを見回す。
「いやあ、それにしてもゴージャスな部屋ですね」
すたすたと歩いていって、洗面所のドアを開ける。
「あっ、トイレだけじゃなくて風呂《ふろ》まで。しかも広い。シティホテルというよりは、リゾートのクラス。あっ、こっちには冷蔵庫発見。冷凍庫までついているです!」
男の動き回る音。
俺は、ようやく目が覚めて、ベッドに上体を起こした。
「ニッポンの病院、すごいね。去年死んだ私のバアちゃん、二十人部屋でしたよ。中国では、死にかけているひとたちが二十人でひと部屋。もう、クサイったらありません」
なんで、深夜に、こいつのおバアちゃんの話を聞いてなきゃならないんだ?
「この個室の費用も、相手側の保険の扱いでしょうか。ニッポンの保険会社、太っ腹あるね」
突然あらわれた面会の客は、壁に立てかけてあった折り畳みのパイプ椅子を開くと、きちんと腰かけた。この病院の他の部屋にたぶん昼間に来ている、ふつうのお見舞いのひとたちのように。
「本当に、私のこと、わからない?」
俺は、うなずく。
「思い出せませんか? 事故の前の晩まで、高橋さんがバイトしてたでしょ? その支配人の陳ですよ、私は。ふつうは、店長って呼んでたでしょ。よく、顔、見てください」
男が、かがみこみ、その顔を近づける。
俺の反応を確かめるように、目を見開いている。
「サリナさん、連れてくればよかったです。高橋さんのこと心配してたし」
「サリナ?」
「あっ、そう。サリナさん。あなた、いま何かわかりましたね、サリナって名前で。思い出せますか? 店の指名リストでは、身長百六十八、体重は載ってません。Fカップってことになってますけど、そんなに大きくはないと思います」
俺は、首を横に振る。知らない。(でも、Fカップ?)
「だめですか」
店長と名乗る男は、悲しそうな目になった。
「前に昼間に来たんですよ。正式に。そしたら、面会謝絶ということで。看護師さんも事務のひとも、高橋さんのこと、何も教えてくれない」
男は顔をゆがめる。
「患者のプライバシーを守るのは当然ですが、どうも、おかしいんですよ。逆に、どんな関係かってしつこく聞かれて。まあ、言いづらいですよ、本当のことは。急に日本語わかんないふりして、中国語でまくしたてて逃げました」
男は胸のポケットから、何かを取り出した。箱から抜き取る。白い棒だ。
その白い細い棒の先に、男は火をつけた。
天井の照明をつけていないから、病室は薄暗かった。棒の先の火が動くのが、俺は気になる。前にも、どこかで見たような。
俺の視線に気づいたのか、男が、
「あっ、これはふつうのタバコです。ハッパが必要なら持ってきますが。もう、病院の暮らしにも飽きてるでしょう?」
なに言ってんのか、わかんねえ。
「で、その後、サリナさんも面会に来たんですよ。親戚《しんせき》のものだって言った。そしたら、どんな親戚かって。高橋さんの親戚はスペインにしかいないはずだって、怪しまれて追い払われました」
タバコという名前らしい棒の先の火が、くるくると円を描いているのを、俺は見ていた。
「妙にガードが固いんですよね。いったい、どうなってるのかって思ってたら、ここの病院の医者が店に来て」
男は天井を見上げる。
そして、数回、クックッと笑った。
「酒飲ませたら、しゃべる、しゃべる。患者のプライバシーは、どこへいってしまったのでしょう。サリナさんにせまられて、オール、ゲロです」
男が立ち上がった。白い棒の火を、ベッドのパイプでもみ消した。
「ま、それで、高橋さんが記憶喪失らしいってわかったんですけど」
男は突然、手を伸ばし、俺のパジャマの前をつかんだ。
「しらばっくれては、あっ、しばらっくるでしたか? とにかく、いけません」
絞り上げるようにする。
すごい力だ。小さいからだのくせに、どこからこんなパワーが出てくるんだ?
「アホのマネして、だまそうって考えじゃないでしょうね。中国人、なめたらいけません」
首筋が痛い。前後、左右に振られる。
「どこにあるんですか? アレですよ、アレ。事故の前の日に、高橋さんに渡したです。大切に預かっててくれることになってたはずです。どこ隠したですか」
もう一度、ギュッと締め上げられた。
俺は、両手を伸ばした。指先が男の服に触れる。
男のからだをつかまえて、振り払おうとしたときだった。
俺は、急に突き飛ばされて、解放された。
ベッドに仰向けに崩れる。喉《のど》がぜいぜいいってて、息をするのが苦しい。ひでえことするなあ、俺は病人なんだぜ。
しばらく、咳が止まらなかった。
横になったままの、涙でにじんでいる俺の目に、店長だって男が映った。
パイプ椅子にすわりこんでいる。静かに、ちょこんと、小さくなって。
「本当に覚えてないみたいですね、高橋さん。弱りました。ニッポンのマフィア、怖いですよ。アレがなくなったりしたら、私、指詰めです。ドラム缶に入れられて、海に沈められるかもしれないのです。ああ」
ひどく悲しそうにしている。
「高橋さんが忘れてて、どっかからへたに出てきたりしたら、最悪です。私にも立場ってものがあります」
男は、しばらく、椅子にすわってうなだれていた。
「まあ、しかたないです。店、もどります。とにかく、思い出してください。そしたら、すぐに連絡、いいですか?」
男は立ち上がり、椅子を折り畳んで、ちゃんと元の壁際のところに立てかけた。そして、さっきの白い棒の燃え残りを拾ってポケットに入れると、手をパンパンとはたく。
むちゃくちゃ乱暴なくせに、妙にきちんとしてるじゃない。
「では」
と言うと、男は数歩進んで窓を開けた。
はいってくるときも窓からだったのだろうか? ロックされていたはずなのに。それに、ここは五階だ。
窓枠に足をかけたまま、男が振り向いた。
「あ、それから。高橋さん、事故にあったとき、北島三郎聴いてたそうですね。よしましょうよ、いまさら」
男は、鼻の前で右手をゆらゆらとさせた。
「あれですよね」
息を吸い込むと、
「親のォ血をひィく兄弟よりもォ、堅ァいィ契ィりのォ義兄弟」
男は抑えた声でうなった。
すげえ、うまいよ。歌じゃなくて、日本語が。
「こんな古い演歌は、よっぽど組織の上の方の、オヤッサンの、そのまたオヤッサンたちぐらいしか聴いてませんよ」